第6話『塾の見学』 ――千尋side

―― 千尋ちひろside ――



「こんにちは、じゅくの体験に来た白鳥しらとりです」


 僕は憂鬱ゆううつな気持ちで重いガラス戸を開け、受付の女性にそう話しかけた。

 すると女性はこころよい笑みで対応してくれ、ロビーのソファで座って待つようにと言ってくれた。


 学校近くの塾のビル。

 春のテストの結果があまり良くなかった僕は、受験も控えているのだからと親に言われたこともあって、ひとまず体験に来ることになったのだった。


 塾に通えば、絵を描く時間がかなりけずられちゃうよね……。

 ああ、やだなぁ……。


 受付の女性に言われた通りにして待っていると、間もなくしてスーツ姿の中年の男性が来て「いらっしゃい。今日はよろしくね」と声をかけてきた。

 どうやら今日体験する授業の講師こうしらしく、そのまま教室まで通される。


 教室の前の方の席には、すでに20名ほどの生徒たちが座り、講義が始まるまで各々の時間を過ごしていた。

 僕はテキストを印刷したプリントを渡されながら言われる。


「じゃあ、今日はもう一人体験の人がいるから、一緒に授業を受けてね」


「はい」


「じゃあ、もう少ししたら授業始まるから、あの後ろの席に座ってて。分からないことがあったら何でも質問して」


「わかりました」


 指示された席へと行く。

 するとそこにはもう一人、見学に来た女子生徒が。


 亜麻色あまいろのツーサイドアップに赤茶色のブレザーの制服で……って――


「――え、赤井あかいさんっ!?」


「やっほー、白鳥くん」


 赤井さんがにこやかに手を振ってきた。


「どうしてここに!? 成績いいのに」


「わたしでも成績悪い科目くらいあるんだよ?」


「そうなの?」


「それよりほら、せっかくだし隣の席で授業受けよ~」


 ポンポン、と隣へ来るよううながす赤井さん。


「あ、うん」


 僕は言われた通り彼女の隣に腰を下ろす。

 赤井さんから隣へ来るように言われたことでついドキッとしてしまった。


 他にも席は空いているのに、わざわざ隣に誘ってくれるなんて……!

 親しく思ってくれてる証拠なのかな。なんだか嬉しい。


 赤井さんのおかげで、ここへ来るまで抱えていた暗い気持ちが一気に吹き飛んだ。

 偶然彼女がここにいてくれて本当に助かった。

 そう、偶然。またも偶然である。


「それにしても、僕たちって放課後によく会うよね」


「そういえばそうだよね! すごい偶然だよね!」


 赤井さんはパァアと顔を輝かせて手を合わせた。

 それから急に不敵な笑みを浮かべて続ける。


「もしかして、何かの運命だったりして」


「……っ!? う、ううう、運命っ!?」


 な、なななにを言い出すんだ赤井さんはっ!?


 動揺する僕に、赤井さんはクスクス笑う。


「うふふ、さすがに偶然会うだけでそれはないっか」


「そ、そそそうだよねっ!! あははは!」


「あ、もうそろそろ授業始まるみたいだよ」


 黒板の方を見ると、先生が教壇きょうだんに上っているところだった。

 僕は姿勢を正すが、心臓は早鐘はやがねを打ち、顔は火照ほてったように熱くなってしまっていた。


 まったく……赤井さんはすぐにドキッとするようなことを言う……!

 身構えてたつもりでも、やっぱり彼女にはかないそうにないな……。


 それからすぐに授業が始まった。

 授業内容は学校で習っている範囲の少し先なだけあって難しかったが、先生が丁寧ていねいに補助してくれたおかげで何とか僕にも理解できた。


 ちなみに先生は、わざわざめて座っている僕らを見て、多少疑問に思ったようだったが、何となく理由は察してくれたようだった。



   ◇◆◇◆◇



 塾での授業が終わり、僕はまた重い気分になった。


「はあ……」


「授業、どうだった?」


 皆が帰り支度じたくを始め、騒がしくなる教室の中。

 赤井さんにたずねられた僕は低い声で返す。


「わかりやすくてよかったと思うよ」


「それなら、よかったね!」


「よかったからこそ、これからここに通わなきゃいけなくなるし憂鬱ゆううつで……」


「そっか、白鳥くん塾に通うことになっちゃうんだ……」


 僕は嘘をくのが苦手だから、今日の体験の感想も正直に親に報告するしかない。

 そうなれば、来週から放課後は何日かここで過ごすことになるかも。


 はあ……やだなぁ。


 だけど、その気持ちをこれ以上赤井さんに見せるのもなんだか申し訳ない。

 僕は小さく息をいて気を取り直すと、彼女にたずねる。


「赤井さんの方はどうだった?」


「うーんと、わたしはもっと少人数の教室の方がよかったな。例えば、白鳥くんと二人きりとか」


「え」


「ねえねえ、どうせなら、わたしと二人きりで塾しちゃう?」


「え!?」


 二人きりで塾……っ!?

 それは僕が緊張でどうかなっ……いや、待って! ありかもしれない……!


「うふふ、ごめん。やっぱり今の忘れ――」


 思わず身を乗り出し、赤井さんの言葉を制して言う。


「それすごくいいアイデアだよ!」


「へ?」


 ポカンと首を傾げる赤井さんに、僕は自分の思い付きを話す。


「成績優秀な赤井さんに勉強を教えてもらうなら、きっと親も許してくれる! そうしたら塾に通わなくてよくなるよ! 赤井さん、教え方上手だし、きっと学力も上がるだろうし」


「え、そ、そうかな?」


 いや……待って。

 これじゃ自分本位すぎる考えだ。


「……でも、それじゃあ赤井さんの勉強にならないよね」


「ううん! 教えるのも勉強になるから大丈夫だよ!」


 赤井さんは屈託くったくのない笑顔でそう言ってくれた。


「本当に? じゃあ、いいの?」


「うん!」


「ありがとう! 赤井さん! 何と言っていいか分からないんだけど、本当にありがとう!」


「う、ううん、全然ぜんぜんたいしたことじゃないよ」


 頬を桃色に染め、ぎこちなく笑う赤井さん。


 あれ、どうしたんだろう……って。

 やばい!!!


「あ、ごめんっ! 僕、手を!」


 嬉しさのあまり、いつの間にか彼女の手を握っていたみたいだ。

 僕は慌てて赤井さんの手を離した。


「あ、気にしないで!」


 赤井さんは微笑んでそう言ってくれるが、無意識とはいえ本当に申し訳ないことをしてしまった。


 それに今、とっても大胆だいたんなことを……っ!

 どうしよう、自分のしたことを考えるとドキドキで何も考えられなくなる。


 赤井さんは、そんな僕の顔をのぞき込むようにしてきた。


「じゃあ、これから放課後に一緒に勉強する日程を立てなきゃだね!」


「うん、お願いします」


 うぅ、ダメだ。

 今は緊張で赤井さんが直視できない。


 これから定期的に一緒に勉強をするようになるのに、こんな調子で大丈夫かな……?

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