22.賢者のいざないと渾身のぐーぱんち
ふと時計を見ると、研究所に来てから一時間以上が経過していた。
まずい、長居しすぎた。
ライズはいつのまにか眠ってしまったのか、小さな寝息を立てている。起こして帰らなければ。
「帰るぞ、ライズ。ソファで寝るよりも帰ってベッドで寝た方がいい」
わずかな間にすっかり寝入ってしまっていたらしい。青灰色の目を薄く開けて、ライズはぼんやりとリトを見る。
「はぁい。すみません、しょちょー……」
寝ぼけてないかとリトは心配になったが、ライズはこくりと頷いて身体を起こした。
子どものように眠そうに目をこすっているものの、かろうじて後ろについてくる。
——まあ、この調子なら大丈夫か。
さっさと自宅に戻って、ライズは寝かせた方が良さそうだ。
食事もさせたいが、まず必要なのは休息だろう。
ベッドの上で諦めたように目を固く閉じたまま微動だにしないレイゼルを一瞥し、リトはドアノブに触れた。
そして、それを回す寸前——、
「待て」
後ろから声をかけられた。
ピクリ、と指が止まる。
「リトアーユ、まだおまえの怪我を診ていないだろう」
艶やかな微笑みと、まっすぐ向けてくる深紅の瞳。
思わずまともに見てしまい、リトは慌てて視線を逸らした。
「いや、俺は……」
「カミル様、ちょっと何する気ですか。今回は所長そんなに怪我していないから大丈夫ですよ」
「何を言う、おまえが噛んだのだろう」
普段は口達者なライズも、事実を突きつけられては反論の余地がない。珍しく黙り込んでしまった。
きっと、ライズは心配してくれている。
同じ研究所で毎日のように顔を突き合わせている上に、カミルのこともリトのこともよく知っている彼のことだ。なんとなく、カミルとリトの関係について察しているのだろう。
おそらくは、ずるずると今の関係に甘んじてはいけないとも考えているのだろう。
「傷は、ある人に治してもらったから平気だ。ライズも休ませてやりたいし、今日はこれで帰るよ」
顔を上げて、リトは言った。言い切ることができた。
ちゃんと笑えているかどうかは分からない。
もともと笑顔を作るのは苦手だ。
不意に、カミルが動いた。
一歩、また一歩と近づいてくる。
どういうわけか、リトは動きだせなかった。まるで足が床に縫い止められているかのように微動だにできない。
白い手がリトの頬に触れる。
相変わらず、カミルの手は冷たかった。
血のような深紅の瞳が、笑う。
「こんなに退行してしまって、相当辛い目に遭ったのだね。身体の治癒は足りていても、魂に負った傷はまだ癒えていないはずだ」
甘いささやきに似た、穏やかで低い声だった。
喉が張り付いたように、すぐに声を出せなかった。
「私に身を委ねなさい。楽にしてやるよ」
「いや……」
だから、今日はもう帰る。
たったそれだけの一言なのに言葉にできない。
渾身の力を振り絞って、リトは一歩後ずさった。
頬からカミルの細い指が離れる。
心のどこかでホッとする。
この調子だ。このまま帰ってしまえばいい。
そう。ライズに言われるまでもなく分かっている。これ以上彼の懐へ踏み込んでも自分自身が傷つくだけなのだ。
カミルはリトのことを本当の意味では好きじゃない。そしてリトも、カミルのことを恋愛対象として好きではない。
なぜならば。
さっきから頭の中でいっぱいなのは、彼ではなく、別の——。
「怖がることはない。寂しいのだろう?」
どくん、と心臓が波打った。
ずっと前から、自覚していた。認めてしまうと苦しいから、気付かないフリをしていただけで。
胸にぽっかりと大きな穴が開いているかのような、虚しい気持ちを感じていた。
さびしい。
さびしいのは、もういやだ。
ひとりきりでいるのは、もう耐えられない。
だって、自分はひどく寂しがり屋な
再び白い手が伸びてくる。
リトはもう、拒絶しなかった。
背後に腕を回し、頭を抱えられる。
カミルは空いている方の手で前髪をくしゃりと撫で始めた。
ゆっくりと伝わってくる体温が心地良くて、力が抜けていく。
「所長、いいんですか?」
ライズの声が遠くで聞こえる。
いいわけない。
けど、もうどうしようもない。
突然、手のひらが離れた。
するとぐっと頭を引き寄せられ、唇を塞がれる。
ただ触れているだけなのに、頭の奥が痺れていくような気がした。
その直後、ぐるりと視界が回った。
背中にはやわらかい衝撃しか感じず、目を丸くしているとカミルの目とかち合う。
たぶん、ソファに押し倒された。
「可愛いよ、リトアーユ」
どうして、いつも彼の言葉ひとつで動けなくなってしまうのだろう。
自分にはカミルの魅了が効かないはずなのに。
頭がぼんやりしていて、なにも考えられない。靄がかかっているみたいで。
手を押さえつけられたままカミルが再び唇を重ねてきても、リトは無抵抗のままだった。
今度は長いキスだった。
唇を離されて、無造作に撫でられる。それでもリトはなにも反応できなかった。
いつの間にかカミルは首筋へと口を移したようだ。
おかしいと自分でも分かっている。それでも身体は動かないし、抵抗するのもなんだか面倒くさい。
結局、なにも変わらないままだ。
今日もいつものように、最後にはこうして噛まれて、血を吸われるのだろう。
こんな行為に甘んじている自分が、一番嫌いなのに。
どうすれば、いいのだったか。
噛まれそうになった時は……。
微睡みの中、ひとりの少女が脳裏によみがえる。
薄藍色の翼を持った少女。見つめてくるつり目がちな大きな瞳は、夜空のような濃い藍色だ。
彼女はリトの目の前で小さな拳を作って、にっこりと微笑む。
——噛まれそうになったら、ぐーぱんちするといいよ。
鈴の音のような声が頭の中で響いた時、閉じようとしていた目をリトは大きく見開いた。
溶け込んでいきそうな意識の中で力を振り絞る。
ぐっと右手を握り込んで、そのまま突き出した。
ぱし、と。
乾いた音が聞こえた。
リトは瞠目する。
突き出した拳は、いとも簡単に白い手のひらでふさがれていた。
「誰に教えられたのかね?」
地を這うような、低い声だった。
ぞくりと背筋が凍る。
しかしその一方で、リトの思考は次第にクリアになってきた。
まるで、上からのしかかっていた重りが消えてしまったかのように。
「……誰でもいいだろう」
彼女は言っていた。カミルにひどいことをされた、と。
だったら、名前を出すわけにはいかない。
「そうか」
それ以上、カミルは問いただしてはこなかった。
なにも言わずに笑みを浮かべたまま、そっとリトから離れる。
解放されてゆっくりと身を起こすと、再び声をかけられた。
「帰るのか?」
身体は動くし、意識ははっきりとしている。
立ち上がると少し足元がふらついたが、たぶん一時的なものだ。じきに治るだろう。
「ああ、帰る」
頷いて、リトはカミルに向き直る。
白き賢者は少し目を細め、艶然と微笑んだ。
「そうか。残念だが仕方あるまい。楽しみは、また後日に取っておいてあげるよ」
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