12.小鳥は敵を予言する

 薄い光が差し込むだけの薄暗い通気口の中を、一匹の獣が軽快な足取りで進んでいた。

 きんいろの毛並みに、ところどころ銀の斑の模様がついた小柄な体躯。長い尾と三角耳の山猫だ。


 行き止まりまでさしかかると、猫は立ち止まった。器用に前足で引っ掛けて鉄色の蓋を開ける。


 身軽く飛び降りると、そこは明るい部屋だった。

 そして山猫は、瞬きひとつで変貌を遂げる。次の瞬間現れたのは、背の高い魔族ジェマの男だった。自らをゼルスの泥棒猫と名乗りを上げたジェイスだ。


 穏やかな微笑みをたたえて、ジェイスはゆっくりとした歩調で進んでいった。

 部屋の中には芸術品も調度品もなく、ただ無機質な白い壁だけが目立つ。唯一の家具は部屋の隅にあるテーブルだけ。その上には金属製の箱がぽつんと置かれていた。

 おそらく、これは金庫だろうとジェイスは考えた。それも魔法付加のついたものだろう。


 くすりと笑い、彼は迷いなく魔法後ルーンを唱えた。

 続けて発動したのは【魔力解除ディスペル】という魔法だ。物体に働いている魔力を根本から打ち消す効果をもたらす。


 箱を包み込んでいた魔力が消えたのを確認して、ジェイスは金庫についているダイヤルを静かに回す。ジリジリという金具同士が重なる音がしばらく続いた後、すぐにカチャと鍵が開いた。

 蓋を開けると、予想通り中には三日月型の瓶が入っていた。

 手に持って少し揺らして観察すると、並々と入っている入っている透明の液体が照明の光を弾き、白く光ったように見える。間違いなく、【銀酒シルヴァリキュール】だろう。


「ふふっ」


 獲物を目の前にして、思わず笑みがこぼれた。

 ためらいなく【銀酒シルヴァリキュール】をポケットに入れた後、くるりときびすを返した。その時。

 突然、背後の扉が勢いよく開いた。


「……貴様、何者だ」


 現れたのは長剣を携えた兵士だった。リトの情報通り、抑揚のない声だ。

 ジェイスは振り返り、相手を見てから悠然と微笑む。


「ゼルスの泥棒猫ですよ。怪盗リンクスアイズ、ご存じでしょう?」

「侵入者め」


 躊躇いなく兵士は長剣ロングソードを引き抜く。

 振り上げられる刃を余裕の笑みでかわしながら、ジェイスは開け放たれた入り口から出て行った。


「待て!」


 殺風景な部屋だと思ってはいたが、廊下は絨毯さえ敷かれていなかった。そのせいか靴音がやけに響く。これでは他の兵士も気付いて追ってくるかもしれない。実際、背後から聞こえてくる足音は増えてきている。


 ——まあ、こちらとしては好都合ですけどね。


 走りながら、ジェイスはふと一つの部屋を目にとめた。


 ちら、と後ろを一瞥し、追ってくる兵士の数を確認してから部屋に飛び込んだ。

 入り込んだ部屋は最初に入ったところよりもやや狭かった。家具は一つもない。特別に貴重なものは置いていない空き部屋のようだ。


「逃げられると思うな。それを返してもらおうか」


 抑揚のない声だった。前に進み出たのは最初に対面した男のようだ。右手にはしっかりと剣が握られている。

 追い詰められているこの状況が楽しくて観察していると、ガチャンという音が聞こえてきた。

 どうやら部屋の鍵を閉めたらしい。側から見れば、状況的には袋の鼠なのだろうが。


「これはおかしなことをおっしゃいますね。野生の猫が一度手にした獲物を返すはずないでしょう?」


 あいにくと、捕まってやるつもりはさらさらない。


 にっこりと微笑むと、彼は素早く魔法語ルーンを唱えて姿を消したのだった。





 * * *





 立ちふさがるような大きい両扉を目の前にして、リトは眉を寄せて考え込んでいた。


「……嫌な予感しかしないな」


 手元にある『追跡の地図』はこの先を示している。今まで通ってきた廊下には部屋ひとつなく、一本道だった。

 ということは、どうしてもこの部屋の中を通っていく必要がある。


「リト、前に来た時は部屋に何かいた?」

「ああ。炎狼フレイムウルフがいたよ」


 オレンジ色と赤毛の大きな体躯の狼だった。今でも鮮明に覚えている。炎の魔力をまとったモンスターだ。


「次はライオンだったりして」


 冗談混じりに、ラァラがくすくす笑った。

 イヌ科の次はネコ科か。そう考えた途端、四年前に見た鳥獣王グリフォンが脳内でよみがえり、リトは苦虫を噛み潰したような顔をする。


 さすがにそれは、勘弁してもらいたい。


「開けるぞ」


 警戒を目に宿して、リトは両手で扉を押し開ける。大きな割に案外軽かった。

 そして広い部屋の中央には、仁王立ちするオレンジと赤の毛並みの大きな獅子が。


「ごめん、予言しちゃった」

「さすがだな」


 もう、後には引けない。


 スラッと金属音をたてて、リトは片刃剣ファルシオンを抜きながら部屋に踏み込んだ。

 続いてラァラが入ると、予想した通り扉は自動的に閉まり、続いて鍵のかかった音が聞こえた。


 リトはそっと左手で、服の上から心臓のあたりを触ってみる。

 あれから——ラァラが「悲劇は起きない」と予言してから、痛みはない。できれば、このまま安定した状態を保ってほしいものだ。


 炎の魔力をまとった獅子は、普通のライオンよりもひとまわり体躯が大きかった。

 ひとまず部屋を見回して肌に伝わる魔力の正体を探り当て、リトは自嘲気味な笑みを浮かべた。


「どうやら、奴はよほど俺の闇魔法が恐ろしいらしいな」


 前回と同じく、光の精霊の気配がする。おそらく、今回も闇魔法を発動できないように仕組まれていると見ていいだろう。


「魔法、使えなくなってる?」

「ああ。だから、剣だけでやるしかないな」

「じゃあ、わたしは遠くからライオンの急所を狙うね」


 リトの背後でラァラが手にしていたのはクロスボウだった。準備は万端らしい。頼もしいことだ。

 彼女にひとつ頷いて、リトは剣を構えて獅子を睨みつける。


炎獅子フレイムリオンか……」


 リトが苦手とする炎の魔力を身にまとったモンスターだ。

 名前をつぶやくと同時に、獅子は唸りながら駆けてきた。予想以上のスピードに内心焦る。


「紅い猫さん、遊んであげる」


 リトの横から飛び出したラァラが、くすりと笑ってクロスボウを放った。矢はスピードを増していき、獅子のたてがみを掠める。

 大したダメージはないものの、引きつけるには十分だったらしい。一瞬だけ動きを止めた後、きんいろの目が翼の少女を睨みつける。


 しかし、獅子の動きを読んでいたらしく、ラァラはすでに距離を取っていた。

 炎獅子フレイムリオンが動く前に、今度はリトが前に出て片刃剣ファルシオンを振り上げる。鋭い光が弧を描くように軌跡を残し、鮮血が散った。


 多少なりとも手応えは感じた。

 耳を突き刺すような咆哮が、部屋の中で響く。それでもまだ致命傷ではない。

 怒りに燃えるきんいろの双眸がギラリと光る。獅子が大きく跳躍し、鋭い爪のある前足でリトを突き倒した。


「リト!」


 服を破り、獅子の爪は皮膚に食い込んでくる。思わず少しの悲鳴が口からもれてしまった。

 とにかく武器だけは手放してはならない。剣の柄をしっかりと力を込めて握り直す。


 不意に、炎獅子フレイムリオンは唸り声を上げ、押さえつけられていた圧力が弱まった。すかさずリトは前足から抜け出し、距離を取る。


 視線を巡らせば、ラァラが部屋の隅に移動し、両翼を広げて宙に浮いていた。獅子に狙いを定め、クロスボウを構えたまま睨んでいる。

 たぶん、炎獅子フレイムリオンがリトに気を取られている隙を突いて背後から攻撃し、すぐに逃げて距離を取ったのか。


 なんて素早い動きだろう。さすがは翼族ザナリール。風の民と呼ばれるだけのことはある。


 獅子がイラついたように唸っている。

 リトを攻撃すれば、背後からラァラの襲撃を受けて。空中にいる彼女を翼がない炎獅子フレイムリオンの爪はさすがに届かない。

 だとすれば、獅子が優先させるのは主人からの命令だろう。


 リトは目を眇めて、剣を握る手に力を込めた。


 炎獅子フレイムリオンは迷いを捨てたようだった。

 ラァラが放った矢が右肩に刺さったまま、巨獣は迫ってくる。リトは飛び退いてやり過ごすが、獲物を狙うきんいろの目はまだギラついていた。身軽く跳躍し、魔族ジェマの青年に襲いかかった。


 突き立てられた爪の傷による痛みが走り、リトはよけるタイミングを逃してしまった。ふらりとバランスを崩した隙を猛獣は見逃さない。リトの襟元を前足で踏みつけ、動きを封じた。


 剣だけでは、やはり限界があるのか。痛みに耐えながらあきらめかけていた時、リトはふとジェイスから借りた玉のことを思い出した。

 『追跡の地図』と共に手渡されたのは『死の導き』という魔法道具マジックツールだ。【一撃死クリティカルショット】の効果をもたらす宝玉。あれを使うのが今じゃないのか。


 手探りでポケットをまさぐって、ちゃんと宝玉が入っているかどうかを確認した。


 炎獅子フレイムリオンは前足を離すと、今度は爪先で顔を殴ってきた。悲鳴を押し殺していると、再び獅子が顔をしかめて唸り始める。またラァラの矢が獣の背に当たったようだ。


「ラァラ、矢を貸してくれ!」


 声を張り上げて叫んで、すぐにリトは立ち上がった。

 獅子から距離を取っていると、ラァラがリトのそばに素早く降りてきた。


「はい、リト」

「ありがとう」


 片手で受け取り、リトは口元を緩めた。

 爪による傷は痛いけど、今は笑うだけの余裕がある。この先、悲劇は起きないらしいから。


「よし」


 ポケットに手を突っ込み、リトはあらかじめジェイスに教えられていた魔法語ルーンを淀みなく唱えた。その直後、ラァラの矢を力の限り獅子に向けて投げつける。

 速さを増していく矢は途中で力尽きることなく、青い光をまとう。まるで意思を持っているかのようにまっすぐ向かっていき、炎獅子フレイムリオンの片目に突き刺さった。


 悲痛な方向が部屋に響く。


 のたうち回る猛獣を、リトとラァラは黙って見ていた。とりあえずは『死の導き』で炎獅子フレイムリオンにかなりの痛手を負わせることはできた。

 でも、まだ足りない。致命傷まで至ってはいない。視力へのペナルティーを与えただけで、動きまで鈍らせる決定打にはならないだろう。


 さて。これから、どう攻めたものか。


 頰を伝う血を片腕で無造作に拭いながら、リトは真夜中色の目を細めた。

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