過去からの届けもの 3
渋谷駅から明治通りを北上し、歩いて5分ほどにある路地を曲がる。ビルが林立するエリアにひっそりとたたずむ、レトロな雰囲気の喫茶店。和成が学生時代からたびたび通う行きつけの店だ。気にかけなければ素通りしてしまうのに、よく見ればそこだけ異空間のような、個性的な入口を構えている。外から店内が見えづらいのも魅力の一つだ。
待ち合わせるときは、どちらともなくこの店に向かっていることが多い。1日中コーヒーを飲んでただ話すこともしばしばあったので、勝手知ったる場所なのだ。喫茶店というのが正しいのだろうが、呼称は現役学生っぽくカフェと呼ぶのが定番だった。スタバのような感覚でマスターには失礼かもしれないが、なかなかその癖は抜けない。しかしそれだけ愛着がわくのも事実だった。
自分の背丈ほどの高さの木のドアを開けると、ゆったりとしたジャズが耳に届く。喧騒の街に疲れた体に、落ち着いた曲はよく染みる。
カウンターとテーブルで分かれた店内は天井が低めで、オレンジ色のランプが内装を明るく照らす。夜のバーのように落ち着いた光は、木目の色と混ざり合い、より深く濃い姿を見せてくれる。天井は低いが奥行きのある店内は、座れば案外広く、光の量を絶妙に整えていた。
間を通っても椅子にぶつからないギリギリで配置されたテーブルは、客同士の会話の邪魔をしないいい距離感を保っている。丁寧に磨かれたカウンターの向こう側に立つバリスタとの距離も、ギリギリで互いの手が触れるようになっており、1人1人の客を立てる心遣いを感じられる。
和成にとっては、終始落ち着いた雰囲気で安らげる、お気に入りの空間の1つだ。
カウンターの奥から2番目。すでに来ていた和佳奈が雑誌を眺めていた。昔からよく眺めている旅行雑誌のようだった。
大学時代、サークル以外でも友人と旅行にしょっちゅう出かけるほど旅行好き。バイトで稼いだ給料の半分以上は旅行に費やしたと言っている。ハワイやバリ島、フランス、アメリカなど、様々なところに入っているのにもかかわらず、まだ行き足りないというが、何がそこまでさせるのだろうか。
細かい経緯や行先は忘れたが、和成も一度だけ連れていかれたことがあった。奔放な彼女と旅行を楽しむには覚悟がいるため、正直なところ二度と行きたくないというのが本音だ。
「あれ~、今日は早いじゃ~ん。もしかして私と会うのが楽しみだった?やだー、やらしーいー。昨日会ったばっかりじゃ~ん」
「伝えておいた時間通りだろう、誤解を招くようなことをわざわざ言うな」
間延びしたいつもの口調で話しかけてくる。茶目っ気たっぷりな挨拶だが、あえて恥ずかしがって答えるような寛容さはない。もっとも、反応がないことは和佳奈も百も承知なので、わざわざ同じことを続けることはない。傍から見れば陽気な女性に足蹴にされる陰気な男という構図かもしれないが、その手の想像には慣れてしまったので訂正しないでおく。こういうのは、否定したほうが負けなのだ。
背後を抜け、和佳奈より1つ奥の席に腰を下ろす。和佳奈はいつものように頬を膨らませて不満を示すが、すぐに機嫌を直したように話し出す。
「つれないねー。でも来てくれてよかった、危うく学生証を墓前に飾ることになるところだったからね」
「怖いことを言うな、どうしてそうなるんだ」
いきなり何を言うのかこの女は。親しき中にも礼儀ありを守らないか。
一言余計なことを言ってくる和佳奈を冷ややかな口調で一蹴する。
会話のスタートが毎回これでは疲れそうだと、見た人は感想を抱くかもしれない。なのに2人がまだこうして会っているのかは、どこかで気の許せるところがあるからだと、和成は思っている。長い付き合いともなると、それも変わらない日常の1つだが、不愉快なものではなかった。
「はい、キミの忘れものだよー、学生証」
和佳奈はカバンから財布を出し、カード類を収めたポケットからプラスチックの磁気カード取り出す。それを机に置くと、すっと和成の方に差し出した。ゆっくりとした動作は、どことなく芝居がかっている。
「大げさにやらなくていい、悪かったな」
言いながら摘まみ上げようとする。が、学生証は伸ばした指に触れることなく、元来た道を戻っていく。代わりに指は固い木の板にコツンと当たった。
「ぶー、返しませーん」
「は?」
「早々に返すなんて私がすると思う~?」
間違いを諫める先生のようなセリフ。嫌な予感がして顔を向けると、和佳奈がこちらに体を向けて楽しそうに口元をゆがめている。悪戯した子供を追い詰めるときの顔と同じだ。
「私~、お返しが欲しいな~。大事なものを拾ってあげて~、わざわざ持ってきてあげた人に何もなしっていうのはちょっとね~。小学生でもわかることだよ~?」
頭を大げさに左右に揺らしながら、ふざけた調子で言ってくる。態度とは裏腹に、内容に少し毒が入っている。相手をからかって、面白いことをさせようと企んでいるときの癖だ。
「・・・」
またこれか・・・。
心底面倒くさいという顔で口を結ぶ。
和佳奈のこういう態度を見て、たいていの男は金か物を渡そうとする。かわいらしい仮面に惑わされて、出所の怪しい金に手を出した男はいくらでもいると聞いた。彼女の前で他人の財布が軽くなっていくのを何度見たか分からないし、数えたくもない。
しかしいくら貢いだところで、和佳奈が人のものになるわけではない。金は旅行資金に、物は売られて旅行資金に、売れなければ本来の意図とは別の使い道で忘れられる。結局のところ、和佳奈が求めているのは即物的なものではないのだ。
この返答での正解はただ1つ。
「どんな話を聴きたい」
「ふふ~ん、そうだね~。やっぱり昨日言ってた白いワンピースの子っていう話の続きを聞きたいねー、なんか面白そうだし~」
ニコニコとした笑顔を浮かべて誘うように求めてくる。
フッと口角を上げ、カウンターに向き直った。隠したところでいずれバレる。であれば先に話してしまった方がいい。
「面白いかはわからないが、普通では体験しないようなことならあったぞ」
横でパァッと顔を輝かせた和佳奈は、一段と明るい声で店員にコーヒーを2つ注文した。
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