第2話
一九九一年七月十日。第四世代人工全能の〈精製〉実験が行われた。
第四世代人工全能の成功体は、たったひとり。
人工全能の精製は極めて難しく、唯一の第一世代ヒヅルが誕生してから今回の実験までの間に五百体もの精製が試行されたが、現存するのは二十四人のみ。後は精製中ないし精製後に肉体が崩壊して死んでしまったか、あるいは何らかの障害を持って生まれてきたため、〈処分〉されてしまったのだ。
生まれた小柄な男の子は、第一世代唯一の成功体であるヒヅルに
「あゝ。ヒデル。何と可愛らしい子でしょう。
鼻息の荒いヒヅルは、ヒデルの精製を担当した若手の研究員に、そう訊ねた。研究員の名は、
「か、かまわないよ。唯一の第四世代だから、丁重にね」
「あゝゝゝ。可愛い。天使よ」ヒヅルは星二の言葉が聞こえていないのか、まだ生まれて間もないヒデルに夢中で頬ずりしていた。不快だったのか、ヒデルはぎゃあと喚きだした。
「だめよ。ヒヅル。乱暴にしたら」
星二の助手である
「ごめんなさい。つい興奮を抑えられなくて」ヒヅルが深々と
「かか、彼は逸材だよ。ヒヅル。こ、今後の教育次第では、き、ききき、君に劣らぬ逸材に、成長するかもしれない。将来が実に楽しみだ」興奮を隠しきれなくなったのか、星二が
「私たちの最初の子だから、大切に育てなきゃね」明子が誤解を招くような言い回しで言った。事実、ヒデルは星二と明子が始めて精製に成功した〈人工全能〉であった。
人工全能たちの一日は、朝の基礎体力訓練に始まり、格闘や射撃、兵器の扱い方などといった軍事教練、それから一般教養や世界各国の言語や文化、ヘリオスの素晴らしい理想や統一世界政府構想といった思想教育、その他ハッキングやら(過激な)運転講習やら、資格を要する専門職業知識、異性の口説き方に至るまで一日六、七時間徹底的に仕込まれる。それらが終わると、炊事や洗濯、清掃といった当番制の仕事。後は施設から出ないかぎりは自由に行動することが許されている。
「アルマのやつ、またへばったのか」旭が呆れ気味に言った。
朝の基礎体力訓練は並の人工全能にとって大した負荷ではなかったのだが、例外も存在した。第三世代人工全能のひとり、アルマ。彼女は生まれつき肉体が脆弱だったが、知能が高かったため〈処分〉を免れた個体であった。肉体的な強さは訓練で補えると当初研究者たちは考えていたようだったが、いつまで経っても訓練についていけるようにはなれず、基礎体力訓練では毎日のようにへばって教官の手を煩わせ、白眼視されていた。
「人にはそれぞれ向き不向きがあるものですよ。旭」
ヒヅルは訓練中にもかかわらず、アルマに駈け寄り、手をさしのべた。
アルマは半べそをかいていたものの、ヒヅルの手をとると、「えへへ」と苦笑いした。
「何をしているのかね。ヒヅル君。早くランニングを続けたまえ」
てっぺんあたりまで後退した生え際が印象的な格闘教官である
「アルマはもう限界です、教官。一度休ませるべきかと。これ以上の継続は非効率です。私が彼女の分も走ります。私はまだ余裕がありますので」
ヒヅルは落ちついた調子で、その神秘的な黄金の瞳で剣持の眼を見据え、毅然と主張した。口調こそ柔らかだったが、その視線からは一歩も退かぬ強固な意志とでも言うか、有無を言わさぬ圧力のようなものが、感じられた。ソ連共産党守旧派の大物ゲンナジー・イオーノフを暗殺し、ソ連を崩壊に導いた功労者として、ヒヅルは今やヘリオス期待の新星として上層部から注目されており、将来指導層の人間として剣持の頭上に君臨するのは確実であった。それを理解しているのか、小心者の剣持は今は教官と教え子であっても、ヒヅル相手には強く出られなかった。
「ふ、ふん。そこまで言うなら仕方ないな。いいだろう。ただし、君がアルマの分も走りなさい」
「お安い御用ですわ。ほゝゝゝ」
ヒヅルはアルマを軽々とお姫様だっこし、鍛錬場に隣接している休憩室まで運んでいった。
「ヒヅル。ごめん。私のせいで」まだ十歳を迎えたばかりの子供であったアルマは、心底申し訳なさそうに顔を下に向けていた。
「良いのですよ。アルマ。あなたが誰よりも一生懸命だったのはわかっています。あなたにはあなたにしかない武器がある。周りの声を気にする必要などありませんよ」
「私にしかない武器って、何」ヒヅルの言葉が意外だったのか、アルマは眼を丸くして訊ねた。
「それはいずれ明らかになることです。とにかく、今は身体を休めなさい」
ヒヅルはアルマの頭を軽く撫でると、微笑みながらものすごいスピードでランニングのノルマを易々とこなした。
ヘリオスには当時極秘であった人工全能研究を監督、指導する〈人工全能研究指導委員会〉というものが存在した。高神や剣持は教官として人工全能たちの教育や訓練を行う傍ら、この極秘研究が表に出ないよう、そして研究結果がヘリオスの利益として活かされるよう、監督する任務を与えられていた。
アルマに対する指導委員たちの意見は、ヒヅルとは異なっていた。いつまで経っても成長の見られないアルマを生かしておくのは経費の無駄であり、〈失敗作〉と認定して速やかに処分を。そんな声が出始めたのは、ヒデルが誕生してから四カ月ほどのことであった。
「アルマはどうしたのですか。教官」
ある日、軍事教練の最中にアルマの不在に気づいたヒヅルが、射撃訓練の教官である
高神は淡々と告げた。「知らなかったの。彼女は〈失敗作〉として処分されることになったわ。練習を続けなさい」
「待ってください」
ヒヅルは銃を置き、防音用イヤーマフを外して高神に迫った。
「処分とは何ですか。殺すのですか」
「成長の見込めない彼女の維持コストを払い続ける意思が、上にはなくなったということよ。あなたたち〈人工全能〉の維持管理には、多大なコストがかかっている。それもこれも、組織の将来を見据えた投資であることを忘れてはいけないわ。ヒヅル、あなたはとても優秀だから大丈夫よ。安心なさい。さあ、射撃を続けなさい」
まるで電話の音声案内の如き無感情な口ぶりで、高神は言った。彼女は人工全能のことなど作業用ロボット程度にしか考えていない。ヒヅルにはそう思えたのだ。
「話はまだ終わっていません」ヒヅルはあくまでも食い下がった。今度はやや強い口調だった。「アルマは、私の妹です。殺すとは何事ですか。断固抗議します」
だんだん鋭い口調で迫るヒヅルに、高神は
「旭。月世。ヒヅルを連れ出しなさい」
ヒヅルの倍はありそうな旭の豪腕が、ヒヅルの首を抱えこんだ。そして月世が小さな声で「ごめん」と呟き、しかし訓練用とはいえ実弾の込められた銃を頭に突きつけると、さしものヒヅルも沈黙するしかなかった。高神は小心者の剣持とは違い、若くして実力で現在の地位をもぎとった精鋭であり、いくらヒヅルが将来の大物であろうが一歩も退かなかった。
「私を失望させないで。ヒヅル。感情に流されるようでは半人前よ」
射撃訓練場から追い出されたヒヅルに、もはや高神の言葉は届いていなかった。
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