1.帰ってきた復讐者

 濃藍の夜空に無数の星が瞬く頃。

 デスクに置いたランプの明かりのもとで、本日最後の書類を書き終えると、少女はほぅと息をついて羽ペンを置いた。


 空色のショートヘアの少女は嬉しそうに微笑み、書類の束をデスクの上で軽く端をそろえる。

 彼女は空色の翼をもつ翼族ザナリールで、魔族ジェマの国ティスティルの王立魔術具マジックツール開発部では珍しいタイプの研究員だ。

 魔族ジェマばかりの研究員の中、翼族ザナリールは彼女だけ。けれど、少女は今では種族の違いなど気にしていない。

 大きな藍色の瞳で、今日一日の仕事の成果を誇らしげに見つめていた。


「ティオ、終わったかー?」


 間延びした声に、少女は羽耳を震わせる。

 振り返ると、肩より下までのばした月色の髪の青年が立っていた。青灰色の瞳を和ませて、へらりと笑う。つられて、ティオと呼ばれた少女も笑顔になった。


「はい、ライズさん。これで全部です」

「よく頑張ったなー。オレの方も終わったから、さっさと帰ろうぜ」


 はい、と元気よく頷いて、ティオはデスクの引き出しに書類をしまった。

 青年——ライズはというと、奥の洗い場へと入っていく。実験器具でも出していたのか、カチャカチャと奥の方で片付けの音が聞こえてきた。少し気にかかって様子を見に行けば、予想通り。きれいに洗ったばかりのフラスコをライズがガラスの戸棚へしまっているところだった。


「ライズさん、手伝いましょうか?」

「ありがとな、ティオ。じゃあ、一緒にコレ洗ってもらってもいいか?」

「はい!」


 カチャカチャと音を立てながら、ティオはガラスの器具についた洗剤の泡を落としていった。洗い終えたあと、やわらかい布で丁寧に水滴を拭き取ってから、なんとなく頭に浮かんだひとの名前を口にする。


「所長、最近元気になってきたみたいですね」


 開発室内では水音が耳につくものの、聞こえないほどではなかった。ライズは視線を手元に向けたまま頷く。


「そうなんだよなあ。時間は結構かかったけど、所長が元気を取り戻してきてよかったよ。ルティちゃんにフラれちゃって、またひとりぼっちになっちゃってさ。所長はただでさえ寂しがり屋なのに、やっぱりきついよなー」

「そうですねぇ……」

「でも、まあ仕方ないんだけどさ。出会いからして結構無理あったし。所長はインドア派だけど、ルティちゃんアウトドア派だったもんなぁ」


 二人が口にする所長とは、黒髪黒目の魔族ジェマのことだ。普段から横柄な口調できびしいところはあるけれど、ティオは彼のことを慕っていた。本当は優しい一面があることを知っているから。


「ティオ、このあと所長の自宅に行かないか? 様子を見に行こうぜ」

「はい、わたしも行きたいです!」


 最後のビーカーを拭き終えて戸棚にしまうと、意気揚々とティオは答えた。その時、突然ライズはあっと声をもらす。


「これ、しまうの忘れてたな。ティオ、悪いけどこの【銀酒シルヴァリキュール】を保管庫の中に入れてきてもらえないか?」

「はい!」


 ライズから手渡されたのは三日月型の瓶に並々と入っている透明の液体だった。その名の通り酒の一種だが、ただの酒ではなく研究所内で貴重品として扱われていることをティオ自身もよく知っている。

 洗い場とは反対方向の、開発室内の奥にある扉が保管庫に通じていたはずだ。

 早く上司の自宅に行きたい気持ちがはやって、ティオはぱたぱたと小走りで向かった。

 その彼女の目の前に、突然大きな影が立ち塞がる。


「……あ」


 行く手を塞いだのは、見たことのない長身の魔族ジェマだった。

 肩より長い血のような深紅の髪に、冷たく見下ろしてくる薄いグレーの瞳。笑った口からのぞく鋭い牙を見て、ティオはすぐ彼が吸血鬼ヴァンパイアの部族だと悟った。


 逃げなくちゃ。


 頭では分かっていても、すでに遅かった。相手の目を思わず見つめた瞬間、呪縛にかかったように身体が動かなくなる。吸血鬼ヴァンパイアの金縛りだ。じわじわと侵食してくる恐怖に満たされ、足が震えた。


 魔族ジェマの男はティオの手元にある【銀酒シルヴァリキュール】に視線を注いでいるようだった。

 薄く微笑み、まるで横からさらうように三日月型の瓶を奪って上着のポケットにしまう。それから無抵抗な翼族ザナリールの少女に足早に近付き、強い力で腕をつかんできた。


「ティオ? どうし——!」


 すぐに戻ってこない部下を心配したのだろう。ライズが姿を見せ、魔族ジェマの男を見ると瞠目どうもくした。

 姿を見せた小柄な青年のことは知った顔だったのか、紅い魔族ジェマは愉しそうに笑った。


「久しぶりだね、坊や」

「……ずいぶんと早く戻られたんですね」


 来ちゃだめ、と叫びたかった。

 上司でもあるライズは身体があまり丈夫でないことは知っていたし、体格のいい吸血鬼ヴァンパイア魔族ジェマに敵うはずがないことも分かりきっていた。

 けれどなにかで喉が塞がれていて、ティオは声を出すことができなかった。恐怖が胸をも侵食し、大きな瞳に涙がたまっていく。


「おかげで時間と金はかかったがね。リトアーユは元気か?」

「ええ、所長は元気でやっていますよ。そんなことより、その子を離してあげてくれませんか? 用があるのはオレと所長でしょう」


 歪みそうな視界の中、かろうじてライズの姿をとらえる。彼の声は落ち着いているように聞こえた。


「君が私のもとに来るのなら、この娘は離そう」

「オレがあなたのもとに行ったら、ティオを離すっていう保証はあるんですか」

「時間稼ぎかね? 私はどちらでも構わぬのだよ、坊や。この娘を連れて行くだけだ。翼族ザナリールの血は美味いからね」


 ティオの心臓が一気に冷える。動かなかったはずの手が震え始めた。


 こわい。誰か助けて。

 瞳にたまっていた涙があふれ、頰につたって落ちる。


「……分かりました。オレがそっちに行くので、ティオはちゃんと離してあげてください」


 ライズは眉を寄せ、まっすぐに深紅の魔族ジェマを見据えた。

 薄いグレーの目がわらう。


「ああ、誓おう? 私は嘘を言わぬよ」


 口を引き結んだまま、月色の髪の青年はゆっくりと吸血鬼ヴァンパイア魔族ジェマに歩み寄る。

 ついにティオが触れられそうなほど近づいてきた時。深紅の魔族ジェマはライズの腕をつかんだ。


「約束です。ティオを離してください」


 その言葉を待っていたかのように、男はティオを解放した。背中をとん、と押されたためによろけて、危うく転けるところだった。それでもなんとか踏ん張ったのは、いつも優しく接してくれる上司のことを慮ってのことだった。

 心配で顔を上げれば、すぐ近くにあったライズの青灰色の目とかち合う。


「ティオ、所長呼んできて。オレ、殺されちゃうかも」


 耳元でささやかれた、小声に近い言葉だった。それでも、しっかりティオの耳に届いた。


 泣いてる場合じゃない。

 彼は命をかけて自分を庇ってくれたのだ、と思い直して涙を引っ込める。


 ひ弱な翼族ザナリールのティオができることはひとつだけ。ライズの言うように、手を貸してくれる助っ人を呼んでくることだ。


 なるべく目を合わせないようにして、深紅の魔族ジェマの横を素通りし、翼族ザナリールの少女は駆け出した。

 向かうのは当然、開発室の出口に通じる扉。いつも何気なく出入りしているのに、なぜ今はこんなにも遠く感じるのか。


 背後で激しい物音に聞こえてきて、ティオは思わず立ち止まった。続けて聞こえてくるライズの悲鳴に肩を震わせる。


「やめてください!」


 一度だけではなかった。何度も聞こえてくる。

 本当に大丈夫なのだろうか。いや、大丈夫なわけがない。あの男はライズよりも背が高くで体格がよかったじゃないか。


 なにも見ないままに去るのが怖かった。

 おそるおそるティオが振り返ると、目に飛び込んできた光景に戦慄する。


 吸血鬼ヴァンパイア魔族ジェマが必死に暴れる上司を押さえ込み、覆い被さっていた。相手の肩に頭を埋めている。


 男がなにをしているかなんて、考えなくとも分かっていた。

 血を吸われている。同族でも襲う悪い魔族ジェマがいると聞いてはいたものの、ティオが目にするのは初めてだった。


 いつまで、男はそうしていただろうか。バタバタと手足を大きく動かして抵抗していたライズの声は次第に小さくなって消えてしまい、ついには手足もぱたりと動かなくなってしまった。


「……あ……あぁ」


 吸い尽くされてしまった。そう悟った時、ティオは心臓をつかまれたような感覚に陥った。再び涙があふれて、身体が震えた。

 ライズが、喰い殺されてしまった。


 深紅の魔族ジェマがゆるりと立ち上がる。動かなくなってしまった痩身の青年を見下ろして、愉悦の笑みを浮かべた。

 次は、おまえの番だ。

 向けられた薄いグレーの瞳がそう言わんばかりに翼族ザナリールの少女を射抜く。


 こわい。だけど、死にたくない。逃げないと殺される。

 研究員のほとんどが出払ったこの場所で叫んで、一体誰が助けに来てくれるというのか。


 折れかけた気力を奮い立たせ、ティオは一気に開発室を飛び出した。後のことを考える余裕なんてなかった。

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