過去からの届けもの 5

 しかし忘れたといわれた記憶、か―――。


 『それが何かを知るのも、知るためのカギを見つけるのもあなたの仕事。』


 白ワンピースの少女は、眩しい曙光の中でそう言っていた。光の中を駆けていく足元の黒が鮮明に頭にこびりつく。目を惹きこまれるようなあの黒い影を追っていれば、今ごろもう少しカギとやらに近づくことができていただろうか。

 体を引き、手元のコーヒーカップを持ち上げて、ずずっと啜る。いつもと同じコーヒーを頼んだはずなのに、いつもより濃い苦みが舌を撫でる。いい答えも思い浮かばないので、正直に答えた。


「いや、それがさっぱりわからないんだ。僕自身の忘れものが何なのかも、それを知るための手がかりも自分で見つけないといけないらしい」

「ふむぅ・・・なるほどねー、それはなかなか難儀なことだー、うん」

 カップを持ち上げてゆるりと回し、香りを楽しんでいた和佳奈が呟く。かなり砂糖を溶かしていたはずだが、和成のコーヒーと色はそれほど変わらない。白い砂糖が大量に混じった元ブラックコーヒーはいったいどれほど甘ったるいのだろうか。おそらく、飲んでいる本人の思考の方向性と同じくらい、甘々なものに違いない。近寄ると毒になりかねない、そんな恐ろしさを秘めているのだろう。

 和佳奈がゆっくりとカップを傾けて、甘い毒を口の中へ流す。


「ところでその白いワンピースを着た美少女ちゃんはどこから来たのか言っていたのー?」

 カップを口から話した彼女が不意に疑問を口にした。

「いや、聞いていない。名前しか教えてくれなかったな」

 そういえば彼女について、伶という名前以外になにひとつ細かい素性を聞いていない。見た目だけでいえば中学生くらいだろうが、どこからどうやって来たのか見当もつかない。そもそもどうして僕のことを知っていたのだろうか。


「ますます謎だねー。んー、でもキミの記憶が欠けていることを知っているっていうことはー、少なくとも前に会っていることがあるっていうことなんじゃないかなー?そうじゃないと、キミが誰とどんなことをしていたかまではわかるはずがないしー」

 たしかに、そうかもしれない。


 記憶というものは自分が過去の体験をトレースする、あるいは五感で認識した物事を再確認する際に必要となる、情報で編み上げられた服みたいなものだ。初めて遊園地でジェットコースターに乗った時の浮遊感、何度も音読することで暗唱できるようになった小説の一節、おいしくて感動した料理の味の鮮烈さなど。それらを思い出すきっかけになることに直面したとき、自分に残る強い記憶から作り出された過去を着こむことで、過去の自分を追体験する。脳内に記録された様々な感覚を肌で、目で、耳で、口で、鼻で、疑似的に感じることなのだ。

 そして、記憶の残し方は全く同じということはない。五感の捉え方、重要性の位置づけは人それぞれ違うし、一部を感じることのできない人は他の感覚が敏感であったりする。同じ自然を目の前にして、草原の色と空の色の対比が素晴らしいという人もいれば、鼻を抜ける土と草、動物の生きた匂いが強烈だという人もいるのは、こうした違いが原因と言えるだろう。

 自分の記憶と他人の記憶が全く同じ成り立ちであるということは、限りなく可能性の低い事象だ。両者が全く同じ感じ方で、全く同じ思考回路で、全く同じレベルの感覚を持っていないといけないのだから。他人の記憶の欠落に口出しができるのは、同じ思い出を共有しようとする人間か、さもなけれれば妄想癖をこじらせたストーカーまがいの変態でしかしようといないのだ。


 ということは、やはりどこかで伶と会ったことがある。あの白いワンピースの少女と何か思い出を共有するような出来事があったはずなのだ。しかしこんな暗い雰囲気の人間をストーカーしようとするような中高生と知り合った覚えはない。下手をしたら犯罪者扱いをされてしまう。僕はまだそこまで落ちぶれちゃいない。


 コーヒーの表面に映るランプの灯りが怪しく揺れる。テーブル席や他のカウンターの客は互いに談笑し、変わらぬ日常を楽しんでいる様子だ。大人が過ごす、安定と安らぎに満ちた豊かな喧騒。そんなカフェの一角、カウンターの端で黙り込んだ2人だけが静寂に包まれたような感覚になる。日常とは違うどこかを生きているような不安定感。目の前に現れた不自然な現実に確信を持てない、当たり前を享受できないかわいそうな人間として、周囲の人間に取り残されている感覚。


 この感覚をどこかで得た覚えがある、と和成は思った。自分には関係ないと思っていたことが突然断ち切れないほど身近なものになる現実。いつも通りの場所にいるはずなのに拭えない居心地の悪さ。同じような経験を、いつかどこかでしたような気がする。

 いったいどこなのかという疑問で思考が停滞し、すっかり冷めたコーヒーカップを両手で包んでいると、和佳奈がそうだと手を叩いた。


「この際さー、白ワンピースちゃんが誰なのかはあとで考えましょーよ。今はとにかく記憶を取り戻すためのアクションを起こさないとじゃないかなー。いつまでもだらだらコーヒー飲んでるだけじゃ進まないでしょー?」

「アクションといっても、具体的に何をしようっていうんだ」

 少女の正体を探るのをダメ出しされたようで、反感するようにして答えると、和佳奈はコーヒーをグイっと飲み干した席を立った。

「決まってるじゃん、キミの過去を見に行くのよー。そろそろ届いてるはずだしー、ちょうどいいわ、ね!」

 そのまま荷物を持ってレジの方へ向かう彼女を追うように、慌てて席を立つ。カウンターを離れたところで彼女が振り返り、「それ忘れないよーにねー」とカウンターを指さした。いつの間にか学生証が、和佳奈の飲みかけのコーヒーカップの横にきちんと置かれている。出鼻をくじかれたような顔で意地の悪い同級生を見やると、いつものようにからかうような笑みを浮かべた。

 「今日のところは割り勘でよろしくー」と自分の料金だけ払い、そのまま扉を開けて出ていく。先を行く余裕が大人らしく見え、和成は急にカフェにいることが恥ずかしく感じてしまった。 

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