しょくざいの男
楠樹 暖
しょくざいの男
地獄から甦った男が料理店の前に立っていた。かつて男が騙した友人がやっていた店だ。
(ここは変わらないな)
男が店に入ると若くて威勢のいい挨拶が客のいない店中に響いた。
「いらっしゃいませ!」
店主は男の顔を見ても特に普通の様子だった。
てっきり憎悪を向けられると思っていた男は拍子抜けをした。
(ま、もっとも俺が最後にここに来てから二十年は経っているしな。その頃子供だったこいつが俺のことを覚えているはずもないか)
「何にしますか?」
男は壁に貼られたお品書きを舐めまわすように見た。
(あいかわらず汚らしい店だな。ま、もっとも改装にかける金を俺が奪ってしまったからな)
古いお品書きの中でも一つだけ比較的新しいメニューがあった。
「あの【名物特製ハンバーグ定食】をくれ」
「はい! 特製ハンバーグ定食一丁!」
ぺちぺちとミンチを叩く音、じゅうじゅうと焼く音が聞こえる。
出てきたハンバーグには黄色いチーズが乗っており、熱で溶けて角がなくなり丸くなっている。
その上にはキノコの入ったデミグラソースがかけられている。
添え物のホウレンソウの緑とコーンの黄色が鉄板に彩りを添える。
香ばしく焼き上げられたハンバーグとデミグラソースの香りが食欲をそそる。
ごくりと生唾を飲んだ男は「いただきます」と言い割り箸を割った。
ハンバーグの端を箸で挟むと利き手に弾力を感じた。そのままグイッと力を込めると一口サイズに千切れ、とろりと肉汁が溢れ出た。
魅惑の一片を口へと運ぶ。
「うまい!」
店主がにこりと微笑んだ。
「これは親父が残してくれたレシピで作った料理なんです」
「ほう……。で、その親父さんは?」
「もう十年ほど前に亡くなっています」
「そうか、それは悪いことを聞いたな……」
「いえ、いいんです。親父はお客さんのおいしいっていう一言を聞くのが好きだったんです。さっきお客さんが『うまい』って言ってくれただけで浮かばれると思います」
(あいつはもう死んでいたのか。ま、もっともあいつは俺とは違って天国に行っただろうから、地獄に落ちた俺とは会うこともなかっただろうな)
男は残りの料理をおいしそうにたいらげた。
「おいしかったよ」
男は勘定を置いて店を出た。
「ありがとうございました!!」
店主の声が歓喜を孕んで来店時よりも大きく響いた。
(あいつと同じであの息子も騙されやすい奴だったな。俺の嘘に気がつきもしない。俺にはあの料理の旨さがよく分からないっていうのに。ま、もっとも俺には料理を味わう舌が無いんだけどな)
男はペロッと舌を出そうとしたが出せなかった。
嘘をついた代償として地獄で鬼に抜かれた舌は、男に味覚を伝えることはなかった。
(了)
しょくざいの男 楠樹 暖 @kusunokidan
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