16.月色の狼は若い魔術師と対峙する

 あの灰色の壁に囲まれた地下牢で、レイゼルに魔法をかけられた瞬間から嫌な予感はしていた。

 いや、正確にはもっと前。どうやら牢屋に放り込まれていたらしい、というライズ自身の状況を把握した時からだろうか。

 彼のやろうとしていることを、なんとなく察したのは。


 赤髪の吸血鬼ヴァンパイアの唱える魔法語ルーンを聞いた時、心臓まで凍えそうなほどに寒気を覚えた。

 頭に浮かんだ魔法はよく知っていた。なぜなら、自分たち魔族ジェマにとって馴染みのある闇魔法だったから。


 名前は【使い魔ファミリアー】。人や獣、精霊、魔物のいずれかを使い魔として使役することのできる魔法だ。五感すべて共有するから、本人の意思に関係なく行動が支配されてしまう。

 このような効果を持っているから、一般的な常識で考えるならば、普通は同じ魔族ジェマにかけたりしない。だからと言って、ライズ的には他種族に対してもありえないことなのだけど。

 それでも悪意を持つ人でも、たいていは同族にかけたりしないのだ。


 だから、初めは有り得ないって思っていた。

 しかし実際には、こうして今では使い魔にされているのが現実だ。


 ライズは失念していた。

 魂を狂わせた吸血鬼ヴァンパイアには一般的に知られる常識が通用しない。

 理性的な判断がまともにできないのだ。


 ガチャリ、とドアが開く音がした。

 レイゼルの指示通り、狼の姿で床に寝そべっていたライズはむくりと起き上がる。


 入ってきたのは、見覚えのない肩よりも長いまっすぐな黒髪の若い男だった。いや、覚えがないのは姿だけなのだけど。

 

「ふぅん。やはり、こういうことか」


 まるで他人事のようにそう言って、リトは悠然と微笑んだ。

 牢に入る前にはめられたはずの手枷はなく、片手には彼が愛用している片刃剣ファルシオンが握られている。


 たぶん、上司である彼はライズが【使い魔ファミリアー】をかけられていることに気づいていたのだろう。になることを、ある程度は予測していたのだろう。


 黒髪の魔術師は、ごく自然な動作で自分の剣を投げ捨てた。

 剣は固い床に落ち、カシャンという音が虚しく響き渡る。


「すみません、所長」


 何に対して謝っているのか、ライズ本人にもよく分かっていなかった。


 年齢退行してしまうまでリトを追い詰めてしまったことなのか、それとも今直面している最悪とも言えるこの状況に対してなのか。

 申し訳ない気持ちが胸を満たして、頭を下げずにはいられない。


 それでもライズの身体は彼の意思に反して動き、攻撃の体勢へと移る。


「オレ、手加減するつもりでいますけど、痛く噛んでしまうかもしれません」

「おまえの本意じゃないんだろう? そのくらいで逃げたりはしないさ」


 若い男は腕を組んで、くすりと笑った。夜空よる色の瞳は揺らぐことなく強い輝きを宿していて、不安の色なんてひとつもない。

 モニターで見たうずくまった姿とは完全にかけ離れている。


 いや、それよりももっと前。

 レイゼルが研究所に現れる前の、昼間の研究所。デスクに向かう上司は、ここのところ沈んだ顔色をしていた。だからライズは、目の前に立つ姿勢のいい若い魔術師が自分の上司と同一人物だと分かっていても、信じられない気持ちだった。

 姿だけじゃない。彼をまとう雰囲気までもが、まるで別人のようだった。


 なぜ、そんなに余裕たっぷりでいられるのだろう。

 【使い魔ファミリアー】の魔法がどんなものか、リトだって知っているだろうに。


「安心しろ、ライズ。おまえは必ず連れて帰る」


 心が揺さぶられる。

 泣きそうになるのを我慢して、狼は強く目を閉じた。


 (こんなの、反則だ。今まで励まし続ける側だったオレが、今回は所長に元気づけられるだなんて——)


 所長のくせに。好きな時に好きなようにしか仕事をしない、自分勝手な傍若無人のひどい上司くせに……!


 心を折れかけても、彼はここに来てくれた。立ち上がって、仲間を引き連れて。

 たった一人の部下を救うために。

 こんなの、嬉しくないわけがない。


 落ち着いて対面できたのは、この時までだった。


 ぐいっとライズの身体が動く。

 高く跳躍し、力強くリトを突き飛ばした。素早く相手の身体の上に乗り、逃げられないよう前足に体重をかける。

 見開いた鋭い青灰色の目は獲物へと狙いすます。


 そして、ためらいなく月色の狼は男の肩口へ噛み付いた。


「……ぐっ」


 リトは抵抗しなかった。

 痛そうに顔を歪めるだけで、狼を押しのけようともしない。


 たしかに相手が動く前に押し倒したのはライズだ。

 以前よりもずっと背が縮んでしまったから、思うように動けないのも認めよう。

 それでも。


 ——いくらなんでも、あっさり襲われすぎだろ! 


 剣が使えるんだからリトはライズよりは多少は身体を鍛えているし、華奢なタイプでもない。

 反撃まではしなくても避けることくらいはできたはずだろうに。


 どうして逃げなかったんだ。それとも、四年前と同じように、また自分の命を軽く見ているのか。


「……ライズ。こうやって仲間同士で相打ちさせるとは、レイゼルもいい趣味をしていると思わないか?」


 笑っているつもりでちっとも笑えていない、そんな顔だった。

 今の状況を本当に分かっているのか。今はそんな冗談を言っている場合じゃないのに。


 チクリと胸が痛む。


 そういえば。

 リトは牢に入れられる前も空気を読まずに、レイゼルを怒らせていた。ただでさえ復讐者と化した彼を刺激するのは得策じゃないのに相手の感情を刺激するものだから、散々蹴られて痛めつけられていたっけ。


 そう、そうだ。

 彼は今まで魔力を封じる効果のある手枷で拘束されていた。だから傷を治せるわけがない。

 最初からリトは万全な状態じゃなかったのだ。


「だったら、治癒魔法を使ってください」


 今はリトの手足は自由のはず。なのに、彼は魔法を使おうとしない。


 どうして、なんて。こんなこと、自分から言える義理ではないのだけど。

 それでもライズはもどかしく感じた。


 月色の狼の下で横たわっている彼は、夜空のような色の瞳をまっすぐ向けてくる。

 そして深手を負っている割には、意外にはっきりと聞こえるような声で言った。


「嫌だ」


 まるで駄々をこねる子どものような口ぶりだった。

 いや、姿も以前とは違って成人前の子どもそのものだが。


 どこかで見ているであろうレイゼルは、そのやり取りに機嫌を良くしたのだろう。


 急に身体が動き、狼はリトの左肩に噛み付いた。


「うああっ」


 今度はよほど痛かったのか、悲鳴があがった。

 申し訳なくて、その声が辛くて泣きそうになる。


 逃げ出したい。

 今すぐリトの身体の上から降りたい。そしてそばにいて、傷を治してあげたい。

 退行するほど傷ついたであろう彼の心を慰めてあげたい。


 だが、それは無理な願いだ。


 すぐに傷口から口を離すと、右肩と同じく床に血が広がっていった。

 ドクン、と心臓が波打つ。

 唖然としてリトを見れば、彼は苦しそうに息を荒くしていた。


 彼はこのまま抵抗することもなく、死んでしまうのだろうか。


「所長、動いてください」


 せめて自力で脱出してほしい。これ以上、自分の牙で人を、——大切な人を傷つけたくない。


「無理だ。筋が切れたのか、俺の腕はもう動かせない」


 苦しげに顔を歪ませたリトは、ライズではなく天井を見ているようだった。

 何も映さない無機質な黒の瞳は絶望しているように思えて。

 だから、ライズは思わず叫んでいた。


「諦めないでくださいよ!」


 あふれた涙がこぼれてリトの顔にぱたりと落ちる。

 ひとつだけ目を瞬かせ、彼は月色の狼を見て、ふっと微笑む。


「我儘を言うな。俺にはおまえを殺せないよ」

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