見覚えのある姿 2
***
古海和成という男は、もともと外に出ることを好まない。
小学生の時、学校までの通り道にそこそこ大きな屋敷を持つ同級生が住んでいた。同級生と特別仲が良いというわけではなく、教室ですれ違うときに挨拶をする程度のものだ。もっとも、元気のいい子供らしい「おはよう!」という声に、毎回肩をびくつかせ、会釈だけで済ませるのが和成だ。
周りの子供と一緒になって遊ぶことが少なかったため、声をかけられるたびに雷が落ちたような衝撃に身を震わせていた。
要するに人慣れしていないのだ。
その同級生の家には一匹の犬がいた。かなりの大型で、自分によくなついていることを友達に事あるごとに自慢するため、よく耳に残っていた。多くの子が実際に見たことはないのだが、両手をめいっぱい広げて、大声で話すその子の話を周りの子供たちは目を輝かせながら聞いていた。みんなの憧れだったのは間違いないだろう。
和成はその同級生のことが苦手だった。
よくよく聞いてみればたいしたことのない出来事を、さも大事件が起きたかのように興奮しながら話す姿は、中身のない演説をして回る大人のようだった。遠くから見ているだけなのに、その存在が無視できない。誇らしそうな顔が目に入ると、理由は分からないが腹立たしく感じてしまう。吐き出しようもないその感情を、当時の和成は分からなかった。
和成が生きてきた中で見たこともないほど大きな犬を見たのは、同級生の自慢話が披露された日の帰り道。夏の日差しの眩しい午後だった。
門の外、頑丈な格子の向こうに例の犬がのっそのそと歩いていた。
自分の体を二つ並べても足りない、白くて柔らかそうな毛に包まれた生きもの。初めて目の当たりにしたその姿に、和成は家路を急いでいることも忘れて目を奪われてしまった。大きな目に大きな口。息を吐くたびに体が揺れ、口から覗く犬歯は健康的に白く光り、飼い主に可愛がられていると分かる。
触ってみたい、と和成は思った。素直な感情だった。
彼の家は同級生の家ほど大きいわけではない。裕福でもないし、生きものを飼うほどのスペースもない。母親が過保護で、遊んでいる暇はあまり与えてくれない。学校が終わればすぐに帰宅し、宿題と通信制の塾講座が始まる。それが終わるころには晩御飯が準備されており、流れるように風呂を促され、体を拭き終わるころには夜も更けている。外で遊ぶという習慣は、和成の生活では成立しえなかった。
整えられた道路を歩くだけの生活。楽しいわけでも、苦しいわけでもない。ただ何も感じることがなく、感情も薄い日々だった
だから自分の中の衝撃が何なのか、和成には原因は分からなかった。しかし、今までにない感情に背中を押されて犬の方に近づいたとき、いつもより心臓の音を大きく感じていた。重くて動きそうもない鉄格子の門は自然に開き、小さな手を犬の鼻先に向けて一歩踏み出していた。
瞬間、犬が吠えた。
びりびりと、周囲の空気が揺れる。世界がひん曲がって見えた。尻もちをつく。
何が起きたか分からないまま、ゆっくりと顔を上げた。そして、固まった。目の前で凶悪な形をした歯がカチカチと鳴る。がりがりと地面を削る爪の音が、尻の肉全体から響いてくる。荒い息遣いのせいで、呼吸が浅くなる。
食べられる、と和成は思った。今までに感じたことのない危機だった。
気づけば走っていた。できるだけ遠くへ行こうとした。思考が浮かんでは剥がされる感覚が気持ち悪く、和成はひたすらに家を目指した。遠くで午後5時を告げるチャイムが、変わらぬ調子で流れ始める。
その日の帰り道は、とても果てしなく感じた。人生で初めての危機体験はおぞましい現実感を残して扉を閉じた。
このときから、和成は家から出るのを嫌うようになった。
転機が訪れたのは大学2年の初夏。葉に透けて漏れる日の光が、きらきらと眩しい、空気のきれいな午後のこと。
和成は授業の合間に、大学の図書館で課題をやっていた。窓際一番端、出入りの激しい受付や入り口付近から離れた位置が、和成の指定席だ。「哲学とは何か」ということについての哲学の授業のレポートに向かって、「哲学」と打ったまま画面は変わっていない。「私の頭では到底理解できないが、理解するために学んでいくものだと思う」と答えにならない答えを打ち込もうとしたとき、スマホが鳴った。マナーモードにするのを忘れていたせいで、ブブーーッと大きな振動音とともに着信音が静かな聖堂に響く。
突然のことに焦りながら、急いで音を消す。”山城和佳奈”と表示されていた。メッセージを開くと、和佳奈のお気に入りのスタンプとともに旅行への誘いが送られてきていた。
「やほー!そろそろ海外、行きたくない?ということでトルコに行くよー!レッツゴー!」
晴れやかな空気が伝わってきたが、意味不明すぎた。外の空気が嘘なんじゃないかってくらい底抜けに明るい誘い文句だった。
珍しいな、と和成は思った。
和佳奈に旅行に誘われた経験は、知り合ってから一度もない。彼女の旅行は基本ひとり旅なのだ。
知り合ったころにはすでに日本国内を歩きつくしていた彼女は、「四国八十八カ所巡りってさー、ロマンだよねー」と言って、この前1周したと言っていた四国に飛んで行った。
「やっぱり座ってばっかよりも歩き回る方が性に合ってるわー」
土産話といつもの愚痴を聞くたびに、大学で真面目に勉強している自分が馬鹿らしく思えた。
ひとり旅ばかりなのも性分らしく、他の友人と連れ立っていくときは、たいてい付き合いや誘われたからと、流れで仕方なく参加しているらしい。見せてもらう写真も和佳奈が映ったものは一つもなく、いやいや行っているのが分かる。
「旅行は自分の行きたいときに行くもの」と言う彼女にとって、誰かとの旅行は持論に反するため、心から楽しむことはできないのだろう。
そんなソロプレイのプロである和佳奈からの不自然な誘い。
妙な気配を感じ、打ち始めた返信を途中で消して、「テストがあるから無理だ、すまないな」と淡白に返した。
するとすぐに「そっかー」と返ってきた。そのあと会話は続かず、やはり何かの間違いだったんだと思った。
しばらくして「やはり哲学は私には難しい」と無理やり締めくくったレポートを提出するため、授業のある教室へ向かった。
その日の授業はレポートの提出のみだった。早く帰れることに得をした気分で教室を出ると、「すとーーっぷーー!」とやたらと元気な声が廊下に響き渡った。
恥も外聞も無視したような声の主の方を振り向くと、スーツケース片手に仁王立ちしている女性のシルエットが浮かび上がる。ホットパンツに5分丈の白Tシャツ、頭には少し大きめの麦わら帽子。顔を覆う大き目のサングラスを額まで上げながら声の主がにやりと笑う。
見た人間はこんな友達を持ちたくないといわれること請け合いの格好で、和佳奈がそこに立っていた。色落ちしたクリーム色の廊下の壁と真反対の、風景を拒否するような立ち姿。
数少ない友人の、風景に見合わない服装に和成は口を曲げて頬をひきつらせた。陽気な格好は、課題もテストもやる気つもりはないと宣言しているようで、いっそすがすがしかった。
課題を出しに来たのが遅かったこともあり、他の学生の姿はなかったが、和成は早くこの場を離れたいという感情でいっぱいになった。
あれは獲物を見つけた狩人の目だ、間違いない。ふふんと鳴らす鼻息がやたらと大きく聞こえてくる。
目をそらして、廊下を反対向きに進もうとしたところで、肩をつかまれた。ものすごい力だった。
「待ってよー、和成くーん!まさかとは思うけどー、今日食べる晩御飯、まだ決まってないんじゃないかなー?」
「な、なんでわかるんだ。確かにこれから晩御飯を買いに行こうと思ってリストを開こうとしていたが・・・、というかお前に僕の今日のこれからの予定を教えたつもりはないんだが」
「ふふーん、和佳奈さんはー、和成くんの考えていることなら手に取るように鼻が利くんだよねー」
「手に取るようにわかるのか、鼻が利いて直感が当たるのか、どっちなのか議論しようじゃないか」
「おっと、訂正ー。和成くんの行動は手に取るようにわかる上に、思考の癖には鼻が利いてしまうんだよねー」
「・・・恐ろしい人だな、君は」
うまいこと話をそらそうとしたが会話の下手な自分にそんな芸当ができるはずもなく、結局つかまれたまま動けなくなってしまった。
和佳奈と知り合って時間がたっているにせよ、一挙手一投足、生活行動のパターンを把握できるほど、一緒にいたわけではない。同じ屋根の下で生活しているわけでもないし、和佳奈がどんな家のどんな部屋に住んでいるかも、和成は知らなかった。
なのにそれをすべて把握しているとまで言ってのけるとは。本当に何か仕込まれているんじゃないか?同級生ながら、目の前の女が怖くなる。
疑いの視線をどうとらえたのか、和佳奈は誇らしげに小さな鼻をふふんと鳴らす。
「それでー、どう?晩御飯ー」
「・・・お察しの通り決まってないな」
「それなら私と食べに行こうよー!いいとこ知ってるんだー」
目をキラキラさせた同級生がずんずんと迫ってくる。和成は気迫に負けて前に進んでしまう。
「ちょっとだけ遠いんだけどねー」
ずんずん。
「交通費にお金はあまりかけたくないんだが」
さっさっ。
「大丈夫ー!それくらいなら払ってあげるからー」
ずんずん。
「変なゲテモノ料理が出てきたりしないだろうな」
さっさっ。
「とんでもない!おいしい料理ばっかりだよー!世界中の人に愛されてるんだからー、私も月に一度は食べないと気が済まないんだよねー」
ずんずん。さっさっ。ずんずんずんずん。さっさっさっさドカッ。
無意識に踏み出していた足が堅いものに阻まれた。振り返って背中と頭を壁に預ける体勢になる。背筋を伸ばしてさらに逃げようとするが、そんなことはお構いなしに和佳奈は迫ってきた。
身長に比して小さな顔が和成の目の前で止まる。薄く化粧を施して柔らかい印象だが、目は相手を捉えたままでいっそ恐怖。緊張とは別に、捕食者の強い気持ちにつかまって身を固くした。
「・・・準備くらいは、させてくれよ」
肩の力を落として脱力し、和成は降伏を宣言した。こうなっては完全に和佳奈のペースで、気迫と真剣な気持ちを無碍にできる人間はいない。和成も例に漏れずその一人だった。
軽く微笑んだ口元をさらに上げた和佳奈は「よっし、決まりねー!」と、先ほどよりも素直な笑顔を見せた。両腕を高く掲げ、勝利のガッツポーズとともに喜びをかみしめている。
こうして和成のトルコ旅行は強制的に決まった。テスト期間最終日、これからの夏が熱くなることを予感させる、涼しい風の音がする午後だった。
周りに人がいないことと、アルバイトでためたお金がまだあることだけが救いだと、飛び跳ねる笑顔を尻目に和成は思った。
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