白ワンピースの女の子 1

 5月1日の昼下がり。

 昨晩の新元号カウントダウンの夜会が行われて残った熱が、スーツ越しに張り付いてくる。頭の上の方で、「新天皇の即位を祝福するかのような、晴天に恵まれ・・・」というアナウンスが流れている。ビルに張り付けられたテレビ画面では、日差しに輝く緑の間を、新天皇を乗せた車が走っていく様子が映し出されていた。雨で残念な天気にならなかったのはまだいいが、へばりつくような湿気が鬱陶しい。歩くたびに湿気が汗となって流れ落ちる。


 どうせなら煩わしい湿気も何もかも、どこかにやってほしかった。

 肌に差す日の光を睨みつけるようにして、見えない相手に吐き捨てた。


 一晩中飲み明かしたのだろう、カラオケ店から数人の男女が眠そうに出てきて駅へ向かっている。すれ違いざま、女のぼやく声が聞こえた。

「平成も終わっちゃったねー、あんま実感ないなー」

「新しい元号、令和だっけー。ついつい平成って言っちゃいそー」

 新しい時代の訪れにも、学生風の若い彼らは興味なさげに通り過ぎていく。


 それくらいのことを言える余裕が欲しい。

 男の切実な願いだった。

 クソ暑い中を歩かされる身にもなってくれ、君たちもこうなるんだ、将来同じ目に合うことを今のうちに覚悟しておくことだ・・・。

 届くことも、そうするつもりもない心配をしながらも、自分の格好を見て、心の中の願いを込めている自分の姿の虚しさに嫌気がさす。


 元号が新しくなっても、古海和成ふるみかずなりの日常は変わらない。着慣れない新卒スーツに身を包み、黒い鞄を片手に下げて黒い革靴の底を擦りながら、今日もまた昨日と違う会社に向かっている。


 同じ街並みが目の前に広がるのは、これで3年目になる。若いのも老いたのもごちゃごちゃに交差するうるさい風景も、見飽きるほどに通り過ぎた。平成のうちにこの生活を終わらせたかったのが本音だが、そんな気概も前の時代に忘れてきたのかもしれない。

 大学3年生で留学をし、4年生になって初めて就職活動に身を投じたが、その2年間は棒に振ってしまった。留学でどこか新しい場所に行けば、何か変わるかと思っていた。新たな世界が目の前に現れて、変わり映えのない生活に彩をもたらしてくれるだろうと。

 だが実際は、周りの人種と聞こえてくる言葉が変わっただけだった。交流だけはできるように無理矢理覚えた言語、財布と持ち物と体の守り方以外、取り立てて得るものはなかった。

 不慣れな地での生活に1年で見切りをつけ、就職活動のために帰国。すでに周りは将来に向けてのスタートを切っていた。出来上がった空気に溶け込むため、揃えたスーツを着てみても、服装が変わっただけで中身は今までの自分だった。毎日毎日惰性のように、同じ姿で、同じ道を歩いている。


「やば、スマホ忘れて来ちゃった、とってくるから待ってて」

 慌てた声を上げ、先ほど通り過ぎた女が和成を走って追い抜いて行った。出てきたばかりのカラオケ店に戻っていく。彼が店の前を通り過ぎる時、横目で店員から何かを手渡されているのが見えた。無事に取り戻せたらしい。

 簡単に探し物が見つかるようになったのは現代のいいところだが、それは形のあるものだけだ。

 いつか、就職活動を始めたばかりのころ。とりあえずの目標として、大企業の営業マンになるという単純な決意を固めた覚悟は、時代の終わりとともに霧散した。核もない、信念もない、そんなものは寄る辺なくどこかへ消えてしまう。


 結局、自分には何もない。

 得意なことも、不得意なことも。好きなことも、嫌いなことも。未来への展望も、将来への希望も。周囲の人間が興奮の光と不安の影に翻弄されるなか、自分には光も影も見えない。広がるのはただ暗く、動くことのない壁。

 追いつけ追い越せの就職レースのコースを外れ、ただ一人整備されていないまっさらな土を踏んでいる。進んでいるように見えて進んでいない。歩いても歩いても壁に阻まれ、なにひとつ変化は起こらない。いつの間にか周りは次のステージへ進んでいて、自分だけが取り残されている。

 この先にゴールなんてあるのだろうか。周りが求めているような、笑って終われる将来が。そこで待ってくれているのだろうか。

 確証のない希望を思い、すぐに首を振って思考を捨てる。


 無駄なことだ。この2年で散々感じたことじゃないか。

 降って沸いた、何度も捨てた感情を、いつものように捨てる。


 後ろで「お待たせー」という明るい声を聞き、和成は思わず振り返った。軽い足取りで友人の下に駆け寄り、駅へ向かう男女を目にして一瞬、足を止めたことを後悔する。反発する磁石のように、向かうべき方向に足を向けた。

 屈託なく笑う彼女らの姿と自分の姿を比較して、焦る気持ちを生みたくなかった。数十分後、大切な山場の面接が控えている。余分な感情はできるだけ持ち込みたくなかった。


 似てる声だからって振り向くなんて、僕もまだ甘いな。

 不安も何もないような、どこか気の抜けた声で話す顔がふっと浮かぶ。


 蒸した空気は道に居座り、ビルのむこうでは灰色の雲がぶら下がっている。夕方には雨が降るかもしれない。

 和成は面接会場の地図をもう一度確認し、先を急いだ。

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