白金記序章・黎明編
Enin Fujimi
第1話
秘密結社ヘリオス。
力による世界の統一を目論むこの巨大組織では、とある極秘プロジェクトが進められていた。
〈人工全能計画〉――遺伝子改造によって従来の人間よりもはるかに優秀な新人類を創出し、ヘリオスによる世界支配を盤石にする強力な駒とする。そんな計画だった。
そして優秀な〈人工全能〉の中でも、最高傑作と呼ばれた者がいた。
ヒヅルは〈人工全能〉の中では最も初めに生み出された第一世代であった。が、人工全能の精製は極めて難しく、彼女以外の第一世代人工全能は肉体を維持できずに〈崩壊〉してしまい、この世に生を受けることすら許されなかった。
そう。ヒヅルは第一世代唯一の生き残りであると同時に、突然変異体であった。言ってしまえば、研究者たちのまぐれによって誕生した、奇跡の個体であったのだ。続いて第二、第三世代の〈人工全能〉が生み出されたが、ヒヅルを超える能力を持つ者は未だ存在しない。
唯一の第一世代人工全能として、常人の数百倍、あるいはそれ以上の速度で学習を進めるヒヅルは、すでに全世界の言語を操り、数々の世界記録を塗り替えるほどの身体能力を持ち、ヘリオス屈指の実力者である
第二次世界大戦後、アメリカと世界を二分した超大国ソビエト連邦。かつては世界初の有人宇宙飛行を成功させ、夢の科学先進国とまで呼ばれていたこの国は、中央政府による厳しい管理体制下で生じた深刻な経済政策の失敗で、一九八〇年代初頭にはアメリカや日本に比べ二十年遅れていると言われるほどに疲弊していく。西側では貧乏人ですら買えるカセットテープレコーダーが、東側ではソ連の高級官僚ですら手に入らなかったという冗談みたいな話があるが、実話である。しかしながら硬直的かつ秘密主義的な風土、厳しい階層組織構造が災いし、改革は難航。ダメ押しに一九八六年に発生したチェルノブイリ原発事故の対応を巡り、ソ連共産党内部の守旧派と改革派が真っ向から対立。後の新生ロシア初代大統領となるボリス・エリツィンが台頭してくる。
秘密結社ヘリオスにとって、ソ連崩壊は長年の夢であった。西側資本主義を世に広め、ブラックメロン家を頂点とする統一世界を作るには、共産主義の総本山ソ連はいかなる手を使ってでも排除したい最大仮想敵国だったのだ。
ヘリオスはエリツィンに接近し、〈ロシア国民戦線〉を設立させ、裏から多額の資金援助を行った。その後一九九一年一月にソ連がバルト三国に軍事介入し、多数の死者が出、国内の反政府感情はますます高まっていく。そんな中エリツィン一派は求心力を高めていくものの、ソ連共産党守旧派の層は依然厚く、あの手この手で改革派の鎮圧を試みていた。中でもゲンナジー・イオーノフという男は、西側諸国に融和的なゴルバチョフを失脚させ、ソ連共産党の次期最高指導者に成り代わろうとしていた大物中の大物である。ゴルバチョフが党内で求心力を失いつつある中、ヘリオスにとってもっとも潰したい人物であった。
だがある日、イオーノフが突然失踪する。
彼はヒヅルによって、この世から抹消されてしまったのだ。
この頃すでにヒヅルは社会主義各国での諜報活動も任されており、変装においてはもはや芸術とも呼べるレベルで、ごく短時間で完全な別人に顔を変え、ありとあらゆる国や機関に潜伏し、情報を収集しつつ、イオーノフ以外にも有力者を次々と排除していった。そんな彼女は姿なき謎の殺し屋として恐れられていた。実のところヒヅルの本当の顔を知っているのは、ヘリオスの中でも高神麗那や人工全能研究の関係者くらいのものである。
ヘリオスの〈制裁〉は、実に容赦がなかった。逆らう者は当事者のみならず、一族郎党皆殺し。それが原則であった。反逆の芽を完全に摘み取るには、暴力と恐怖による統治がもっとも効果的であり、手っ取り早い。そしてヘリオスという必要悪が唯一無二絶対の存在として世界の頂点に君臨し、秩序を作るのが理想とされている。結局のところ人間の歴史とは戦いの歴史であり、武器を捨て、平和を愛すると謳った民族は虐殺されてきた。それが現実である。
「あんな手も足も出せない幼子まで殺す意味が、果たしてあったのですか」
ヒヅルは重苦しい口調で、高神に訊ねた。泣き叫び許しを乞うイオーノフの家族、特にまだ幼かった孫娘たちの悲鳴が、ヒヅルの脳裏から離れなかったのだ。
「意味はあるわ。まずは見せしめ。ヘリオスに楯突く者は、本人はおろか一族郎党皆殺しにされる。一方で反乱分子の排除に協力した者には手厚い報奨を与える。そうすれば、将来の反乱の芽を、容易に摘むことができる」
ヒヅルの上司であり、教官でもある高神麗那は、酷薄な笑みを浮かべてそう言った。死を
ヒヅルの任務遂行は、完璧だった。迅速かつ痕跡を残さず敵を抹消するその完璧さから〈神隠し〉とまで呼ばれていた。が、一方で彼女はまだ経験が浅く、ヘリオスの敵を忠実に排除する殺戮マシーンになりきれていなかった。
「あまり深く考えてはだめよ。ヒヅル。割り切りなさい。たとえ個々にとって非人道的なことでも、ヘリオスによる世界統治が盤石なものとなれば、本来戦争で失われるはずだった多くの命を救うことができる。大局で物を見るようにしなさい。そうすればあなたは私よりもはるかに早く幹部に、そしてゆくゆくはグレートオリエント、世界を統治する器になれる」
結局高神に言いくるめられてしまったヒヅルは、くたびれた顔で食堂へ戻った。人工全能たちの食事の準備は当番制で、今夜はヒヅルが当番の日であった。
「疲れた顔をしてるわね。ヒヅル。今日は私たちがご飯を作るわ。ヒヅルはゆっくりベッドでくつろいでて」
「いや。私ひとりでやる。月世はヒヅルと一緒にくつろいでていいぞ。何もしなくていい。いや、何もするな」
台所で調理準備をしていたヒヅルを、同じくらいの背丈の男女が出迎えた。背丈だけでなく、髪型や顔立ちまでもがそっくりだったが、雰囲気は対照的だった。
いつもは面倒くさがりな月世が、今日はいやに張り切っていた。腕まくりをし、手に持ったフライパンをバドミントンの如くぶおんぶおんと振り回す。陽はそんな彼女から無表情ですばやく手を伸ばしフライパンを取りあげてしまった。
「ちょっと。何するのよ」月世が眉を寄せて抗議する。「私だって、その気になれば料理のひとつやふたつ。い、言っとくけど、こないだのはちょっと油断しただけだからね。私だって人工全能の端くれ。本気を出せばすぐに」
月世の料理音痴は周知の事実であり、以前にも料理当番を申し出たことがあったのだが、その
「いや。人には向き不向きというものがある。それは我々人工全能とて同じだ。いいから、私に任せなさい。ただでさえ
「何だとテメエ。もういっぺん抜かしてみやがれ。スカしたツラアしやがって、むかつくんだよ」
いきなりチンピラヤクザのような口調になった月世が陽に飛び蹴りを食らわせようとしたが、突如背後から髪をひっつかまれ、派手に転倒した。
「お前らヒヅルをこれ以上疲れさせてどうすんだよ。今日は俺がやる。ヒヅルは寝てろ。いいな」
金色の行書体で「一撃」とプリントされた赤いタンクトップを着た筋肉もりもりのマッチョマン――第二世代人工全能の
翌日。久々に休暇を与えられ、図書室で優雅に紅茶を飲みながら本を読んでいたヒヅルの元に、月世が慌ただしく駈けこみ、興奮気味に叫んだ。
「ヒヅル。朗報よ。私たちの新しい家族が誕生したわ」
「わお。本当ですか」
ヒヅルも興奮を抑えられなくなり、月世と一緒に鼻唄まじりにスキップしながら研究室へと向かった。
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