過去からの届けもの 2
「伶・・・?」
聞きなれない名前に思わず聞き返す。そもそも大学時代までに碌に友人ができたこともない。当然女性も。たまたま授業が一緒だったとかだろうか。
「そんな名前の知り合いに心当たりはないけど」
「その方が覚えやすいかと。“令”の字に“亻”をつけて伶、簡単でしょう?令和になったことですし」
今のなかなかうまい例えじゃないですか、と自分で言って満足している。うんうんと頷き、楽しそうに微笑む顔はこの世の悪を知らなさそうな純粋さに満ちている。
自分で言っちゃうのか、そういうウケのよくなさそうなギャグ。令和をイメージするのなら桜色とか桃色とか、もう少し華やかでもいい気がする。政府がそう言っているのだから。
「まあいい。とりあえず事情は分かった。ならその忘れものをおいて、さっさと帰ってくれ」
状況理解はしたが、伶がいまだに自分の部屋に居座ることに納得いかない。手を振ることで、帰れとの意思表示する。
しかし和成の手を見つめたままの伶はその意図を理解しかねるようで、無視して話を続けた。
「いえ、帰れません。というより、忘れものは手渡せるものではないのです」
「・・・言っている意味が分からないんだが」
「言葉の通りです。あなたは大事な、忘れてはならないものを忘れている。私は、あなたにそれを思い出してもらうために、ここに来たんです」
伶はすました顔のままだ。目の奥には嘘をついているような素振りは見えないし、このタイミングで虚勢を張る理由もない。むしろそんなことをする暇があるなら帰ってほしい。
「そう言われても、身に覚えがない。僕が一体どこで、何を忘れたっていうんだ?そんなに大事なものか?」
「大事も大事、あなたの一生に関わることです。形として残るようなものではありませんが、過去確かに経験していること・・・、あなたの頭の中に眠っているものです」
「・・・つまり、僕の記憶ということか?」
「そう、あなたの記憶です」
「ばかばかしい」
和成は語気を強めて言った。初対面とはいえ、分かったような口を利かれるのは癪に障る。
「僕は物覚えがいいんだ。忘れているはずがない。自分に大切な記憶なら、それこそ毎日思い返しているさ」
心外だ。自分の細やかな楽しみを馬鹿にしているのか。
和成は目の前の不遜な態度をとる少女に食ってかかった。毎日の行為がさみしいものであるとは自覚しつつも、それを他人に指摘されるのは話が違う。筋違いだ。それを指摘していいのは自分だけだ。さみしいことだが。
「・・・なんだか寂しい人に聞こえるんですが」
「うるさい、ほっといてくれ」
口に出されてしまった。何の恨みがあってそんな寂しいことを言うんだ。
和成は胸がキュッと締め付けられる感覚を覚えた。
そんな就職浪人の心中を知ってか知らずか、伶は役割を果たそうとするように話題を戻す。
「いいえ、ほっておけません。記憶を取り戻さないいけない人が目の前にいるのを見捨てられません。自覚があるのなら、あなたも感づいているはずです。毎晩思い返しては孤独の慰めにしている、その大切な記憶から漏れてしまった部分があるということに」
「・・・」
大仰な声に聞こえたのは気のせいだろうか。やはり哀れまれているようにしか聞こえない。全力で抵抗してやりたい。
和成は真面目な空気を茶化すように、嘲りながら聞いてみた。
「惨めな就職浪人のニート野郎をいじめに来たのか?」
「思い出してもらいに来たといったじゃないですか、もう忘れたんですか?」
むくれっ面になって反論を返す。不機嫌な顔は年相応という感じで、今までに見た印象との違いでかわいく思えてしまった。
動揺が顔に出ないよう、和成は軽く咳払いをする。再び真面目そうな顔に戻った伶を見て、これ以上押し問答しても無駄だと思った。
相手に合わせるように、少しだけ姿勢を正して伶とまっすぐ相対する。
「わかった。なら思い出させてくれよ、僕が何を忘れているっていうんだ?」
その言い分、乗ってあげようじゃないか。
言葉は真剣ながら、小さな子供を試すような口調で和成は問いかけた。
しかし彼女から返ってきたのは、凛と澄むような、ぴしゃっと突き放すような、自分勝手にも聞こえる言葉だった。
「それはあなたの仕事です、記憶は私のものではありませんから」
「なんだそれは。無茶苦茶だ、せめてヒントをくれないと」
「それも自分で思い出してください。どの記憶が欠けているのかがわかるのはご自分だけですから。・・・あ、でも何でも覚えているのなら、それも思い出せるのではないですかぁ?」
指先をくるくる回しながら無責任に言う。後半は口を片手で覆い、からかうような調子で言ってのけた。嘲笑を隠せていない。
いちいち癇に障るなぁという感情を抑え、和成は再度返答を促す。
「それじゃあ答えになってないだろう」
「では今日のところは帰ります」
和成の堪えは虚しく、あっけらかんと出た言葉でその場はお開きとなった。
にわかに振り返った伶は、床に散らかったものをするりと抜け、玄関に向かっていく。まるで以前見た幻影のように、部屋の宙をふわりと舞って背中を隠した。
慌てて和成も後を追う。すでに遠い背中に待ったをかける。
「ちょっと待ってくれよ、まだ終わってない。さっきの答えはどういう・・・」
「また明日来ます。思い出したかどうか確認したいので。先ほど言った課題、ちゃんと思い出しておいてくださいね」
それから、と言いながら伶は黒いスニーカーをすぽりと足にはめた。そのまま振り返り、薄い笑みとともに何事かを告げる。
「自分で覚えていると思っていることほど、それはひとりよがりになります。自分で認識しているものと、他人によって認識されているものが必ずしも一致するとは限らないのです。分からなくなったら身近な人に尋ねてみるのも、一つの手だと思いますよ」
意味深な言葉を残し、では、と玄関を開けて朝の光に溶けていく。ワンピースに光が反射して見えたせいか、外はやけに明るく見えた。一瞬目の前が白く染まる。
詳しく問い詰めたかったが、街を照らす日の光に立ちすくんだ。ようやく光に目が慣れたころには伶の姿は遠く、ただ見送るしかできなかった。角を曲がったら駅が近く、朝でも人通りはそこそこある。追いかけたところで小さな背中は追えないだろう。
「なんなんだ、いったい・・・」
追うのを諦め、中途半端に履いた靴を玄関に放る。廊下を進んでいると、スマホにメッセージの着信があったのが聞こえた。頭をガシガシと掻きながら部屋に戻り、机に放ってあった画面を確認する。
和佳奈からだ。朝早くに送ってくるとは珍しい。何か急用でもあったか。
「おつ~。昨日カフェで学生証忘れてたぞ~。いつものところで待ってるから取りにおいで~。そ・れ・か・ら、面白い話、期待してるからね~笑」
文面でも間延びした言葉遣いは和佳奈らしいと言えば和佳奈らしい。半ば呆れながら、携帯を戻す。そのときに日付表示が見え、今日が土曜日だということに気付いた。幸か不幸か、今日面接の予定はない。
「ひとまず取り返しに行かないとな、忘れもの」
面白い話なんてないぞ、と和佳奈のからかう顔の妄想を払いのける。今日は朝からからかわれてばかりだ。せっかくの休みなのに・・・。
“すぐ行く”と短く返信してスマホを閉じる。面接もないからわざわざスーツを着る必要もない。私服をクローゼットから取り出しながら、久しぶりにスーツ以外を着ることに思い至った。
何を着るかと、少し悩んでいると先ほどの少女とのやり取りを思い出した。不躾な少女とからかい上手の和佳奈の顔が重なる。スーツを着ていないとからかわれそうで、無性に気になった。
朝から振り回されてばかりだが、そうはいかないぞ。
そう思いながら、和成はバッと服を出し、早々に着替えて家を出た。
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