21.名誉顧問カミル=シャドール
始まりは、一年ほど前。
正確には三年の旅を終えて、ルティリスがリトと別れてから間もなくのことだった。
二人から一人に戻ったリトはかろうじて研究所には来ていたものの、あまり使いものにはならなかった。机に向かうもののぼんやりと書類を見るだけで、手を動く気配すらわいてこない。
ただ、ため息ばかりが部屋を満たしていく。
このままではダメだとは分かっていた。いつまでもぼんやりしていると、いずれ真面目なライズが口を出しにくるだろう。
けれど、まったく気力はわいてこなかった。
まるで心にぽっかりと穴が開いたような感覚だった。
そんな時だった。彼に声をかけられたのは。
「寂しそうだな」
今思い返せば、図星を突かれたのだと思う。
たった一言だった。その言葉ひとつでリトは差し出されたカミルの手を取り、関係を深めていった。
彼はたしかに優しかった。だが、誠実ではないのだ。
告白したわけではないし、互いに付き合っている感覚さえなかった。
ただ部屋で二人きりになって、リトはカミルの吸血に付き合ってやるだけだ。
カミルが本当に想いを寄せているひとは別にいることは知っていたし、本人にとってリトとの関係はただの遊びだと分かっていた。
だから、今のカミルとの親密な関係は不毛でしかない。いい加減断ち切らなければならないのだ。
* * *
ジェイスにラァラを自分の自宅まで送るよう頼んだ後、リトはライズと共に研究所に足を運んだ。
魔法による眠りについているもののレイゼルをそのまま一人にはしておけず、結局一緒に連れてくることにした。剣を扱えるだけあってレイゼルは鍛えられた身体をしていて、二人がかりでも運ぶのはかなり大変だった。
外に出るとまだ真夜中で、空には宝石のような無数の星が瞬いていた。
所長室に入り、デスクにある通信
仮眠室のベッドにレイゼルを寝かせてからライズとソファに沈んでいると、待ち人は現れた。
「面白いことになっているな」
白いローブに身を包んだ、真っ白な髪の若い男。楽しげに細める両目はルビーのような深紅。彼こそが王立
カミルの目は横たえられているレイゼルではなく、リトにまっすぐ向いていた。
おそらく先ほどの言葉は、年齢退行している部下に向けられたものなのだろう。
ゆったりと入ってくる名誉顧問にリトが近づくと、ライズも立ち上がって後に続く。
「いきなり本題なんだが、ライズがこいつに【
ライズはカミルに気に入られているし、何も引き換えなくても解呪してくれるだろう。たぶん。
「ふぅん」
半ば祈るような思いで見守っていると、カミルは顎に手を添えてライズを観察していた。ライズもライズで、カミルをまっすぐに見上げて彼の動向を待っている。
白き賢者が動いたのは突然だった。
ライズに近づいて、月色の頭にそっと手をのせる。何の呪文も唱えず、彼はそのまま頭を撫でていった。
伏せる瞳は柔らかく、表情の変化は乏しいもののまるで親が子に対してするような穏やかな雰囲気を持っている。
いつになく剣呑な雰囲気が皆無だからか、ライズも抵抗せずにされるがままだ。きっと落ち着くのだろう。
カミルの動作や仕草を観察していたリトは、頭を撫でるという単純な動作ひとつでライズの身体にかけられた呪いがゆっくりと解けていくのが分かった。
白い輝きを放つ小さな粒子のような光が見えたからだ。
無数の柔らかい光はそっとライズの細い身体を包み込み、ゆっくりと浸透していく。そして最後にはすうっと消えてしまった。
「今夜は早く寝るといい。悪夢を見ないように祈っておいてあげるよ」
声は低く、優しかった。
ライズにかけられた魔法は強制的に自分の五感を他者と共有されてしまうもの。だから精神的な負荷が大きくなる。だから、カミルの気遣いは心からのものなのだろう。
思い返せば、ライズは研究所を襲撃された時には血を吸われて死にかけるような目に遭っている。その上、呪いをかけられてリトと相討ちさせられたりと、痛ましいことの連続だった。
「はい、ありがとうございます。すみません」
リトの杞憂は真実だったようで、ライズは力なく笑っていた。
少し小柄な彼を見て、カミルは口元を綻ばせた。
「礼には及ばぬよ」
「——それで、この男はどうするつもりかね?」
ベッドに横たわる赤髪の男を指して、カミルは眉を寄せて聞いてきた。いつになく声が低い。
どうせレイゼルの処遇に関しては揉めるとは思っていた。リトは先に切り出すつもりだったのに、先手を取られたような気分を覚える。
ライズはというと、今はソファに沈んでいる。眠りはしないものの、立っていることさえもきつかったらしい。
いや、レイゼルがベッドで寝ているから満身創痍のライズが休めないと思っているのか。だから不機嫌なんだろうか。
「ああ、それなんだが。【
リトがレイゼルにかけた闇に属する魔法【
そのような事情があるために、リトとしてはレイゼルをそのまま放置するわけにはいかなかった。
実際、四年前に【
「いっそ、八つ裂きにしてやろうか?」
血のような色の双眸が笑う。
リトは頭を抱えたくなった。
「カミル様、それは犯罪です」
「犯罪者を
いや、犯罪になるだろ。
——と、喉元まで出かかったものの。カミルがベッドに近付いていくのを見て、リトは別の意味で不安を覚えた。
白き賢者がにやりと笑う。
「……まあ、いい。【
黙って見守っていると、レイゼルを寝かせているベッドに乗り、どこから取り出したのかシーツを紐状にしたようなもので左手を縛り始めたのだ。
ちょっと待て。
それ、どこから取り出したんだ。もしかしていつも携帯しているのか!?
ツッコミたい気持ちでいっぱいだったが、嬉々として両手をベッドに縛り付ける姿はなかなかに近づきがたく、声をかけられなかった。
ライズもリトと同じ気持ちだったのか、げんなりとした顔で口を出さずに見ている。
そもそも相手は魔法によって強制的に眠らされているというのに、なぜ拘束する必要があるのか。
それに、術式をかけるとはどういうことなのだろう。
術式は物体に刻んだり描いたりするもので、普通はかけるという表現は使わないと思うのだが。
嫌な予感がする。
リトは、自分の勘が間違いではなかったとすぐに分かることになった。
赤髪の男の上に跨ったカミルが、鋭く尖らせた爪先を彼の鎖骨下あたりにためらいもなく突き立てたからだ。
当然、傷つけられた皮膚は破れ、血が滲んでいく。けれど、レイゼルはいまだ強制的な眠りのおかげで起きることはないし、魔法の効力が続いている限りは痛みも感じない、のだが。
次の瞬間、リトはあまりの光景に息を飲んだ。
ゆっくりとカミルはそのまま爪先を動かして傷を作っていった。まるで、普段リトが金属に細い刃物を使って術式を刻んでいくように、傷と滲み出す血で魔法文字を書いていっている。
直接肌を削る爪先からガリガリという音が聞こえてきそうで、リトはだんだん気分が悪くなってきた。ふとライズを見れば、見ていられなかったのか目を両手で覆っている。
その一方でやはり気になるらしく、少しだけ開けた指の隙間から目をのぞかせて、おそるおそる悲惨な光景を見ていた。
ライズ、その行動に意味はあるのか。
自分の手には余るからといって、カミルに任せたのは間違いだっただろうか。
激しく不安に襲われる中、数分経った後にカミルはついに術式を書き終えたようだった。
仕上げだとばかりに、肌に刻まれたグロテスクな術式に舌を這わせてひと舐めする。
「……エグい」
「……オレも、同意です」
だからと言って、今さらもういいと引き下がることもできず、リトは上司を止めることができなかった。
リトとライズの反応にカミルは大して気に留めた様子もなく、愉しげに微笑んだまま
普段から何も唱えなくても魔法を使うカミルが珍しいなとリトは思っていたが、聞こえてきた呪文にぎょっとした。
よりにもよって【
「きさ、——ッ!!」
意識が戻った途端レイゼルの瞼は勢いよく開いたものの、言葉にならない絶叫をあげた。
あれだけ皮膚を傷つけて術式を書いた上に、カミルの唾液が混じっているのだ。痛くて当然だろう。しかも両手はベッドに縛り付けられて襲いかかることも逃げることもできない。
なんてひどい仕打ちだ。
しかも【
「気分はどうだ?」
いいわけがない。
皮肉めいた言葉をレイゼルが好意的に取るはずがなかった。薄いグレーの目でカミルを鋭く睨みつける。
「……おまえは誰だ」
「私はカミル=シャドール。ここ王立
目が覚めたら両手が動かずひどい痛みが走り、見覚えのない知らない男が立っていた、——ともなれば、誰だって混乱する。
それはレイゼルも同じようで、明らかに動揺していた。
研究所には侵入したことがあるくらいだから覚えはあるだろう。たぶん、今置かれている状況が把握できないだけだ。
顔を少し歪めつつきょろきょろと部屋を見回していたが、グレーの瞳がリトをとらえた途端に叫び始めた。
「き、貴様ッ、リトアーユ! よくもたばかってくれたな!」
「……俺は今、お前に深く同情するよ」
まだ八つ裂きにされないだけ、いいのだろうけど。
カミルはカミルなりに、これで譲歩してやっているつもりだと思うのだ。
「身の程をわきまえず、
血色の双眸が嘲笑う。
口は笑っているのに、こっちにしてみればちっとも笑えない。目が本気だ。
凄みのあるカミルを前にして、さすがのレイゼルも固まってしまった。
「せめて傷だけでも治してあげましょうよ」
一番酷い目に遭っているはずなのに、ライズは困った顔で声をあげた。
未だに治療される様子のないレイゼルを不憫に思ったのだろう。動こうとしないカミルを見るに見かねてか、ソファからのろのろと立ち上がって勝手に治癒魔法を唱え始める。
ただでさえ精神力を消耗しているのに、大丈夫なのか。
それでも、リトは自分から動こうとは思わなかった。
傷が塞がっていく様子のレイゼルを眺めつつも、彼の処遇について本気で悩み始めたのだ。
過去——四年前の件と今回の被害を正直に女王に訴えてレイゼルを告発することはできる。そして、女王は公正に厳しくレイゼルを裁きにかけてくれるだろう。
けれども、どうにも気が乗らない。
理由は分からないが、レイゼルの身柄を女王に引き渡したくないと思っている自分がいるのだ。
だからと言って、他に案があるわけでもない。
「なあ、カミル様」
「何かね、リトアーユ」
「俺への恨みがより強くなったみたいだし、悪いんだがこいつを引き取ってもらえないだろうか?」
宝石みたいな深紅の双眸が、すっと細められる。
「ほぅ。処遇を私に任せるということは、幽閉しようと八つ裂きにしようと人体実験しようと構わない、という解釈で当たっているか?」
やけにこだわるな。どれだけレイゼルを八つ裂きにしたいんだ。
「せめて、八つ裂きや人体実験はやめてくれないか?」
善人か悪人かと問われれば、レイゼルは間違いなく悪人だろうとリトは思う。
とは言っても、彼の命を軽んじていい理由にはならない。それにレイゼルの精神が狂気に侵されているのは、その身にかけられた呪いのせいなのだ。
「つまらん」
ちっとも納得していない顔で、カミルは薄い笑みを浮かべた。
だめだ。この名誉顧問、殺る気だ。
どうしたものか。
機嫌がいい時は頼みを聞いてくれることが多いのだが、なんでも聞き入れてくれるわけではない。妙に頑固なところもあるのだ。
「犯罪はだめですよぉ」
ついに精神力を使い果たしたのか、再びソファに突っ伏しながらもライズが会話に入り込んできた。
疲労困ぱいだろうに、どんな時も正論を投げつけてくる根性には、正直敬服する。
その時、カミルは眉を少しだけ動かした。
そうか、そうだった。
カミルはライズの言うことには大抵聞き入れるのだ。
リトはすかさず殊勝な顔をして、カミルに向き直る。
「迷惑をかけていることは承知だが、頼む」
彼は嘘は言わない。だから引き取ったとしても、殺したりはしないだろう。
本当のところ、申し訳ないとは思っているのだ。でも野放しにはできない。女王にあずけるのも恐ろしいと言えば、恐ろしいし。
目を伏せていると、ふっと笑った気配がした。顔を上げると、カミルは穏やかに笑っていた。
「仕方ない。可愛い部下たちの頼みだ、無碍にするのも気が引けるからな」
低く優しい声音に、リトは胸を撫で下ろした。
黒い瞳を細めて、顔を綻ばせる。
「ありがとう、カミル様」
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