転校生は人気者⑤

 橋の上からだと、川の流れる音が聴こえていただけだが、河川敷に下りると、その距離がぐんと近づいた分、水の香りや生命力みたいなものを感じられる。

 蒼は、深く息を吸い、吐く。思い出すのは、瑚白が教室へ入ってきたときに受けた鮮烈な衝撃だ。

 まだ、話しをしたことも、目があったことさえないのに、蒼の心臓は跳ね上がり、明らかに平常時ではない脈を打っていた。こんな気持ちになったのは初めてで、次々とやってくる大きな波のような感情の処理の仕方が分からず、胸がざわめいている。

 心が落ち着かず、息が吸いづらい。立ち止まって、何度も深呼吸をする。

 こんな気持ちになれたのに、話しかけることすらできなかった自分に、蒼は自身を不甲斐なく思った。

 明日こそ、きっと話しかけよう。どのタイミングで、なんて声をかけたらいいだろうか。どうして転校してくることになったの? という質問が無難だろうか。いや、でも、その質問は何度も聞かれてうんざりしているかもしれない。趣味はなに? 広げられる自信がない。彼氏はいるの? そんなこと、聞けるはずがない。

 蒼の脳内で、明日の瑚白とのトークシミュレーションが繰り広げられる。

 気がつけば、一丁先の橋の近くまで来ていた。そして、その橋の下に、脳内シミュレーションに出演していた瑚白が立っている。

「え? 幻?」

 蒼は、数メートル先に立っている少女の存在をあまりにも信じられず、目をこする。瑚白のことを熱心に思いすぎて幻覚が現れたのかと思ったが、どうやらそうではない。

 距離が近づいてきても姿が消えることはなく、紛れもなく瑚白の姿がそこにあった。

「えぇ? こんなところで何してるの?」

 シミュレーションが役に立つことなく、蒼はただ素っ頓狂な声をあげていた。

 瑚白は表情筋を動かすこともなく、じっと蒼の方を見ていた。間近で見る瑚白の肌は、きめ細かく真っ白で、ぱっちりと開いた大きな目は、瞳が灰色がかっていた。

「くるとおもった」

「え? なんで!?」

「予知」

 瑚白はぶつ切りに話す。無駄なことは一文字も言わない、といった感じだ。人見知りなのか、元々こういう話し方なのか。声は女性にしては少し低めだ。

「湊さんは、未来予知の能力をもってるんだ?」

 頭の中では何度も名前を反芻していたけど、実際に名前で呼ぶ度胸はもちろん蒼にはなく、距離感たっぷりの呼び方をする。瑚白はこくりと頷いた。

「じゃあ、僕がここに来ることがわかっていて、待ってくれていたってこと?」

 瑚白が予期せず蒼の目の前に現れたことで、逆に緊張する間もなくスムーズに話せている気がする。

 瑚白は、小さく首を傾げて、少しの間考えて答えた。

「べつに、避ける理由がない」

 蒼は、息が止まりそうだった。深い意味はないのだろうが、避けられていない、という事実だけで小躍りしだしそうなほど嬉しいのは、あまりにもハードルが低すぎるだろうか。

「私は、今日、あなたと会うことが、決まっていた」

「どういうこと?」

「昨日、見えた」

「翌日のことがわかるっていうこと?」

 蒼が聞くと、瑚白はもう一度頷いた。

「こうやってここで僕と会って話すことを、湊さんは昨日から知っていたんだ」

「あなたと会うこと、わかっていた。でも、何話すか、知らない」

「湊さんの能力では、会話までは見えないっていうこと?」

「声、聞こえない。見えるのは、行動だけ」

 どうやら、瑚白の未来予知の能力は、全て事細かくわかるものではないようだ。瑚白が視ているのは、無声映画のようなものだろうか。

 にゃあ、と足元から声が聞こえた。蒼が視線を下ろすと、瑚白の後ろに、ダンボールがあって、茶色の子猫が顔を出していた。

「猫だ。小さいね」

 蒼はダンボールに近寄り、しゃがみこんだ。人差し指で顎をなでると、小さな猫は嫌がることもなく顔をすりつけてくる。

 瑚白が蒼のすぐ横にしゃがみこみ、並んで猫を見つめる。ふわっと風に揺られた長い黒髪から、まるで森のような澄んだ香りがして、蒼は途端にドギマギと落ち着かない気持ちになる。スカートがまくりあがり、華奢な膝が見えた。ほっそりとした艶やかな太ももに目を奪われそうになり、蒼は慌てて目をつむった。

 そんな蒼の緊張を瑚白は知る由もなく、大きな目で蒼の指にじゃれつく猫を見つめていた。

「この猫は捨て猫だよね。どうしよう?」

 緊張がバレないように、平静を装って蒼は瑚白に尋ねる。瑚白は猫のほうばかりを見ている。

「どうするか、わからない。猫は、明日もここにいる。それは、決まった未来」

「湊さんが見る未来予知は、必ず当たるの? 変わることはない?」

「私の見る明日は、必ずやってくる。それより先は、もやもやしていて、変わる可能性がある」

「なるほどねえ」

 つまり、この猫は今日誰かに連れて帰ってもらうこともなく、飼い主が迎えにくることもない。瑚白にもきっとどうすることもできなくて、蒼だって急に家に猫を連れて帰ることはできない。

「置いていくの、可哀想だな」

 太陽の姿はもう見えず、オレンジがかった空は、端から徐々に暗くなりつつある。

 不意に、瑚白が立ち上がった。蒼は瑚白を見上げる。

「大丈夫。猫は、明日も生きている」

 未来予知ができる瑚白の言葉は力強く、蒼は圧倒されて頷く。

「そして私たちは、明日もここに来る」

「えっ、そうなの?」

 蒼が思わず聞き返すが、それに返事をすることもなく、瑚白はスカートのひだを整えた。

「じゃあ」

 瑚白は手を振ることもニコリとすることもなく、蒼が来た方向とは反対側に歩いていって、すぐそばの階段を上がっていく。一度も振り返ることはなかった。

 呆然と瑚白の背中を見送っていた蒼は、姿が見えなくなってもしばらくそちらを見つめていた。猫に軽く引っ掻かれ、その痛みで我に返る。猫がかまってほしそうに、蒼を見上げていた。

 見ると、ダンボールの隅には、ミルクと子猫用キャットフードがある。おそらく、瑚白が持ってきたのだろう。柔らかいブランケットは、元からあったのだろうか。

 信じられない展開に、まだ頭が追いついていない。きっと夢を見ていたんだよ、と誰かに言われたら、そうですよね、とすぐに信じてしまいそうなほど、蒼にはこのたった数十分の実感がなかった。

 夢なら夢で、いい夢だったな。

 まだ遊んでほしそうな子猫の頭をわしゃわしゃとなでて、蒼は立ち上がる。

 願わくば、夢の続きが見られますように。

 蒼は頬が緩むのを止めることができなかったが、辺りが暗くなっていたため、それが目立つことはなかった。

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