過去からの届けもの 1
自分は物覚えがいい方だと思っている。
アルバイトのマニュアルはすぐに覚え、指導係の先輩より給料が高くなった。注意されることはまれ。されたとしても間違いをしないように気を付け、同じ注意を2度受けた記憶はない。積極的に話すことは苦手でも、常連客の顔は覚えていたし、予約が入れば名前だけで思い出せた。学生とはいえ社会人と接することも意識していたし、節度と親しみもって接していた。
それを持っていたとしても、人当たりがいい方ではなかったが。少なくとも自分なりに工夫して仕事を覚えた。将来的に役立つかどうかは問題ではなく、すぐ役に立つかが大事だというのが持論だった。
それでも自覚しているので問題ない。客前に出れば人と話すのが苦手であるのがでており、ぎこちなさを少しも隠せなかった。それも妙味だと捉えられることの方が、生き抜いていくのに大切だろう。
ともかく、たいていのことはメモなしで覚えることができた。生きる上で大切なことは、それこそ記憶に焼き付いていつでも思い返している。
目を閉じれば、今も目に鮮やかな思い出が心を照らす。日中も暗いさびれたボロアパートでも、1人で住むにも狭い部屋でも、着すぎて傷んできた黒いスーツでぼーっとしていても、心の中は明るい。あのときは楽しかった、あのときは生き生きしていた。そういう思い出に浸って自分を慰める。伊達に同じ日々を繰り返していない。こんな人生でも楽しいことはこんなにあふれているじゃないか、と。
自分なりの苦難の乗り越え方だった。少なからぬ自負と過去の栄光。沈んだ空気を軽くしてくれる、優しい思い出。日々の変わらぬ疲れで擦り切れかけている精神を繋ぐための手段だった。
だから目が覚めた時、和成は日常と違う光景に違和感を覚えた。
朝、いつも見ている茶色い床の上。変わりがなさ過ぎて、もはや自分の一部となり果てた光景に、見覚えのない少女の姿。目覚めに似合わない、というより自分の朝にあるはずがない自分以外の存在。白い光をすっと素直に降ろしたような、きれいな顔立ちの少女が、至極当然のように立っていた。
「おはようございます、今日はいつもよりお寝坊さんじゃないですか?」
白ワンピースの少女が、丁寧にお辞儀で朝の挨拶をする。軽やかで、優しい笑みが眩しい。すらりと伸びた手の動きも堂に入っている。
和成も少女に合わせて頭を中途半端に下げる。お辞儀ともいえない情けない動き。起き抜けの顔には半開きの口、体を戻す動作ものろのろとしている。寝ぼけて頭が回らない。
この少女はどうしてここにいるんだろうか。どことなく会ったことがあるような。気のせいか。
「昨日は早くお休みになってしまいましたから、朝のうちに詳しく話せると思ったんですけど・・・その様子ではもう少し後の方がいいかもしれませんね」
しばらく見つめていると、少女は残念そうに言った。固まったまま反応を示さない自分に細い目が向けられる。
「あの、もしかして、覚えてないとか言わないですよね?昨日の今日ですよ?さすがにそれは信じたくないんですけど・・・」
いまだに状況を理解していない様子に、少女は少し焦るように問いかけた。どことなく自分を知っている風の口のきき方をする彼女を怪訝に思いつつも、ゆっくりと記憶の中から目の前の少女について思い出そうとする。
やはり会ったことがあるようだ。だが一体どこで。最近のことだとすれば、確かにどことなく見覚えはあるが・・・。
「ほんとうにあなたは忘れものばかりするんですね。私たちは、昨日、渋谷のスクランブル交差点で、出会いましたよ」
「ああ・・・」
そうか、思い出した。昨夜、黒いスーツのサラリーマンか、派手な格好でチャラけた若者でごった返すあの場所で。目の前に現れた、白いワンピースの小さな女の子。夜の街の派手な賑わいに似合わない姿でたたずむ彼女に話しかけられたのだ。いや、どちらかといえば季節感そのものを間違えたように思えたが。
ようやく合点がいった驚きとともに、昨晩の非日常を思い浮かべる。だんだんと焦点が合い始めた顔を見て、少女はほっと息を吐いた。
「よかったです、思い出していただけて。そうでないと私がここにいる意味がありませんから」
「いやいやいや待って」
安堵する少女を、和成は手で制する。会話の主導権を握らせてはいけない、と無意識に思った。昨晩一緒にいたからと言って、ここにこの子がいることとは別問題だ。
聞くべき質問を考え、和成は目の前の少女に足早に投げた。
「ここは僕のうちだよな?」
「当然です、見慣れた光景ではありませんか」
「どうやって入ったんだ?」
「昨晩一緒に帰ってきたからです、靴はちゃんと脱いでますのでご安心を」
「そもそもなんで僕のうちにいるんだ?」
「あなたに話さないといけないことがあるからです。先ほど言いましたよね?」
淡々と、しかし丁寧に答える少女の大人びた姿に口を噤む。勢い込む自分と比べて冷静な態度に気勢をそがれる。
自分の部屋に知らない何かがいることは不快以外の何物でもない。たとえ幻影であれ、見覚えがある少女であれ、不快を感じる気持ちとは関係ない。
和成にとって、この部屋は日々同じ時間を繰り返す生活を唯一忘れさせてくれる。外見や遠慮に気をもむことなく休める安寧の場所。いわば聖域だ。日当たりが悪くても、若干散らかっていても、変わらない光景でも関係ない。ただひとつの自由が許された場所なのだ。
精神的な支えを失うまいとして、和成は眉根を寄せながら少女に尋ねる。
「・・・君は一体、誰なんだ」
ためるように、一番の疑問を提示する。
待っていたとばかりに、少女の小さな息遣いが部屋に響いた。
「あなたを以前から知るものです、伶と申します」
にこやかな表情を変えることなく、改めてお辞儀をしながら告げる。
「あなたの忘れものを届けに参りました」
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