3.薄藍の小鳥と旅医者

 ずっと昔。幼い時から、独りきりには慣れていた。

 自由がきくし、好きなことが思う通りにできるから、別に寂しくはなかった。


 そんな心境が一変したのは、大切な仲間達を得てからだった。


 離れてから、失ってから初めて分かる。心に穴が開いたかのように何かが抜けていき、空っぽになるのだ。

 好きなことをしてももう心が満たされることはない。この間は、向こうの気まぐれで差し伸べられた手を取ってみたけれど、やはりだめだった。何をすればこの穴は埋まるのだろうか。


 ——大丈夫?


 大丈夫じゃない。苦しくて、ひどく悲しいのだ。愛する妻が亡くなった後も、ルティリスが別れを告げて出て行った後も、この寂しさは未だに満たされないままだ。


 それなのに。


 さらにライズまで失ってしまったら、この心はどこに置いておけばいいのだろう。






 閉じている瞼の裏から光を感じた。

 上から降りてくる光だ。部屋の明かりだろうか。


 いつもなら難なく開くのだが、今日に限っては石のように瞼は重かった。ゆっくりと目を開けると、光が目に入り込んできて思わず目を閉じる。

 いくらか慣れてきた頃に再び目を開くと、そこには翼族ザナリールの少女がリトをじっと見ていた。


 ティオじゃない。この少女は、リトの部下よりも年下だったし、髪型も翼の色も違っていた。

 肩よりも伸ばした藍色のストレートヘアと、薄藍色の羽耳と翼。覗き込んでくるつった両目は濃い藍色だ。見かけで判断するなら、年齢は十代半ばくらい。まだ子どもの域を出ない少女だ。


 彼女は、一体誰なのだろう。

 当然ながら、リトにはそんな疑問が頭の中に浮かんだ。


「……誰だ?」


 声は予想外に掠れていて、内心驚く。

 そんなリトの心境を知るはずもなく、翼族ザナリールの少女はにこ、と笑った。


「よかった」


 鈴の音のような、可愛らしい声だった。ぼんやりとした思考の中でも、リトの耳は少女の声はしっかりと聞き取ることができたようだ。


「あなた、道端で倒れたんだよ。今、医者を連れてくるから待ってて」


 止める間もなく、少女は言い置いてさっさと行ってしまった。さすが風の民翼族ザナリール。行動が素早い。


 今はどういう状況なのか。考えることは山ほどあるのに頭は重くてガンガン響くし、ままならなくてもどかしい。

 横になったまままっすぐ視線をあげると、目に飛び込んできたのは見覚えのある薄いベージュの天井とガラス製の照明だった。


 少し頭を動かして、リトは部屋を見回す。


 背の高い木製の本棚に隙間なくうめられたたくさんの分厚い本。シンプルなデザインの花瓶と、壁にかけられた小振りなサイズの絵画。部屋の中央には書斎用の大きな机があり、その上には羽ペンとインクが置いてある。どれもリトにとって見慣れた家具や調度品の配置だった。それもそのはずだ。今寝かされているこの部屋はリトの自室なのだろう。

 ということは、外で倒れた時に誰かがリトの自宅まで運んできてくれたことになる。意識を手放す直前一番近くにいたのはティオくらいだし、非力な部下が大の男一人を運べるだなんてとても思えない。


 そもそもティオ本人は一体どこへ行ったのだろう。責任感が人一倍ある彼女がリトを放って自宅に帰るだなんて、それこそあり得ないだろう。


 分からないことだらけだ。だが、寝ている場合ではない。やらなくてはいけないことが、山ほどあるのだ。

 身体の気だるさはそれほど感じられなかったので、リトは起き上がってみることにした。


「……!」


 腕に力を込めて身体を起こした途端、倒れる寸前に感じた胸の痛みがよみがえってきた。思わず、胸を押さえる。


「……なんとも、ない」


 すでに痛みは感じなかった。

 何度か触ってみる。大丈夫のようだ。


 ため息をついてリトは腕を下ろした。


 視界の端に黒いものが映る。なんだこれ。髪が肩の上に流れているように見える。もしかして自分の髪の毛なのだろうか。伸ばしていた記憶は、ない。

 それによく見れば、着せられているパジャマも大きい。指がかろうじて見えるくらいに袖が長く、ダボダボだ。


「気分はどう?」


 いつのまにか〝医者〟が到着していたようだ。


 先ほどの薄藍色の翼の少女が連れてきたのは魔族ジェマの男だった。

 無造作に伸ばした青灰色の髪と目が特徴的な男で、意外とリトよりは若く見える。そして当然ながら、彼のことも見覚えがなかった。


 先ほどは相手が翼族ザナリールだったから警戒せずとも良かったが、相手が同じ魔族ジェマならそうもいかない。

 ティスティルの貴族の世界では、相手を簡単に信じるなら利用されて身を滅ぼす羽目になる。学園に通う前の子どもの頃から爵位を継いでからずっと、耳にタコができるほど言われてきた言葉だ。


 手に力を込めて、リトは男を軽く睨む。


「別に悪くはないが、お前たちは誰なんだ?」


 何度か声を出したせいだろうか。だいぶ声の掠れがマシになってきた気がする。


 鋭い視線を向けられても魔族ジェマの男は気分を害さなかったようだった。へら、と気の抜けたように笑う。


「オレの名前はラディアス。通りがかった旅医者だよ」


 はて。ラディアス……?

 聞いたことがあるような名前だ。どこで聞いたのかははっきりとは思い出せず、リトは首を傾げた。


 その時、ラディアスの横からひょっこりと少女が顔を出す。先ほどの薄藍の翼の少女だった。


「わたしはラァラ。ラディアスと一緒に旅をしているの」


 少女はそう言って、にこりと咲いたように笑った。


 ラァラと名乗る少女はティスティルではあまり見ない、珍しい服装をしていた。足首まで届きそうなひだ付きのスカートに、袖が長い衣装。襟はなく、前で合わせて着込むタイプの服だ。三年ほど前に仲間達と旅をしていた頃、ゼルスという国で見た、あのジェパーグの衣装に似ている気がする。


 ラディアスはへらへらと笑っているし、身につけている服はくたびれていて頭に巻いている布も色あせている。明らかにティスティルの貴族が身につけるような上等な装飾品ではない。名前はともかく顔に見覚えはないし、外の国から来た魔族ジェマだろう。

 安堵の息を吐いて、リトは闇色の目を和ませた。


「俺の名前はリトアーユ。王立魔術具マジックツール開発部に所属している者だ。お前たちが俺をここまで運んできてくれたんだろう? 助かった。ありがとう」


 ティオはパニックに陥るばかりだったし、リトも彼女に助けを呼ぶよう伝えることさえできなかった。ということは、おそらく偶然通りかかった彼らに助けられたのだろう、と結論付けた。

 いつもはついていないことが多いのに、今回に限ってなんて幸運なのだろう。


「どういたしまして。ねえ、なんて呼べばいい?」


 なぜかラァラが返事をして、笑顔を見せてくれた。隣のラディアスは黙って笑っているだけだ。


「みんなは俺のことをリトと呼ぶよ」

「じゃあ、リトって呼ぶね」


 濃い藍色の目を和ませて、ラァラは微笑む。少女らしい可愛らしい子で、同じ翼族ザナリールでもいつもメソメソ泣いてばかりいるティオとは違った印象を感じて、面白いなとリトは思う。


「それで、眠っている間にキミのことを診させてもらったんだけどさ。何の問題もなかったよ」


 やっぱりそうか、とリトは内心つぶやいた。

 発作が起こり始めたのは四年前、レイゼルの事件に巻き込まれてからだ。いや。それよりももっと前、星刻の鍵を持って聖地に赴いたあの時からだったのかも。


 とにかく、発作はあの時を最後にずっと起こっていなかったのだ。


 だが、旅医者ラディアスの言葉にはまだ続きがあった。


「……ただ、悲しみの精霊バンシーが心臓を止めようとしていた。なんとかなだめたけど、何か悲しいことがあった?」


 不覚にも。

 唐突すぎる指摘はリトの心を抉り、手の甲にぱたりと涙が落ちた。


 倒れる直前の出来事が一気によみがえってくる。苦しい。泣いている場合じゃないことは分かっているのに、自分では止められない。


 ふと、頭の上に温もりを感じた。目を向けてみると、ラァラが細い腕を伸ばしてリトの頭にてのひらをのせている。彼女は微笑みながら、そのままゆっくりと頭を撫でてくれた。


「泣けるなら泣いて、落ち着いたら話して。力になれるかも」


 凍えた心を包むかのようなぬくもりのある言葉だった。まぶしいラァラの笑顔が、ライズの笑顔と重なる。彼は事あるごとにティオだけでなく、上司相手にも関わらずリトの頭も撫でていたっけ。そう思うと、さらに涙があふれた。


 心の痛みに伴って涙は布団に落ちて、染み込んでいく。

 声を押し殺して泣いている間、ラァラは黙ってリトの頭を撫でて、ラディアスも何も言わずにリトが落ち着くまで待っていてくれた。

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