見知らぬ街へ 1
昼下がり。渋谷の街は活気づき、人であふれる。
和成にとってはスーツにくるまれた体を動かし、次の面接先で話すことを確認しながら目的地に向かうだけの作業が行われる場所でもある。普段のルーティンと化している単純作業。誰の邪魔にもならないように、かつ誰の邪魔も許されない、非常にシビアで緊張感を持った重大な行動。AIで決められた道を進むのが渋谷に来たときの日常だった。
しかし今日はスーツでもなければ面接でもない。気負う必要も、そうであることを思いつく余裕ももないまま歩く渋谷は、人の流れがうねって見える。不規則に波打つ嵐の下の海のようで、なかなか先に進めない。荒波を越えてきた中世の海賊や、戦時中の軍隊の苦労が分かるようだ。何が起こるか分からないまま、ただ先へ進むことの恐怖、こんな場所で感じられるほど舐めたものではないのだろうが。
先を行く和佳奈が、ときどき振り返りながら人波の中を進んでいく。自発的に進むことに慣れていないせいで、何度も人やガードレールにぶつかる和成を尻目に、彼女はするすると進んでいく。数えられないほどの旅行で人の動きというものが分かっているんだろう。顔ははっきり見えないが、笑っているに決まっている。からかうような、いつもの笑顔で。
何も無いところで蹴躓いたり、何度目かのすみませんと口にしたところで、人の少ない少し開けたところに出た。駅前広場。少ないと言っても、大勢の人が広場の端を歩いていて、人の入れ替わりは激しい。奥まったところで外国人がハチ公像と記念写真を撮っており、地下鉄入り口の裏や駅の壁際で多くの人が待ち合わせをしているようだ。
いつも通りの光景のはずだが、どこか新鮮な風景に見える。きっと普段は目の前よりも、目的地とそこで話すことにしか頭を使っていなかったからだろう。真っ黒なたくさんの壁としか認識していなかった風景が、明るい表情と活気に満ちた喧騒で彩られている。本当にここは渋谷なのだろうかと、少し不安になる。
見渡すと視線の先に和佳奈が立っていた。誰かと電話をしていたようだが、和成が近づいたところでこちらに気が付き、スマホから耳を離した。
「遅かったねー、お疲れさまー」
こちらの苦労や不安を少しも気付いていない、字面だけの労いに聞こえる言葉が降ってきた。人にぶつかりすぎて、体と心が疲れたのは当たっているから案外外れてはいないかもしれない。
「もう少し待ってくれてもよかったじゃないか。相変わらずささっと進んでいくな、お前は」
「ふふーん、羨ましかったらー、キミももっと外に出て歩くことに慣れるといいよー。普段から寝転がってばかりじゃあ、筋肉が落ちて脂肪がたまって重くなって、いざというときに走れなくなるよー。困るよー」
気疲れして肩で息をする和成を見て、和佳奈は鼻を高くして生活習慣を改めさせようとする。これは気遣われているわけではなさそうだ。
「別に寝転がってばかりいる訳じゃない。というか就活で方々歩き回っているんだ、そんな心配は無用だね」
「むーん、その心配だけってわけでもないんだけどねー。…まあそれはよしとしてー、ひとまず電車に乗ろっかねー」
和成の抗議を脇に置いて、和佳奈は改札に向かって歩き出す。
マイペースな性格には慣れたものだが、相手の状況をあまり考えてくれない点は和佳奈らしいといえば和佳奈らしい。よく一緒にいるようになったばかりの頃、自分はもちろん周りの連中も隣を歩くだけでよく苦労していたのを思い出す。
普通に歩く分には疲れないのは、この頃から鍛えられていたからかもしれないが、休日の渋谷にチャレンジするにはまだ早かったようだ。流石に長い付き合いで加減は理解してくれているのか、初めよりは待ち時間をくれている気はする。昔ならすでに目的地で待ちぼうけをしていたに違いない。
昔と少し違って見えたが、やはり同じ背中に溜息をつきつつ、駅に向かってついて行く。
人でごった返す改札を通って向かう先は山手線のホームのようだ。通るときにどこに向かうのか聞いたが、むふふと笑うだけで答えてくれなかったため、目的地がどこなのかは和成には見当もつかない。旅行でもあるまいし、すぐにつけるような場所ではあるはずだが。
そういえば過去を見つけるためのアクションについても分からないままだ。定番なところでいえば思い出の場所に行くとかだろうが、和成にはその発想がぴんと来ない。頭の中で思い出を掘り起こせばいいと思っているため、自宅に連れ返されるものだと考えていた。が、それにしてはアクションと言葉を使うには弱い気がする。自宅で何かを見つけようとしているのだろうか。
しかし、和佳奈が向かったのは和成が住む方向とは逆、外回り線のホームだった。いつもは使わないホームに立っているのに、いつもと同じ方向から電車が来る。都会の駅らしいと言えばそれらしい。変な感覚に頭が混乱して、危うく乗り遅れるところだった。
先に乗っていた和佳奈の隣に立ち、ほっと一息をつく。和佳奈は窓の向こうの景色のさらに遠くを見ているようだった。ぼーっとしているようで何かを考えている、そんな瞳。丸く大きくて、目の前の楽しいものを見逃さないように開かれた、きれいな瞳。
和佳奈にはときどき黄昏る癖みたいなものがあった。こういう時には話しかけても反応がないことも、和成は知っている。彼女と同じように窓の景色の向こう側を見ようとして、ふと見覚えのある影を目の端に捉えたような気がした。
今朝見送ったばかりの、小さくて明るい白い影。
捉えようと車内を見返したが、影はどこにもない。休日の喧騒を少しだけ入れ込んだ電車の中は、いつも以上に人が多いと感じた。
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