転校生は人気者⑦
待ちに待った放課後。一コマ一コマの授業がいつもの何倍も長く感じたがようやく終わった。蒼が不自然でない程度にゆっくりと帰り支度をしていると、思ったとおり、樹は適当に教科書を鞄に放り込んで、さっさと帰っていった。また樹に絡まれても面倒だ。先にいなくなってくれたほうがいい。
蒼は、はやる気持ちを抑えて、廊下を歩く。帰りのバスが最寄りについたら、まっすぐに河川敷へ向かおう。瑚白は先につくだろうか。
自身が競歩に近いスピードで歩行していることに、蒼は気がつかない。
不意に、誰かが蒼の左手を掴み、蒼の体は遠心力で持っていかれる。
見れば、蒼の勢いに引っ張られるようにつんのめる瑚白の姿があった。よろけた瑚白を、慌てて支える。
「うわぁ、ごめんごめん! 大丈夫?」
瑚白は、蒼の腕を支えにして体勢を立て直し、こくりと頷く。その姿が可愛らしく、蒼の心臓は、どきんと跳ね上がる。
「ど、どうしたの、湊さん。僕も慌てていて申し訳なかったけど、危ないよ?」
「思ったより、勢いが、あった」
表情に変化はないが、どうやら瑚白は驚いているようだ。
「本当に、ごめんね。で、どうしたの? 今日、行けなくなったとか?」
蒼は不安になって聞く。瑚白は首を横に振った。
「今日、あそこに行くことは、決まっている。どうせ向こうで会うから、一緒にいこう」
「……そのために、引き止めてくれたの?」
瑚白はこくりと頷く。蒼はなんだか涙が出そうになった。
瑚白が、支えにしていた蒼の腕をそのまま引きながらバス停のほうへ向かう。
これって、マジでチャンス到来なんじゃないの? 付き合える?
蒼の思考回路は、ショート寸前だった。
隣の席に座っている瑚白を、蒼は横目で見る。窓の外を一心に見ている灰色の大きな瞳。彼女は今、何を考えているのだろうか。
バスの席は横に広くはなく、男性にしては小柄な蒼と華奢な瑚白が並んでも、二人の間に隙間はない。衣服が触れ合った右側面に全神経が集中している蒼の鼓動は、持久走でもしているかのように早い。
混雑のピークから少し遅れたバスに乗車したため、車内は立っている生徒もいるが、ぎゅうぎゅう詰めではない。蒼が見渡したところクラスメイトの姿はなく、ほっとしたような残念なような気持ちになった。
蒼の最寄りのバス停を越えて、さらに十五分ほど走る。乗客は次第に減っていった。南からぐるりと周ると、昨日猫と会ったあの橋の付近を通る。そこからほど近いバス停で下車した時には、蒼たちが最後の乗客だった。蒼にとっては初めてのルートだったが、瑚白の家はこのバス停が最寄りだそうだ。
幸せな時間というのはあっという間なもので、外に出た蒼は、瑚白と隣同士で触れ合っていた距離を名残惜しく思う。
瑚白は特に何も喋らない。蒼は何か話しかけたいと思ってはいるがまとまらず声をかけることができない。橋と反対方向へ迷いなく歩く瑚白の後ろを、蒼は結局黙ったままついていく。信号を渡った先にペット用品店があった。瑚白はミルクとキャットフードを購入する。昨日箱の中にあったものと同じものだ。
「いこう」
瑚白について歩き、河川敷への階段を下りた。
昨日と変わらない場所で、箱の中の子猫は丸まって眠っていた。瑚白はすぐそばでしゃがみこみ、眠る子猫をじっと見つめる。その表情に変化は見られないが、どことなく優しい目をしているように、蒼は感じた。
「今日もいたね、猫。湊さんが言ったとおりだ」
「決まっていることだから」
瑚白は、淡々と答える。
瑚白の人差し指が子猫の頬に触れようとすると、子猫の耳がぴくっと動く。瑚白は迷っているように指を宙に彷徨わせていたが、しばらくして引っ込めた。子猫の体は、呼吸に合わせてわずかに上下している。
「触るか悩んでる?」
「起こすかも、しれない」
両手を膝の上で祈るように組んで、無表情で子猫を眺める瑚白を、蒼は観察する。
隣に並んで、二人だけで猫を見ている。昨日クラスで一言も話しかけることができなかった自分が、二日目にしてこのシチュエーション。まだ神様に見放されたわけではないようだ、と蒼はしみじみと神様に感謝した。昨日恨めしい気持ちになったことは撤回する。
瑚白は感情が表に出ないだけで、優しい心の持ち主なのだろうということは、わずかな時間ながら一緒にいて蒼が感じたことだ。見知らぬ猫のために、迷わずミルクを買ってくるところ。触りたいけど、起こしたら可哀想だからと悩んでいるところ。瑚白のその様子に、蒼の心はくすぐられる。
この時間がずっと続いてほしい。明日も、明後日も、放課後はいつも一緒に、こうやって隣に並んで猫を見ていられたらどんなに幸せだろう。そして、その時間が積み重なって、いつの間にか二人の心の距離が縮まって、お互いがなくてはならない存在になって。この猫と一緒に、二人と一匹で住もうか、なんて言っちゃったりしちゃって――。
蒼の妄想は止まらない。
ふう、と少しだけ長く瑚白が息を吐いた。
「どうしたの?」
蒼が聞く。瑚白は猫から視線をあげない。
「明日、猫は、ここにいない」
「え」
瑚白の言葉に、蒼の中で先ほど構築された妄想世界が、石造りの建物が壊れるようにバラバラと崩れていく。
「今日が、最後」
小さい口を目一杯広げて欠伸する猫を見つめる瑚白の瞳から、切ない気持ちが感じられる。
「この猫は、どうなるの?」
「それは、わからない。わかるのは、明日ここにきて、猫がいないということだけ」
「そう、なんだ」
蒼は落胆する。せっかくの瑚白との接点が、失われたからだ。明日からはまた、クラスメイトに囲まれる瑚白と、話すこともできない毎日になるのだろうか。
もちろん、そんな自分勝手な落胆を、瑚白自身に伝える必要はない。
「猫はきっと、優しい誰かが拾ってくれて、育ててあげるんだろうね」
「そう、だといい」
後ろ暗い気持ちを隠すように少しだけ見栄を張った蒼の言葉に、瑚白は純粋にこくりと頷いた。
いつまでもすやすやと眠っている子猫を、二人は暗くなるまで眺めていた。
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