第2話 なぜ時の流れはこうも残酷なのか
翌日、ましろは簡単に朝食を済ませ、身支度を完了すると、キャリーバッグになにかを詰め込み始めた。
しばらくして、その作業を終えると、前日に机の上に置いたリボンを手に取り、姿見の前に立った。
鏡の中に、腰まで届くような白髪を持つ自身の姿が写る。
ましろは、ヘアーゴムでポニーテールを結った。
そして、その上から手に持っていたワインレッドのリボンを巻き付け結んだ。
からだごと少し右を向き、それから左を向き、リボンがゆがんでないか確認し、ほほ笑みを浮かべる。
「これでよしっと」
最後に鏡の中の自分を指差し、両頬に手を添え、パチンと音が鳴るほど気合を入れる。
ショルダーバッグを肩にかけると、なにかを詰め込んだキャリーバッグの取っ手を握る。
「戸締りもよし、ガスも電気も大丈夫」
ましろが戸締りを確認し終え、玄関でローファーを履いている時であった。
背後でガタン、という何かが倒れたような音がした。
(倒れるようなものなんかあったっけ?)
不思議に思って、玄関から音の発生源へ足を向けると、立て掛けていたはずのギターケースが倒れていた。
手を伸ばして、元の状態に戻そうとした時、やにわに、かんかんかん、と甲高い警告音がましろの耳に入る。
次いで、電車の車輪が、線路の継ぎ目に接触する際に発生する音が聞こえた。
遠くから響くその音は、しだいにくっきりと像を結び、まだ脳との連絡がうまくとれていない内耳を打ちつけた。
ましろはギターケースの表面にそっと触れ、口を動かした。
ほどなくして、音が収束し、警告音が止んだ。
何らかの言葉を紡いだましろの表情には、ある種の決意がたたえられていた。
ぎこちない指でドアチェーンをほどく。ドアを開くと、春の陽気をはらんだ風がましろの頬をなでた。
「行ってきます」
誰もいない部屋へ向けて、ましろが告げた言葉は、風に乗ることなく、扉の向こうに置き去りにされ、やがて空気中に霧散した
近畿日本鉄道の満員電車に揺られること数十分。
車掌によるアナウンスが到着を告げた後、ゆっくりと止まり、扉が開いた。
雑誌に書かれていた最寄り駅『近鉄日本橋』の文字と、プラットホームの駅名表示を見比べて、雑誌や小物が入ったショルダーバッグを肩にかけ直し、キャリーバッグの取っ手をつかんだ。
そうして、手を上げて降りることをアピールしながら、人の間をすり抜けるようにして、車内から抜け出す。
そのまま前を歩いていた人たちにならい、エスカレーターに乗った。
四角く小さなタイルが貼り詰められている壁面の脇を通り、改札口から出る。
再び別のエスカレーターに乗ると、ゆっくりと息を吐き出した。
その後、キャリーバッグを持ちあげながら、階段を上がりきると、地元とは異なり、そこかしこにおびただしい数の「名前」が氾濫していた。
銀行。居酒屋のチェーン店。ショーケースから甘い香りが、花畑のように匂いたつパン屋。ドラッグストア。古書や古雑誌等が乱雑に並ぶ昔ながらの書店。準備中の文字がかかったラーメン店。
立ち止まり、駅前通りにある店舗の数々に、思わず目移りするましろ。
「いっ――」
通勤ラッシュ時に、そんなましろの存在は、邪魔以外のなにものでもなかったのだろう。
通行人が持つ、かばんの類に向こう脛をいやというほどぶつけた。
どこからこれだけ集まるのだろうと純粋にましろが思ってしまうほど、人波がきりもなく続く。
向こう脛をさすりたいのを我慢しながら、数ある建物のどれかを目指す、おびただしい数の背広や私服の流れにのって、ましろも足を進めた。
まもなく海流にわかれを告げると、膝の辺りが猫柄になっているニーソックスを少しずらして、自身の向こう脛を見た。
「うわぁ」
内出血で赤紫色に滲んでいた。
ましろは大きくひとつ、溜め息をつく。
「出だしから運が悪いなぁ」
しかし、ましろがシュンとなったのは、一瞬だけであった。
「でも、こんなところでくじけてちゃ駄目だよね」
よしっ、と気合を入れるとましろはニ―ソックスを元に戻し、あざを覆い隠した。
そうして、ショルダーバッグからアイドルがでかでかと表紙に写った雑誌を取り出した。
引っ越しに際し、段ボールに入れて持ってきていた約五年前に発刊されたものだ。
ましろは、黄色の付箋を付けていたページを開いた。
カラーの四コマ漫画の下に大きくスペースを割いた囲み記事が掲載されている。
『来たれ! 未来の卵』
文字とともに、深々と瞑想的な青空を背景にして、五階建ての建物の写真が写っている。
そのさらに下に住所、電話番号が書かれ、簡易的な地図が添えられている。
「今がここだから……」
地図に書かれている『近鉄日本橋駅』を指差し、ましろはあたりを見回した。
「多分、ここがあそこで、これがここだから……うん、こっちに行けばいいんだよね、多分」
自身の中である程度の整理がついたのか、しばらくするとましろはころころとキャリーバッグを引き始めた。
道路の両側はずっと店がたちならんでいる。
それはましろの地元ではあまり見かけないような光景であった。
見ているうちに一つ一つの店の中に入ってみたいという気持ちが湧きあがる。
しかし、そのような誘惑に打ち勝って、どんどん進んでいった。
(この道で合ってるとしたら、角を曲がるとコンビニが見えてくる、と)
そう考えながら角を曲がるも、ましろの視界にはコンビニエンスストアらしきものは映らない。
(つぶれちゃったのかな)
もしまだ残っていたとしたらここに建っていただろう、という予想のもと歩いていく。
そういうことを何度か繰り返した後、ましろは立ち止まった。
(この道で本当に合ってるのかな?)
途中までは順調にいっているように思われたが、雑誌自体が五年前に発刊されたものであるため、目印になるような場所だけでなく、道の太さや数さえもあてにならなかったのだ。
ましろは軽く息をつき、気休めにしかならない地図をお守りみたいに手に持ちながら、また歩き始めた。
いくどとなく描かれた地図を眺めなおして、なんとか書かれている住所にたどり着いた。
息を切らして歩いてきたからか、その光景を目に映し、ましろはしばらく放心したように立ちつくしていた。
「ここだよね?」
誰に確認するでもなく、ましろは独りごとをつぶやく。
風が、ましろの前髪に少し触れてから、背後へと抜けていった。
目の前にある現実が信じられず、手に持っていた地図に目を落とした。
「もしかしたら、この中にあるのかもしれないし……」
声には出したが、そんな可能性は1パーセントすらないであろうことをましろ自身理解していた。
理解していてなお、自身の足が勝手に動くのを止めることができなかった。
夢遊病者のようなふらふらとした足取りで、建物の入口へと進んでいく。
とその時、現実逃避をしていたましろを、車のクラクションの音が現実に引き戻した。
ぼやけていた視界がクリアになる。
いったん、ましろは空を見上げた。通行人たちが横目でチラ、と見ながら、ことさら無関心な態度で通りすぎてゆく。
ふぅ、と息を吐き、ましろが視線をどんどん下ろしていく。
すると、現実離れした頭身の少女が描かれた看板が掲げられた、いわゆる世間でオタクショップといわれるようなものが目に飛び込んできた。
店内から漏れる、ガラスを鉄の爪で引っかくような高音域に達する声が、そんなましろの
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