第4話 緋き髪の女性

 その女性は、豊かで長い緋色の髪を背中に流し、サングラスをかけている。

 顔かたちが軽い逆三角形。鼻梁びりょうは定規で引いたようにスッとしており、人をひきつけずにおかない天性の雰囲気のようなものを身につけていた。


「お会計、これでお願いできるかしら」


 女性が、店員に向かって投げ捨てるような口調で言った。


「すみません。つかぬことをお聞きしますが、こちらのお客様とはお知り合いですか?」


 店員が、後々面倒ごとに巻き込まれたくないと言いたげにそう質問した。


「その質問に対し、私が答える必要はないと思うのだけれど」


 女性はサングラス越しに店員を見つめる。


「そもそも、あなたたちは、金額さえ合えばそれでいいんじゃないかしら」


 なんだ、なんだと揃いの制服を着た店員たちがざわざわと蟻のように集まってくる。


「ですが……」


 女性は隠す様子もなくめんどくさそうな顔をつくって、はぁと嘆息した。


「知り合いよ。これでいいかしら」


 だれが聞いていても嘘だとわかるような口調で、彼女は催促をした。

 店員は一瞬、渋面を作りカルトンから五枚の硬貨をとると、


「500円ちょうどお預かりいたします」


 さじをなげたように、レジスターを打った。


「レシートです。有難うございました」


 受け取ったレシートをましろに手渡し、今度は自身の会計をすませると、女性は長い髪をなびかせながら、颯爽と店を出ていった。


 時間にしておおよそ一分程度。

 その間、ましろはただただ呆然としているばかりであったが――


(助けてもらったんだよね? あの人にお礼を言わなきゃ)


 慌てて彼女を追おうとした瞬間、ドン、とましろの身体が何かやわらかいものにぶつかった。

 同時に、先刻嗅いだのと同じ柑橘系かんきつけいの香りがましろの鼻腔に入り込んできた。

 レジ横のトイレからちょうどでてきた、アポロキャップを被った客とぶつかってしまったのだ。


「す、すみません」


 大慌てで謝罪をするましろに対し、小柄なその客はアポロキャップをさらに目深に被りなおすと、自分の席へと戻っていく。

 ましろはその背中を見送ると、慌ててキャリーバッグの取っ手をにぎり、喫茶店から出て左右を確かめる。

 数十メートル先の横断歩道で信号待ちをする人々の中に、ひときわ目を引くような緋色の髪を見つけた。


 濁ったころころという音を立てながら、その場から駆け出す。

 途中、靴先が路上の石か何かでも蹴ったらしく、乾いた音が路面を走った。


 信号が青に変わる。


「すみません、待ってください!」


 ましろ自身、女性の名前を知らなかったため、そのような言葉を背に投げ掛けると、関係のない者達まで振り返った。

 彼ら彼女らはましろの姿を認めると、また視線を前に向けて、横断歩道を渡り始めた。


 そんな中で、くだんの女性だけが振り向いたまま、じっとましろに対し、視線を注いでいた。

 かと思うと、彼女もましろから視線をそらし、その場から再び歩き始める。


「待ってください!」


 ましろも大慌てで地面を蹴って、ゼブラ模様の上を走っていく。


 渡り切った瞬間、打撲した向こう脛のあたりに電流を流し込んだような痛みが走った。


「――っつ」


 急に牙を向いた痛みに、ましろはそのままズサリ、と思い切りこけてしまった。

 バッグの中身が路上にぶちまかれる。

 こけたときに膝を打った痛みも加わっていたが、それを我慢して、散乱した携帯やらなんやらを集め始める。

 幸いなことにバッグの中にそれほど物をいれていなかったため、周りにあったものはすぐにしまうことができた。


 が、一番大きい荷物といっても過言ではない、アイドル雑誌だけが見つからなかった。

 ましろの前に影が差した。顔をあげる。

 そこには緋色の髪の女性が立っていた。

 彼女の手には――


「あっ」


 アイドル雑誌が握られていた。


「何か私に用かしら?」


 女性はましろに雑誌を手渡すと、サングラスを外した。

 一重まぶたであり、巴旦杏アーモンドを彷彿とさせる目が現れる。

 サングラスを外しただけであるにもかかわらず、店内では大人びて見えていた彼女の年齢が、いくぶんか若いようにましろには見えた。


 片耳に手で髪をかけると、女性がもう一度同じ言葉を繰り返した。


「何か私に用かしら?」

「はっ、そうでした!」


 自分を取り戻したましろは、


「さきほどはありがとうございました!」


 深々とあたまを下げ、感謝の意を伝えた。

 リボンで結われた馬のしっぽが上下に揺れる。


「別に感謝される筋合いはないわ」


 ましろの後頭部になんら温度の感じられない言葉が突き刺さる。


「私は時間をお金で買っただけよ。あれ以上待たされるのは私にとって我慢できないことだったから」


 ましろは思わず、頭を上げる。


「はっきり言って、あなたの存在は迷惑以外のなにものでもなかったわ」


 ましろの顔を見据えながら、女性は冷やかに言い放った。


「そもそも、本当にあなたは財布を落としたのかしら」

「えっ」

「あなた、自分で言ってたじゃない。確かに財布をバッグの中にいれたって」

「はい、たしかにいれたんです」

「でも、お会計の際にはなくなっていたのよね」

「そうですね」

「だからどこかで落としたって結論になったっていうわけね」

「はい」

「落とす以外に可能性を考えなかったのかしら」

「落とす以外?」


 女性は、やれやれといった表情で首を横に振った。


「多分、あなたスラれたのよ」

「へっ?」

 

 サングラスを手でもてあそびながら、続ける。


「あなた、大阪の人じゃないでしょう? 地元がどうだったかわからないけど、ここでは結構あることよ」


 女性はサングラスをかけなおすと、最後に一言告げた。


「いい社会勉強になったじゃない」


 彼女の目に浮かんでいたのは、純然たる憐憫れんびんの視線であった。

 それでも、ましろは同情しながら、親切にしてくれた彼女に少なからず好感をもった。

 だからか、――


「あのー」


 そのまま、歩いていってしまおうとする彼女の背に、ましろは声を掛けた。


「まだ何か用があるのかしら?」


 自身の後ろ髪をそっと撫で、女性は振り返った。


「まさか電車賃が足りないから貸してほしい、なんて言うんじゃないわよね?」

「違います、違います」


 自身の目の前で手を左右に揺らし、全力で否定するましろ。


「すみません。私、少し道に迷っていて、もしよかったら道を教えてくれませんか」


 ましろは駄目元でお願いしてみた。

 女性はどう返事をしようか迷っているようだった。

 少し間を取って彼女は口を開いた。


「あなたのいきたい場所を、私が知っているかにもよるわね」


 その言葉を聞いて、ましろは、聖者にでも出会ったような目つきで女性を見た。


「それで、なんてところなのかしら?」

「SEXY NOVA アクターズアカデミー大阪校っていうところなんですけど、知ってますか?」


 女性の表情がほんの一瞬歪んだ。

 丸い二つの瞳は、どこに焦点を合わせるでもなくぼんやりと開かれている。

 彼女がぽつりとこぼした言葉が、ましろの耳朶じだを打った。


「そこはもうつぶれたわ」

「つぶれた!?」


 ましろはすっとんきょうな声を出した。


「ただ、……」

「ただ?」

「そこの母体となっている会社はまだ残っているわ」

「その場所とかってわかりますか?」

「馬鹿な質問をするのね。普通わかってない人間がそんなこと言うと思うのかしら?」


 容赦のない言葉が、矢のようにましろの耳に撃ち込まれる。


「まぁ、いいわ。まず、この道をガーッと――」

「ガーっと?」

「ンン、ン」


 女性がわざとらしい咳ばらいをした。


「まず、この道をまっすぐに行ったあと、二つ目の信号をキュッと――」

「キュッと?」

「ンン、ン」


 女性は再びわざとらしい咳ばらいをする。


「紙とボールペン」

「えっ」

「言葉では説明しにくいから、書いてあげるわ」

「あっ、はい」


 ましろはショルダーバッグの中から何か書くものと、メモ用紙を出そうとした。


「あっ」


 探している最中、ましろは何かに気付いたような声を出した。


「どうかしたのかしら?」

「財布見つかったんです」


 ましろが胸の前に控えめに掲げた財布を見て、女性の頬に朱が差す。


「そう、それは良かったわね」


 一言返し、彼女は何事もなかったかのように自身のバッグを開け、ボールペンとメモ用紙を取り出した。

 すらすらと何かを書くと、それを切り取ってましろに差し出す。


「そこにあるわ」


 バッグにボールペンとメモ用紙を放り込みながら、言う。

 ましろはその地図に目をやった。

 教えてもらっている立場でそんなことを思うのは些か失礼だとは理解していたが、子供が鉛筆でなぐり描きしたような稚拙なもので、何が何やら分からない。


 が、女性の方はそれで役目は果たしたと考えたのか、そのまま去っていってしまった。


 その場にひとり、ぽつねんと残されたましろは天を仰いだ。細く切り取られた空に、雲が飛ぶように動いていた。

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