わすれられもの

松竹梅

プロローグ

 人で埋め尽くされた渋谷のスクランブル交差点。その真ん中で、和成は誰かに呼ばれた気がした。雑踏と太陽の熱でまみれた道の上、その熱を振り払うように振り返った。

 どこか懐かしく、遠い故郷を想わせるような感覚だった。


「久しぶりですね、元気にしていましたか?」

 

 白いワンピースに黒いスニーカー。5月にかぶるには早く感じる麦わら帽子を目深にかぶった少女が、そこに立っていた。

 一瞬、自分が呼びかけられたとは思えなかった。だが、地面に反射する雑踏と意味をなさない音を越えて、風鈴のような澄んだ声音が耳にキンと響いた。足を止めないわけにはいかなかった。


 パンクなファッションでチャラチャラと音を鳴らしながら歩くバンド風の青年。営業のためだろう、ビシッと決めたスーツで駆けるサラリーマン。ファッションブランドの袋を下げて過ぎていく女子グループ。

 それらのどの姿も、はしゃぎ声も、和成の目と耳には届かない。彼のすべての知覚は、一瞬にして1人の少女への関心に支配されていた。

 

「あなたの忘れ物を、届けに来たんです」

 

 無の世界に、品のある女性的な声が響く。

 瞬間、そこに自分と少女しかいないように思われた。

 

 それが、自分と伶の出会いだった。

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