Chapter0.5.白きアマアシ、輝くタイヨウ

第1話 海から来た少女

「ありがとうございました」


 引っ越し業者は、頭を下げると離れていった。戸田ましろはドアを閉め、ロックとチェーンをかけた。

 玄関に置かれた最後の荷物をリビングに運ぶ。

 打ちっぱなしコンクリートのマンションの一室は、未だ誰の色にも染められておらず、別世界のようにしんとしていた。


「ここから始まるんだ」


 ましろは満足げにつぶやくと、ようやく抱えていた段ボール箱をリビングの中央におろした。

 ベランダの方へと目を向ける。

 手薄いベージュのカーテン越しに、日差しがパウダースノーのようにさらさらとこぼれ落ちている。

 カーテンにはベランダの手すりが影絵のように映し出され、ゆらりとした縞を描いていた。

 ましろはベランダへ通ずるガラス戸の方へと歩を進めると、鍵を解き、開いた。


 ふわり、と風が部屋の中に吹き込み、カーテンを揺らす。

 ふいに、絹を絞るような音を立て、ベランダに何かが舞い降りてくる。

 再び風が吹き込み、カーテンが揺れ、隙間からその正体が一瞬、ましろの目に映った。

 それが今度は手すりの上に移動する。

 カーテン越しに影絵を作っていたのは、はとだった。


 ましろがその様をほほ笑みながら眺めていると、スマホが震え、間の抜けた音が静寂を破った。

 ポケットから取り出して確認する。

 どうやら発信主は『母親』のようであった。

 慌てて、ましろが電話をとると、


『もうそっちに着いたの?』


 母親は開口一番そうのたまった。


「うん。さっき着いたところだよ」

「それなら、連絡ぐらいしてくれないと。全然ないから、お母さん心配したのよ」

「ごめんなさい」

「いいのよ、別に怒ってるわけじゃないんだから。でも、無事に着いたようでほんとうによかったわ」


 ふふ、と電話越しに母親が笑う。


「それにしても、これからひとりでだけど、大丈夫? 暮らしていけそう?」

「正直まだわかんない。けど、頑張ってみる。そういえば、結構広い部屋なんだ。私一人だとすっごいスペースが余りそう。お母さんが一緒に住んでも大丈夫な感じ」


 何気なくましろがそう言うと、受話器の底が急に静かになる。


「お母さん?」


 ややあって、電話越しに母親の声が聞こえてくる。


「なんだか急に電波が悪くなって聞こえにくくなってたみたい。そう言えば、山口県と違って大阪府はひったくりの件数が多いって前にテレビでやってたわ。物騒な土地よね。ましろみたいなのは、ターゲットにされやすいから気を付けるのよ」

「……わかったよ。ってまだ片付け終わってないから、切るね」

「あぁ、待ちなさい、待ちなさい」


 ましろが電話を切ろうとすると、母親がそれを阻止した。


「余計なことはせずに、大学生活を楽しむのよ。ましろ、あなたはあなたなんだから」


 母親はいっそう声を低めて言った。


「……うん。それじゃあ、切るね」

「ましろ、それとあの衣――」


 ましろは母親がまだ話そうとするのを、無理やり切る。

 すぐにスマホの電源を落とすと、机の上に置いた。


「お母さん、ごめんね。その約束は守れそうにないや」


 ましろの口から自然と謝罪の言葉が漏れた。ベランダに視線を投じる。

 自然が作り出した静かな影絵劇は、もうその幕をおろし、ただ手すりだけが写っていた。


 カーテンを開き、ましろは部屋の中央に戻ると、荷ほどきを再開しようとした。

 しかしながら、それを中断し、再びガラス戸に近づき、外を眺めた。


「ちょっと地元よりは咲くのが遅いのかな?」


 ましろの眼前の小道には、人々を見守るように両側に桜が植えられていた。

 花はまだ咲いているとは言い難いが、シャンデリアを逆さまにしたようなつぼみが微かに色づき、上を向いてたくさんついている。 

 幹もつやをおび、数週間もすれば、花を咲かせるであろう

 おずおずと漂い始めた春の匂いを感じとった後、よし、と気合を入れると、ようやくましろは積み上げられている段ボール箱に手を掛け始めた。

 一箱目の中には、表紙に同じ女性アイドルが写った雑誌が大量に納められていた。


 その中から一冊取り、ページを何気なくめくる。


『va!l  of t!me!の勢いは止まらない』


 必要以上のストロボをぶつけて撮られた七人の女性たちの写真とともに、そんな文字が躍っていた。

 va!l  of t!me!、通称VOT。

 彼女たちは、かつてその歌声とパフォーマンスで人々を魅了した伝説のアイドルであった。

 パタンとその雑誌を閉じる。ましろは少し背伸びして、それをもとから備え付けられていた棚に収納した。


 その後も、ましろは次々と段ボール箱からものを取りだし、創意工夫をして、空きスペースに次々と収納していく。

 一箱目が終わると、次から次へと手を付けていく。

 何箱目かを開くと、一番上に桐の箱が置かれていた。

 その下には、やはり一箱目と同様にアイドルが写った雑誌が積み重ねられていた。

 ましろは、桐の箱を机の上に置くと、また雑誌を備え付けの棚に収納していく。

 それから、同じように他の段ボール箱のガムテープをはがし、中身を出していった。


 一息ついたときには、首筋や背中から汗が吹き出ていた。


「少し、きゅーけいっと」


 ましろは一つ伸びをすると、洗面台に足を伸ばし、水道水で顔を濡らした。

 タオルをフックから取って顔を拭く。


 蛇口を締めると、片付けをしていた間には大して気にかけなかったが、たとえようのない静寂が部屋を満たしていることに気付いた。


「そうだ掃除しなくちゃ」


 初めて感じる行き場のないような、もの悲しい静謐

せいひつ

から気をまぎらわさせるために、わざわざ、ましろは次にしようとする行動を口に出した。そさくさと一度収納した掃除機を取り出す。


 ましろは掃除機の電源を入れたまま、その場から動かすことはなく、ぽつりと言葉をこぼした。


「本当にこれから私一人でやっていけるのかな」


 独り言を言う度に、われに返り、掃除機を動かし、やがて少しすると再度手を止め、言葉をこぼす。


「アイちゃんも、ういちゃんもここにはいないんだよね」


 無意識のうちに、そのような動作を何度か繰り返す。

 そのうち、部屋が綺麗になった、と判断したましろは掃除機をかけるのを終了し、机の上に置いた桐の箱の前に立った。

 そして、ガラス細工でも取り扱うかのように丁寧にふたを開いた。


 中には、ワインレッドのリボンと一枚の写真が収められていた。

 写真の方は、姉である戸田輝赤

へたきせき

が山口を出て、大阪に行く前日にましろがせがんで撮ったものだった。


 もともと、輝赤は写真が嫌いで、彼女が写っているもの自体が少なかった。

 それに輪をかけてましろと一緒に写っている写真など両手を使えば数えられる程度であった。

 奇跡的に二人きりでおさまっている写真でも、ぶれていたり、輝赤が顔を隠していたりとまともな写真がなかった。


 じっと視線を注ぐ。写真を撮った当初には、ましろ自身ときおり眺めることはあったが、ここ二、三年ほどはずっと桐の箱にしまったままであった。

 だが、決して忘れていたわけではない。

 それどころか、その写真は常にましろの心の中にあった。


 二度と撮影できない姉との写真。

 それが、ましろの頭の中にあった記憶の粗朶に火をくべる。


『ましろ、頼みがある――』


 電話越しに聞いた、今は亡き姉による最後の言葉を思い出し、ましろは奥歯を噛み締めた。

 胸のなかに浮かんだひとつづきの場面が、つらくなって。


「今度は私がお姉ちゃんに返す番だよ」


 つぶやき、ましろは姉が写っている辺りを人差し指で優しく指でなぞった。

 一瞬、それを写真たてにでもたてかけようとしたが、辞めた。

 そうすることによって、それが遺影か何かのようになり、あらためて姉の死を実感させられるような気がしたからだ。


 しばらくその写真を眺めると、リボンだけを取り出し、おびただしい記憶と一緒に再び箱に封印し、それを棚に納めた。

 その後も、ましろの片付けは横道にそれて、なかなか終わらなかったが、太陽だけは刻々とその位置を変えていた。


「終わったぁ!」


 両手を上にあげ、ちょうどバンザイのポーズでもとるかのようにして、ましろは何気なく、ガラス戸の方に目を向けた。


「って、えぇ」


 驚きの声が漏れる。硬質ガラスの向こうには、光の粉をばらまいたような夜景が映っていた。

 横道にそれてはいたものの、片付けに集中していたあまり夜になってしまっていることに気付かなかったのだ。


 簡易的な夕食を済ませ、シャワーを浴びる。

 電気を消し、ましろはいかにも疲れたといった表情で、布団に倒れこみ、天井付近の黒と灰色の濃淡を眺めた。

 そうして、その暗闇をつかもうとするかのように手を伸ばす。


(お姉ちゃんも今の私と同じように寝転がりながら、こうやって同じような光景を見ていたんだよね)


 そう考えるのにもわけがあった。

 ましろが借りた部屋は、生前姉が使用していたものであったのだ。

 母親はそのことについてあまりよくは思っていなかった。

 彼女にしてみれば、娘の死はあまり思い出したくない事象だからだ。


 やにわに、遠くから救急車のサイレンの音が聞こえた。

 ズキンという痛みを伴ったざわめきのようなものがましろの胸中に広がる。

 事故があった日、電話越しにサイレンを聞いてからは、いつもこうだった。規則的な音はまとまったメロディには聞こえず、がさがさと無規律な音が跳ね回るようにしか思えなかった。

 濃い静寂のかなたから、微かな声が伝わってくるのをましろは感じた。


『それだけが心残りだった』


 ましろの頭の中で何度繰り返されたか分からない、かすれた女声。

 最後の言葉を聞いた翌日、他に世間的に見れば大きな関心事があったからか、姉のことは社会面の片隅にわずか数行で片付けられていた。


 トンネルの出口でセンターラインをこえて走ってきた対向車と正面衝突により、死傷者および重傷者が数十名。


 死傷者の中に、アイドルグループva!l of t!me! の一員であり、ましろの姉でもある戸田輝赤の名前が含まれていた。

 社会にとって数行の活字に過ぎない。

 誰にでも起こりうる、ごくありふれた事故。

 そんな処理の仕方であった。

 たしかにそのとおりではあったが、仮にも国民的アイドルに対して、そのような取扱いがされているのが、ましろにはなんだか解せなかった。何かの力が動いたのか、と疑ってしまったほどであった。


 数日後、事故のせいで、一ヵ月後に控えていたVOTの7thメモリアルライブが中止になったことで発生する、チケット購入者への返金総額がいくらにのぼるかということがでかでかと掲載されていたのが、その気持ちに拍車をかけた。

 天井へ向けて伸ばしていた手をぎゅっ、と握り締める。


「私がお姉ちゃんの意志を引き継ぐから」


 濃淡にぼやっと浮き上がった姉の姿が、次第に消えていこうとする頃、ましろの意識は深いシーツの海に沈んでいった。

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