第66話 ルカとめいぷる

 都内でも有数と言われるほど設備の行き渡った総合病院には、平日も土日も沢山の人々が来院している。


 六階にある一人用の病室まで辿り着いた少女は、スライド式のドア前で足を止めると小さくため息を漏らした。


「……お父さん」


 彼女はおそるおそるノックをして中に入った。今まではそれなりに元気な声で出迎えてくれたはずの父親は、ベッドに横たわったままで、優しげな目だけを彼女に向ける。


「おお……今日は早いな」

「うん。特に何も用事がなかったから」


 微笑を浮かべてパイプ椅子に座ると、徐々に父親の様子が解ってくる。ほんの二日前に会った時よりも頬がこけていた。どうやら彼は、もう笑顔を作る気力すら残っていないらしい。


「最近な。父さんは夢を見るんだよ」

「……夢?」

「そうだ。私は普通に会社に行って、家に帰ればお前達がいる。休みの日はキャンプに行ったり釣りに行ったり、映画館や劇場に行ったりしてな。とにかく私は忙しいんだ。でも、夢から覚めて現実に戻った時……ふと思う」


 めいぷるは彼の消え入りそうな小さなつぶやきを一生懸命聞いていた。


「あれは夢というより、本当に過去の私だった。私は今、以前は当たり前にできていたことが羨ましくて仕方がないんだと気づいたよ。人は年を取るほど、今までの当たり前が当たり前ではなくなる。老いや病がいつの間にか何かを奪っていくんだ。私はここに入院した時、夢で見た過去の自分を失ったのだろう」


 彼女は込み上げてくる涙を抑えながら首を横に振る。父は確かに彼女の憧れであり、今も尚気持ちは変わらない。


「失ってなんかいないよ! きっと良くなるから。先生だって、少しずつ回復しているって言ってるよ」


 嘘であることははっきり解っていた。それでも彼はめいぷるを問い詰める様子もなく、彼女の言葉に聞き入っていた。


「……この前会わせてくれた子とは、最近どうしてる?」


 圭太のことだった。めいぷるは父を安心させたい一心で、圭太と自分が付き合っていると嘘をついていたのだ。


「ん。いつも会ってるよ」

「彼は実直そうな男だったな。今はまだまだ荒削りかもしれないが、年若い人間にしては珍しく情も熱そうに見える。大事にしなさい」

「う、うん……」


 本当は付き合ってなどいないことがバレそうな気がして、彼女はあまり多くを語れなかった。


「私がもし……ぐ、ごふっ!」

「きゃ!? お父さん! お父さーん! 誰か、誰かぁっ」


 口から血を流した父親を見て混乱しためいぷるは部屋を飛び出し、大声で助けを呼びに走った。看護士と医師が駆けつけてその場は収まったが、もう予断を許さないところまで来ていると彼女は直感した。面会の途中で帰るしかなくなり、無力な自分が嫌気がさしてしまう。


 帰り道、彼女は国道脇の狭い通路を歩きながら、涙が頬を流れていくことを止められなかった。辛くて悲しくて、このまま家に帰りたくない。そう思った彼女は電車に乗り、少し遠くの駅までやって来た。自分の生活圏とはほど遠い、都内にしては広々とした街並み。


「今日はあそこに寄ってから帰ろう……」


 父の死が迫っている。押し潰されそうになる気持ちを紛らわせる場所を他に知らなかった。めいぷるが俯きながら繁華街を歩いていると、誰かが向かいから猛然と走って来てすれ違う。


「え? け、圭太君?」


 振り返った時には、彼の後ろ姿はもう小さくなっており、声も掛けにくい距離まで開いていた。でも、あの背中は圭太のものに違いない。


「一体どうしたんだろ……」


 めいぷるは喫茶店までやって来ると、もう一点いつもとは違うことに気がついた。窓際の席に座って元気いっぱいで騒いでいることが常である少女が、今は大粒の涙を流していたからだ。


「こんにちは……あ、あの。ルカさん」


 ルカよりも先にめいぷるに気がついたのは、隣に座っていたマスターだった。


「あ! い、いやー。圭太君のお友達だよね? ささ、どうぞどうぞ」


 マスターの声を聞いてめいぷるに気がついたルカは、何事もなかったかのようにスマートフォンを眺めている。めいぷるは彼女のことが心配になり、おそるおそる側まで歩み寄る。


「どうしたん……ですか? ルカさん」

「え。あ、めいぷるちゃんじゃない。別に何でもないわよ。暇だったから時間を潰していただけ」


 ルカは疲れた顔の上に、むりやり微笑を塗りたくっているようだった。一体どうしたのだろうと不思議に思っていると、マスターはルカの向かい側の席に水とお絞りを置いて、


「どうぞどうぞここに座って! 今日は常連さんが沢山来てくれて嬉しいなー。ははは……」


 明らかにオロオロしているマスターに会釈をして、やっとめいぷるは腰掛けた。


「あの、さっき……圭太君だと思うんだけど。凄い勢いで走って行ったんです。もしかして、彼と何かあったんですか?」

「…………」


 ルカはまるで小さな子供が怒られているように俯く。マスターは明らかに空元気を振りまいているが、どうやら彼女のことが心配で堪らないらしい。


「あたしね、圭太に嫌われちゃった」

「……圭太君に?」

「うん。引っ張り回してばっかりだったから、流石に嫌になっちゃったみたい。さっきまでめいぷるちゃんの席にいたのよ。ドンって机叩いて、走って行っちゃった」

「圭太君が……そんなに」

「あ……ごめん。全然意味解んないよね。今の話じゃ」


 彼女はめいぷるに、圭太が喫茶店に入って来てからのことを少しずつ話していく。一通りの流れを言い終えた彼女は今度こそ我慢が効かなくなり、涙をポロポロとこぼし始めた。またもどうしていいか解らないマスターがやって来る。


「ルカさん。今日はもう休んだほうがいいんじゃないかなー。きっと疲れているんだよ。早いうちにお家に帰ったほうがいいかもしれない」

「…………やだ。それとうるさい」

「あ、はい。すみません」


 気まずそうにマスターは後ずさり、コソコソとカウンターへ戻って行った。そして次はルカが好きだったタピオカミクルティーを作り始める。


「ルカさんは、圭太君が本気で怒ったって思ってるんですね。でも、それは違うと思いますよ」

「……え?」


 ルカは俯いていた顔をあげて、今日初めてめいぷるの目を見つめた。


「圭太君は、きっとランスロットさんのことを心の底では慕っていたんじゃないかなって思うんです。でもあんな風にお別れすることになって、カイさんを捕まえることもできずに終わって……悲しさと悔しさに引っ張られていたんですよ」

「……」

「だからルカさんに当たっちゃったんだと思いますよ。圭太君がそんなこと言う人じゃないってことは、私今まで話してきて解るんです。本当は言ってしまったことを後悔しているでしょうし……きっと仲直りできますよ」


 めいぷるをずっと見つめていた少女は視線を落として、今度は落ち込んでいる様子を隠さなかった。


「そうなの……かな」

「はい! きっと大丈夫」


 めいぷるは父親に向けてきた微笑をルカに向ける。彼女は体の傷だけではなく、人の心を癒すことも上手だった。しかし彼女自身にはそんな自覚はない。ルカの曇っていた心は、少しだけ晴れて光が差してきたようだった。


「それなら……いいけど! あたしに楯突いたことは今回限り許してやってもいいわ! あのバカ、今度リーダーのあたしに暴言を吐いたらゾンビの餌にしてやるからっ」

「ふふふ! 本当にやりそうだから怖いです」

「当たり前でしょ! 有言実行があたしの座右の銘よ!」


 彼女は先程とは打って変わって、胸を張ってめいぷるに正面から笑顔を向けている。ふとめいぷるは、今までずっと気になっていたことを質問してみたくなった。今なら、むしろ聞いても大丈夫かもしれない。


「ルカさんは、圭太君のことが好きなんですか?」

「……へ?」


 ルカは数秒めいぷるをじっと見つめたまま時間を止められたかのように固まり、やがて西瓜のように顔を真っ赤にさせると、


「な、なななー! 何言ってんのよめいぷるちゃん! あたしが何でアイツを好きにならなくちゃいけないの!」

「あら、違うんですか?」

「ち、違うっていうか、そもそも」

「ふふふ。じゃあ、そういうことにしておきましょうか。きっと圭太君は、ルカさんのこと好きなんだと思いますよ」


 ルカはぷいっと顔を窓に向けて腕を組むと、さっきまでとは違う怒り顔になっている。だがもう暗い顔は残っていなかった。


「ちょっと! 何言ってのよぉっ。アイツ前に言ってたし……あたしのことなんて全然好きじゃないって」

「んー。圭太君も圭太君で、素直じゃないって感じですね。嘘だと思います。それ」

「……え? そうなの?」

「そうですよ。みんな片想いだって思っているから、自分も好きじゃないって周りにはいっちゃうんです。だからルカさんは、」


 これ以上言われることに耐えられなくなったルカは、勢いよくみを乗り出して、


「もうっ! この話はこれでおしまい! これ以上突っ込んだらめいぷるちゃんを強制脱衣麻雀の刑にするわよ」

「ふええっ!? そ、そんな〜」

「それとっ! アンタ年上なのに、いつまであたしに敬語使ってるつもりなの!? いい加減タメ口になりなさいよ!」

「え、えー……でも」

「いいからっ! 次に敬語を使ったらそのおっぱいを使って一発芸をしてもらうわ」

「きゃああー。な、何でぇ!? そ、そんなの無理ですー……あ!」

「はい決定! 早速やってもらうわよめいぷるちゃん」

「いや、ちょ、ちょっと! 掴まないでー」


 マスターは店内で騒ぎ始めた二人を見て心から安堵のため息を漏らし、ぼうっと外の風景を眺めコーヒーを口に運んだ。メイプルもまた、ルカの明るさに救われている。二人はしばらく店内を走り回っていた。




 さっきまではずっと全力疾走だったが、流石に疲れてきた。自宅までの帰り道を歩いている俺は、喫茶店からここまでの記憶がほとんどない。無我夢中で必死になって、言うつもりがないことまでガンガン言ってしまった。後から湧き上がってくる後悔に胸が押し潰されそうになってくる。


「言いすぎちまったかな。流石に……」


 解ってる。本当はルカのせいなんかじゃないんだ。俺が運営を挑発していることがそもそもの発端だったのに、怒りに駆られて当たっちまった。まあでもルカのことだ。俺が怒ったことにムカついても、傷つくことなんてないだろ。


 でもやっぱり気まずい。謝ろうかな、とか考えつつトボトボ歩いていた俺は、不意にスマホがバイブレーションしたことに気がついて急いでポケットから取り出した。


「ルカ!? ……じゃ、ねえか……。つうか。これ」


 通話を知らせるバイブレーションは今も止まらない。まさかとは思ったが、こいつから電話が掛かってくるなんて信じられない話だ。俺は通話ボタンをタップして、静かにスマホを右耳に当てがう。


「……」

「やあ圭太君。昨日はすまなかったね。ちゃんとした挨拶もせずに抜けてしまって」

「ランスロット……よく俺に電話なんかしてこれるよな。舐めてんのか」


 スマホの奥で奴の笑い声が聞こえた。もしこの場にいたら殴っている。


「はははは。怖い怖い。君にはどうしても話しておきたいことが残っていたのでね」

「話しておきたいことだと?」

「ああ。君が最後の戦いに参加して、本当の背景を知ることもなく死んでしまうのはあまりに可哀想だからさ」


 俺はランスロットの言葉に、収まっていた怒りがまた吹き出し始めていた。


「随分なもの言いじゃねえかよ! 死ぬのは俺じゃなくてランスロット。お前のほうだ」

「ふふふ。僕は現役を退いた身だったが、小僧に倒される程落ちぶれてはいないんだよ。さて、今から君に一つのデータを添付して送るとしよう。それがあれば君はある場所に入ることができるんだ。そこにはカイも僕も、名無しもいない。襲われる心配は百パーセントないことを保証するよ」


 今度は何をしようっていうのか。あそこまで思い切り裏切った奴の言葉に、どんなアホが乗るっていうんだよ。


「データだ? 一体何を企んでいやがる。お前の言うことなんて信用できるか!」


 ここまで言っても、電話の向こうにいるキザ野郎は諦めない。


「神が人をたぶらかすこともあれば、悪魔が真実を話すこともある。信じる信じないは君の自由さ。だが僕はできればフェアに戦い、正面から君を這いつくばらせてみたい。その為にできるせめてもの行為なんだ」

「……言ってることが解らねえ」

「行けば解るさ。Aタワーの幻の階層にね。Cursed Heroesの真実を知りたければ向かうことだ」


 Aタワーの幻の階層? 誰にも入れない階層が存在するってことか。


「話は変わるが、君は良い武器を持っているね。同じようにルカさんもだ。恐らく彼女はこのイベント中にはもう使用できないだろうけどね。彗星弓と覚醒剣は元々一つだったと言われる。兄妹のような武器なのさ。圭太君、僕らに勝ちたいと思うなら、今の言葉を覚えておきたまえ」

「覚えておくつもりなんてねえよ! 大体てめえ……?」


 電話の向こうで雑音が聞こえ始めた。奴は何処で電話をかけているんだ?


「おっと! そろそろ失礼するよ。明日か明後日辺りに行ってみるといいよ。圭太君、最後の決戦で会おう」


 奴は通話を切りやがった。どうしてまだ俺に接触してくるんだよ。次に会ったらただじゃおかねえとか考えていると、スマホが小さく二回バイブレーションした。


 二回ともランスロットからで、それぞれ別のURLが貼り付けられている。URLの先に入ると、片方はよく解らねえサイトのバーコードリーダーだった。そしてもう一つは、Aタワーで今一番人気のあるレストランの無料チケットが二枚分だ。おいおい、無料ってマジかよ。


 あ、あの野郎。まるでデートに行くついでに見てこいって言わんばかりじゃねえかよ。しかもこのチケット、どっちも期限は明後日までになってやがる。……罠か? いや、それはない。アイツは影山やヒドルストンとは違い、騙し討ちみたいな真似を嫌がる奴だ。


 多分いつものイタズラというか、遊び心みたいなもんだと思う。死ぬ前に楽しませてやろうっていうお節介なのかもしれない。前々から余計なことばかりするのが好きな奴だったからな。


 けっ! そこまで言うなら行ってきてやろうじゃねえか。でも、誰を誘えばいいんだ?


 真っ先に脳裏に浮かんだのはあのワガママ女だが、今は気まず過ぎてチャットを送ること自体ためらっちまう。次に浮かんだのはめいぷるさんだ。俺はとりあえずこんなチャットを送信してみた。


『お疲れ様っす。昨日は本当に大変でしたよね。もし良かったらなんですけど、明日か明後日に二人でお疲れ会なんてどうですか? Aタワーにすっげえ大人気のレストランあるじゃないですか。実はあそこの無料チケットが手に入ったんですよ』


 どうだろうか。俺は家に戻って親父のために飯を作っている時も、めいぷるさんからの返信を心待ちにして落ち着かなかった。夜飯が終わって風呂に入った後、やっとベッドに置いていたスマホからチャット通知が来る。俺は一気にベッドに飛びついた。


『ごめんなさいー。どっちも用事があるの。違う人を誘ってね』


 ガックリとベッドでうつぶせになる俺。まあ、めいぷるさんも忙しいだろうし、いきなりじゃそりゃ無理だよな。悲しい気持ちで返信をタップする俺。


『そうですか。わかりました(泣)』


 じゃあ次は誰を誘えばいいんだ? 不意に鎌田のアホ面が脳裏に浮かぶ。

 いやいやいや! 何が悲しくて野郎とレストランに行かなきゃならんのだ。


 そんな時だった。沙羅子からチャットが届いてきたのは。


『圭太! 明後日なんだけどさ、放課後一緒にAタワーに行ってみない?』


 俺は焦ってベッドから飛び上がった。そうだった! チャットが来るまですっかり忘れていけど、そういえば明後日は沙羅子と遊びに行くんだった。しかもAタワーに行くってめちゃめちゃピッタリじゃん! とか思ったんだけど、今にして思えば沙羅子と行くのはやめたほうが良かったのかもしれない。


 次の日学校に行って教室に入った俺は、前に座っている沙羅子の様子がどうも変なことに気がついた。妙にソワソワしているというか。今までみたいに頻繁に話しかけてこない。腹でも痛えのかなと思ったけど違った。


 アイツの様子がおかしい理由が解ったのは、一緒にAタワーで遊んだ時だった。

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