見覚えのある姿 3

 ***


 中庭に注ぐ日の光がだんだんと弱まって、周りの風景が黒ずんでくる。木の周りで飛び回っていたハトが、さっきまでの元気さを忘れたように枝に大人しくとまっている。

 ものものしい雰囲気の中に少しだけ落ち着いた部分があるみたいだった。


「思い出したみたいだねー」

「ああ、この置物を買ったのは僕だ。あのときのトルコ旅行だね」


 そう、思い出した。この部屋の一室にずっと置いてあったこの置物の違和感にやっと気づくことができた。

 いつの間にか和佳奈の顔は微笑みに変わっていた。トルコ旅行に誘ってきたときと同じ、目の奥にワクワクを秘めた顔。あのときと全然変わっていない。

 和成は和佳奈の腕の置物に視線を移した。一点の汚れもない、純白の猫の置物。単行本と同じくらいの大きさで丸っこくデフォルメされているが、確かに猫をかたどっている。目を閉じて口角をあげている顔は、和佳奈に撫でられて気持ちよさそうにして見える。まるで本物の猫のようで、毛並みもほどほどにつけられている。


「でもどうしてこの部屋に置かれているんだ?」

 正体が分かったとはいえ、和成は疑念を感じていた。

 置物だからどこに置こうが勝手だろうが、それにしてもそぐわない。畳と異国の置物の組合せがこんなに悪いとは思わなかった。というより、そもそもこの置物がここにあることがおかしかった。


「さっきお前は、この部屋にあるのは思い出だといった。その言葉から考えるなら、この部屋にあるものは全てお前のものだということになる。パッと見た感じ、写真に撮ったところの土産物がこの部屋にあるんじゃないのか」

「ちゃんと見てないのによくわかるねー」

「そうじゃないとさっきみたいな台詞は出てこない。思い出発表会に連れてこられた身としてはたまったもんじゃないがな」

 和成は不満を垂れながら続ける。


「その思い出発表会に、どうして僕が買った猫の置物がある?君に渡した覚えはないぞ」


 確かに和成は旅行先で色々と買ったのかもしれない。記憶の片隅に追いやられていたからはっきりとは思い出せないが、アクセサリーや現地の服くらいは買っただろう。今の今まで忘れていたから、置物が家に置いてあったかは分からない。


「たしかに僕は一緒に旅行に行った。最後の課題レポを提出して一息つけると思ったところで連行されたからな」

「ひどい言い分だなー、君は嬉しそうについてきてくれたじゃないー。晩御飯に困っていた苦学生を助けてあげたんだよー」

「言いがかりだ、僕は嬉しそうにした覚えはないぞ。というかお前も同じ学生だろ」

「こんなにかわいい女性に誘われたから断れなかったくせにー、なまいき言うねー」

「別に、そういうわけじゃない。お前の誘いを断ると、周りの人たちからの視線が痛いんだ」


 和佳奈はよく笑い、天真爛漫な性格で友人が多い。そのためか、男女問わず色々な人に好かれている。大学内ではちょっとした有名人だった。

 交際相手も何人かいたが、和佳奈自身、身持ちが固いので変な噂は全くといって聞かなかった。長く続いたのでも半年くらいらしい。


 その代わり和佳奈と歩いているところを見られるだけで、周りからの視線はだいぶ変わった。世間は思ったよりも狭いらしく、人気者の相手をするだけで羨望の目で見られる。

 以前、和佳奈と偶然図書館に居合わせ、昼食に誘われたので一緒に外に出ると、出入り口で変な寒気を感じたことがある。今日は中華の気分だなー、と暢気な気配の横を歩きながらちらりと背後を盗み見ると、数人の男女が黒いオーラをまといながらこちらを見つめていた。そのあとに食べた麻婆豆腐は、辛いからなのか、寒気を感じたままだからか、味が分からなかった気がする。

 あまり覚えていないけど。


 まるでアイドルのように扱われる彼女の周りには、「親衛隊」と称するファンクラブのようなものが存在していた。といってもそれほど大きな組織ではない。誰が始めたのかわからないが、和佳奈とよく一緒にいる女の子たちもメンバーらしかった。彼女たちに目を付けられると最後、思いもよらない未来が待っていると、まことしやかに噂されていたのだ。

 和佳奈と仲良くしていた男子学生が一時期姿を見せなくなり、数カ月後には同性愛に目覚めていたなんて話もあった。かなり危ない臭いしかしないが、本人には気づかれないように活動していたようで、和佳奈にそれとなく聞いてみても首をかしげるだけだった。


「ファンクラブかー、まるでアイドルみたいだねー。ま、私にそんなものがあるなんて聞いたことないけどー」


 中華料理店からの帰り、チラホラと感じていた冷たい視線に気づくことなく、和佳奈が言った。本人が気づかないことへの恐怖と、自分に迫る危険への不安で、歩く速度が少し速くしたが、和佳奈が歩くスピードと同じだった。

「お、なに勝負ー?どっちが速く駅までつけるか競争ねー」

「いや、別にそういうわけじゃ・・・」

「よーしスタートー!」


 勝手に進んでいく彼女を追う形で駅までの道を走り歩く。一度は並走したが結局いつものように半歩後ろを和成が歩く形になった。焦る自分を見ながら、明るい笑顔で和佳奈が言った。

「ちゃんと追いかけて来なよ!たとえ私がアイドルみたいじゃなくなってもね!」

 そんなこの世の終わりみたいな言葉がお昼どきのビジネス街に響いた。


 あのときの言葉の意味はあまり覚えていないが、とにかく周囲の視線が痛かったのは覚えている。というか思い出した。

 どこでもないところに視線を合わせて思考を回していると、ふふと勝ち誇ったかのような和佳奈の顔に気付いた。腕の中の猫の置物も一緒になってこちらを見つめてくる。

 なんだか分からないが、なぜだか負けた気分だ。あのときの勝負はどっちが勝ったんだったか。


 それよりも、と和成は咳払いする。

「その置物だ。僕が買ったものだということも分かった。トルコ旅行での土産物だということも分かった。その僕のものが、どうして僕の手元ではなく、お前の部屋にあるんだ?」

 興奮して立ち上がる和成を見つめていた和佳奈が、小さくため息をついた。


「ちょっとー、まだわからないのー?」

「まだってどういうことだ、お前はもうわかっているのか?」

「まあ、わからなきゃ、そんなこと聞くはずないよねー」

「なら教えてくれ」


 迫るように捲し立てる和成を和佳奈が見返す。先ほどと同じ、真剣な顔に戻っていた。答えてくれないのではと、和成は一瞬焦ったが、和佳奈が口を開いた。

「よく考えてみなよ。それは君が買ったもので、この部屋の中にあるものはすべて私のもの。答えは一つしかないと思うけど」

「それって・・・」


 シンプルな返答に戸惑いながらも、和成の脳内で閃くものがあった。

「僕がお前に買ったお土産だっていうことか?」

「正解ー!ご名答だよー、さすが和成くーん!」


 和佳奈の軽やかな声が返ってきた。猫の置物を抱えたまま、器用に拍手。

「なるほど。同じ旅行先に行って、その記念に買ったってところか」

「そーゆーこと、よかったねー思い出せてー」


 そういうことなら腑に落ちる。人と比べても、和成には物欲があまりない。買い物は必要最低限のものだけで、遠くにいって何かを買いに行くこともなかった。修学旅行でディズニーランドに行ったときには、皆がミッキーのぬいぐるみや被りもの買うのを見ているだけで、それらを和成が手に取ることはなかった。もし買っていたとしても、実家へのお土産か、必要に迫られての買い物だろう。


 和成が自分のために何かを買うことはまずありえない。

 となると、これを買うきっかけを作ったのはやはり和佳奈だろう。この猫に一目惚れして、せっかくだからと買うように迫ってきた。自分は抵抗したと思うが、なんやかんや理由をつけられて買う羽目になった。そんなところだろう。


「よかったよかったー、ちゃんと思い出してくれて-」

「まあ、記憶力はある方だからな」

「さっきまで忘れてたくせに、どの口が言うのさー」

「言われてるうちに思い出したんだよ。記憶喪失はしてないから問題ない」

「どうだかー」


 シラを切る自分を試すような口調で和佳奈がつぶやく。和成は明後日の方向を向きながら、もとの位置に座りなおした。和佳奈も座布団に座り、猫の置物を机に置く。


「ということは、僕が思い出さないといけなかったものっていうのは、これのことだったのか・・・?」

 腑には落ちたが、どうも納得できずにもやもやした感触をぬぐい切れない。だが何かの道筋にはなる気がする。


 白いワンピースに身を包んだ伶の顔が浮かぶ。

 目の前の風景に圧倒されていたが、本来の目的は記憶の断片を探すことだ。和成が山城カフェに来たのは偶然ではあるものの、結果として自分の忘れていたことを思い出すことができた。和佳奈の気まぐれで来たも同然だったが、思わぬ幸運が舞い込んできたようだ。


『身近な人に尋ねてみるのも、一つの手だと思いますよ―――』


「物は試しってことか。尋ねてみるものだな」

 伶の言葉を思い出しながら、そういえばと腕時計を見る。いつの間にか午後六時になろうとしていた。先ほどまでは赤みがかっていた庭も夜の色に変わり始めている。さすがに色が落ち込んだからか、木にとまっていたハトは見えない。


「そろそろ帰らないとまずいな」

 和成の家から山城カフェまではだいぶ離れている。ここが最寄り駅からどれだけ離れているかわからないが、今から帰って家に着くとすっかり夜だ。

「あれ、もうそんな時間かー」

「暗くなる前に帰ろうと思っていたが、これはもう仕方ない」


 そう言いながら立ち上がり、和室を後にしようとする。すると、待ってと和佳奈が手首を握って動きを止めた。

「送っていくよ、車あるから」

「え、いやでも、もう遅いし」

「ううん、こんな遠くまで連れてきたのは私だし。さすがに来たことない街を一人で歩かせるわけにはいかないよ」

「大丈夫だ、駅までの道なら覚えてる。まだ空は少し明るいし、バスもこんなに早く終わるなんてことはないだろう。電車に乗れればこっちのもんだ」

 それじゃ、と敷居を跨ぎ縁側に進んだが、和佳奈は手首をつかんだまま離さない。和成が振り向くと、不満と不審を口に含んだようなむくれ顔でこちらをにらんでいた。

「どうしたんだ?」

「うそ」

「何が?」

「駅までの道、覚えてるわけない、絶対うそ」

「そんなことない」

「じゃあ、ここから一番近いバス停までは歩いて何分?そのバス停から駅まではどれだけ離れてる?どのルートのバスに乗ればよくて、仮に乗れたとして運賃は?ちゃんと足りる?」

「お前は僕のお母さんか?」

「ほら、どうなの?」


 割と真剣みを帯びた顔で、和佳奈がずいっと寄ってきた。先ほどの真剣さとは違い、今度は友人を心配する、優しい和佳奈の顔だ。

 思わず言い返してしまったが、その指摘は的を射ていた。来るときは半分考え事をしていたし、軽快に進む和佳奈についていくことに必死だった。周りを見る余裕などない。一番近くのバス停が門を出て右か左なのかもわからない。

 これは自分の記憶力以前の問題だった。


 黙り込む和成の背中を和佳奈が両手で押してきた。二人で縁側を進んでいく。

「だと思った。観念しなさいなー、ほら行くよー」

 いつもの間延びした言い回しに戻った和佳奈に押されながら、カフェに繋がるドアを開ける。縁側を出る瞬間、暗い庭で明るいものを見た気がした。

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