第3話 ニ次元>三次元

「どうしよう」


 アイスティーの底に沈んだガムシロップを、気だるそうにゆっくりとストローで混ぜ合わせながら、ましろはため息をついた。

 手元に開いている付箋を付けた雑誌を穴があくほど見つめても、掲載されている住所が変わるわけではない。


 先刻見た光景が、ましろの頭をもたげる。


 記載された住所には、現在、雑誌に掲載されているビルと階数自体は同じであるが、似ても似つかないような、アニメやゲームといった二次元コンテンツに関わる建物が建っていた。

 結果、ましろが目的としていた建物への手掛かりはなくなってしまった。

 どこに行けばいいのか、また、その場所を知るために何をすればいいのか分からなくなった。

 しかし、頭を振ってそれらの思考をなくそうとする。


 とりあえず、問題を整理して考え直した。


 そもそも、雑誌が5年前という昔に発刊されたものであったことから、当時のまま建物が残っているとは限らないことを、ましろはうすうす予想はつけていた。

 それでもなお、目的への着手を優先的に挙げており、なかったらなかった時だ、と楽観的な思考でものを考えてしまっていた。

 しかし、いざその建物がないという現実を突き付けられると、入り組んだ迷路に置き去りにされたような気持ちになった。


「はぁ」


 それに輪をかけてましろにとってショックだったのは、目的地がアニメショップに変わってしまっていたことである。

 そこに明確な世代交代を感じてしまったのだ。


 日本がビジネスとしてのアニメーション産業に見直しをかけたのは、アニメーション制作過程の海外移転および国内にいたアニメータ―のことごとくが国外に出てしまってからであった。

 理由については明白で、アニメ―タ―に提示される請負金額が日本と国外では格段に異なったからだ。


 クールジャパンと銘打つ割には、いつまでたっても一部のアニメータ―の労働環境はひどいものであった。

 それは周知の事実であり、何も対策を講じなければこうなることは何年も前から予想がついていた。

 ついていてなお、目に見えて分かるような対策を何もとらなかったのは、ひとえにあと数十年は国外には追いつかれないという慢心が多少なりともあったからだった。


 ビジネスという側面で国外に追いつかれている、いやもしかして追い抜かされているかもしれないと認識してからは、本気でアニメーション産業の復興に取り組んだ。


 ことアニメーション制作においては、買いたたきの事例が多く散見された。

 それを受けて、これまで発注書面の交付および取引記録に関する書類の作成・保存義務にのみかかっていた罰則規定の適用範囲が拡大した。

 また、この時併せて消費税転嫁特別措置法の罰則規定の適用範囲にも見直しがみられた。


 このことから、経済産業省が策定した『アニメーション制作業界における下請適正取引等の推進のためのガイドライン』を再改訂し、これまで指導・助言、勧告・公表に留められていた措置に罰則がもうけられた。

 その他にもアニメーションについて、日本の残すべき芸術として、国が多大な支援をおこなった。


 また、過去の例からアニメーションの収益の大半が、パッケージングよりも配信であったため、製作委員会は露骨なポルノグラフィを前面に押し出したアニメーションについて、国外において多大な規制がかかることから制作数を減らし、国外で配信しても日本とまったく同じ映像で楽しんでもらえるように配慮した。


 それが功を奏し、特に北米とのアニメコンテンツの輸出入が目に見えて増加した。

 もちろんポルノグラフィを含んだア二メ―ション需要は昔から一定層にあることは判然としていたため、少しは残した。


 が、あまりにも露骨なものについては、年齢制限の分野にその役割を譲った。

 要は住み分けを明確にしたのだ。

 さらには少子高齢化ということもあってか、アニメーションは子供が見るものという認識を変えようと、一般大衆が見ても楽しめるようなものを作ることに重きを置いた。


 すぐにその成果は出なかったが、世間の認識は少しずつ変わっていった。


 それだけでなく過去の事例から、声優が演じたキャラクターとして振る舞うライブコンテンツや、それに付随するものも大きな収益をあげることが明白になり、こぞって各社が参入したのも、この時代の大きな特色であった。


 そこまでの事情はアニメーション等に興味がないましろは知らなかったが、自身の出身である周南市でアニメーションやゲーム、コスチュームプレイなどの萌えに関するサミットが開かれており、なにやら人気があるくらいの認識はあった。

 そして、代わりにアニメーションなどの二次元コンテンツが高みにかけのぼっていったのと同じ早さで、生身のアイドル産業が衰退したことについては、嫌というほど知っていた。


 ましろは、汗をかいたアイスティーのグラスを持ち上げて、かつん、かつんと鳴らしてみた。

 そのまま、口に運ぼうとして、その手を止める。


「そうだ電話番号!」


 なぜ、初めに思いつかなかったのか、と自分にあきれながら、グラスを一度机に置く。

 ショルダーバッグから携帯を取り出すと、ぽちぽちと番号を打ち込んだ。


 しばらくすると、お掛けになった電話番号は現在使われておりません、という声が流れたため、通話終了のボタンを押す。


 打ちのめされたようにうつむいて、コップに結露した水滴のしたたりを見つめた。

 今度こそ本当に手詰まりであった。


(もし、場所自体がつぶれているとしたら……)


 その場合はどうすればいいのか、いまのところましろに名案は浮かばなかった。

 溶けた氷で薄まったアイスティーをましろはじっと見つめる。


 時折、チラと立派な構えの建物が掲載された雑誌を、再び眺めていても、なにもわからない。

 堂々巡りの答えらしきものが、ましろの中で焦点を結ぶ。


「もう少し周辺を探してみて、可能性にかけるしかないよね」


 ましろは憂鬱ゆううつな気持ちとともに、アイスティーを胃に流し込み、勘定書をつかむと席を立った。

 そして、傍らに置いていたキャリーバッグの取っ手を握り、レジの方に向かう。


「あっ、すみません」


 少しぼんやりとしながら歩いていたからか、会計をしようとレジに向かう途中、目深にアポロキャップを被った客とぶつかった。


 細く小柄なその者は軽く頭を下げ、ましろのわきをすり抜けると、席へ悠々と歩いていった。

 あとには、その者から発せられた、爽やかな柑橘系かんきつけいの香りだけが残っていた。


「しっかりしなきゃ」


 落ち込んでもいられないと、会計をしている最中ましろは軽く自分の両頬に手を添え、軽く気合いを入れる。


「500円です」


 告げられた金額を支払おうと、ましろはショルダーバッグから財布を取り出そうとした。

 が、――


「へっ」


 ましろの顔が歪んだ。


 あわててショルダーバッグの中からすべてのものを出し、最終的には逆さまにまでした。

 そこにないことを悟ると、キャリーバッグを横にして開き、紛れ込んでないかを確認した。


 それでも、財布は見つからなかった。

 駅で切符を買った時まではあったことを、ましろ自身おぼえていた。

 そして、喫茶店に入る前にも、手持ちにどれだけあるかを確かめるために取り出したので、そのときにもあったのはおぼえていた。

 ましろの記憶の中では喫茶店に入る前に、そのままショルダーバッグの中に入れたことになっていたが、現実として財布はそこにはなかった。


「500円です」


 店員が再び金額を繰り返した。

 ドクドクと心臓が早鐘を打つ。

 本人の意思とは関係なく、ましろの足がガダガタと震え始めた。

 ふと、後ろに視線を投じると、会計を待っている者が何名か並んでいた。


「すみません。財布を落としてしまったみたいで……いま、手持ちがなくてですね」

「どういうことですか?」

「ほんとうにすみません。確かにお店に入るまではあったんです」

「それは、いまこの場でお支払いができないということですかね?」

「そういうことになってしまいますね。本当にすみません。代わりといっては何ですが、電話を預けるのはダメですか?」

「駄目です」


 即答であった。


「知り合いの方に連絡して持って来ていただくことは、できないんでしょうか?」

「すみません。近くに知り合いがいないんですよ」


 ましろの返答に店員があからさまに嫌そうな表情を浮かべた。


「財布がないか、もう一度だけ確かめてもらってもいいですか?」


 バッグをさかさにしてまで、探していたにもかかわらず、見つからなかった以上、探しても無駄だとは思ったものの、ましろはもう一度ショルダーバッグの中身をすべて出した。

 探しながら、チラ、と後ろを見ると、レジに並ぶ列はさらに長くなっていた。

 早く、早くとせっかちに自分を急き立てているように感じる。


「やっぱりないですね」

「でしたら、場合によっては、警察を呼ぶことになるかもしれませんね。私の判断ではなく店長の判断になるので、はっきりとは分かりかねますが」


 ましろは、自分の心臓が口から飛び出すのではないか、と思った。


「警察は困ります! ほんとに、ほんとにそんな意図はなかったんです! さっきも言ったとおり、お店に入るまではあったんです」

「でも、いまはありませんよね。どんな理由があろうと、会計の際に料金を支払えないのであれば、結果としてそれは無銭飲食ですよね?」

「えっ」

「無銭飲食ですよね?」


 無表情で店員が同じ言葉を繰り返す。

 正論すぎてぐぅの音も出なかった。

 ましろは身体に巡る血液が凍結してしまったような気がした。

 恐怖は、あたかも壊れた音楽プレイヤーが同じ旋律を繰り返すように、心の中で再生されていた。


「それでは一度よこによけていただいてよろしいですか? 店長を呼んできますので」

「すみません。もう一度だけ探させてください!」


 ましろが、店員からつきつけられた最後通告に抵抗していると、


「いつまで時間がかかるのかしら」


 凛とした声が響く。

 とともに、カルトンに100円玉が5枚置かれた。

 驚いて、ましろが声のほうに目を向けると、そこには女性が立っていた。

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