第30話 崩壊していく日常
六月七日金曜日。
水曜日にあったことは夢だと思いたかった俺が目を覚ました時、そこには妹もおふくろもやっぱりいなかった。
親父は仕事が早いとかで、普段より一時間近くも早く家を出たことをチャットで知る。静かすぎる家の中にいるのが辛くなったので、俺はそそくさと玄関から出て行った。リビングには妹とおふくろが焼け写ったみたいな跡が今も残っている。
駅を降りて学校に行くまでの道のりで考える。何処かでインストールを終えてアーチャーになり、影山を殺してしまおうか。でもあいつのことだ、俺が今怒りに駆られて行動を起こそうとすることが予想できないとは思えない。何か準備をしてくるんじゃないだろうか。
それとも、あいつは学校に来ないとか?
あれだけ派手に暴れたっていうのに、影山もハンマー野郎達も捕まっていない。ちくしょう。こんな理不尽があっていいのかよ。マグマみたいにふつふつと湧き上がる怒りに焼かれそうになっている俺は、いつの間にか教室の中に入っていた。
何よりもすぐに教室を見渡す。いやがった。あいつは普段と変わらず、平然と鎌田の席がある黒板付近で立ち話していやがる。
「ああ、圭太君じゃないか。おはよう」
「……圭太。お前大丈夫だったか?」
何事もなかったかのように挨拶までしてくる影山。気まずそうな顔で振り返って声をかける鎌田。強く握り過ぎた拳の痛みを忘れるくらいに怒りが込み上げてきた俺は、影山から目を逸らすこともできない。
「…………」
言葉が出ない。クラスの連中が口々に俺の周りに来ては、「大丈夫だった?」とか「お母さんと妹さん、行方不明らしいね」とか話しかけてくるが、どうしても返答する気になれず俺はクラスの中心に立ち尽くしていた。
影山が気味の悪いくらい爽やかな微笑みを浮かべながら目前まで歩いて来る。まさかあんなことを普通に囁いて来るとは予想もしてなかった。
「大変なことがあったみたいだね。犯人はまだ捕まってないんだって? 僕は君を苦しめた犯人が許せないよ」
「……てめえ」
正面にいる影山は更に顔を寄せて、俺にしか解らない小声で言った。
「楽しかったよ。二人とも凄い悲鳴をあげてのたうち回っていたからね」
「! ……影山ぁっ!」
俺は反射的に奴の顔に右フックをぶち当てると、やや小柄な体は想像以上にぶっ飛んで机を倒して床に転がった。頭の中が真っ白になった俺は、馬乗りになって影山を殴り続ける。奴は殴られながら笑っていた。
「ふざけんな! てめえ、てめえだけは許さねえ!」
「何やってんだよ圭太!? やめろよ!」
後ろから鎌田を含めた男子達に羽交い締めにされて引きずられても、奴を殴ろうと必死に抵抗している俺が、ひたすら影山に罵声を飛ばし続けているところで担任の加藤が入って来た。
「圭太! お前一体何をしているんだ!? こっちに来い!」
「うるせえ! 俺はコイツが……離せよお前ら!」
完全に頭に血が昇っていた。溢れ出る殺意を抑えることなんてできそうにない。俺は教師達数人に進路指導室へ連れて行かれもなお、影山の名前を叫んでいたんだ。
「いい加減にしろ圭太。何故暴力を振るったのか、ちゃんと説明をしなさい」
「…………」
加藤の声が無音の世界に響く。
進路指導室には担任の加藤や体育教師、古文の教師や教頭までいた。テーブルの一番向かいには頬に痣が出来た影山もいる。まるで俺が一方的に悪いみたいな扱いだ。喋ったところで信じてもらえない。影山はそれを一番よく解ってる。
「何か言わなければ解らないだろう。影山君をどうしてあんなに殴ったりしたのかね?」と教頭。
「…………」
答えたくないね。自分の身内を殺されたからですって言ったら、殴っても文句は言わないのか?
「あの、ちょっといいでしょうか」
影山が弱々しい声で立ち上がった。なんて演技の上手い野郎なんだろう。こうして見ると気の弱そうな優等生にしか見えない。反対に俺は、奴をいじめたクソ野郎みたいな扱いだ。
「皆さんもご存知でしょう。圭太君は水曜日に家を誰かに襲われて、お母さんと妹さんが行方不明なんです。心配で心配で堪らない状況で、僕が軽はずみな言葉をかけてしまったことが原因だと思っています。悪いのは全て僕です。彼を責めないであげてください」
「……おい」
我慢したくても口が勝手に声を出しちまう。どこまでいい子を演じるつもりなんだよコイツは。影山は静かに長テーブルを迂回して、俺のすぐ側までやって来て、何の労働もしたことがないような白い右手を目前に差し出して来た。
「君の行為を許してあげるよ。仲直りしようじゃないか、圭太君」
奴は俺に握手を求めてきた。
「許してあげるだと? それは被害者の言葉だろ影山ぁ!」
俺は勢いよく奴の右手を弾き飛ばすと、百メートル走開始直後のような勢いで立ち上がりもう一度殴り飛ばした。手を出したら負けだ、そんなことは解っていたのに。
「圭太! やめろコラ! お前と言う奴はぁっ!」
体育教師にテーブルに抑え込まれ、他の教師達も必死で俺を動けなくする。それでも俺は影山を睨むことをやめなかった。度重なる暴力行為による二週間の停学処分が下されるまで、そう時間はかからなかった。
学校から帰った俺は何をする気にもなれずベッドに倒れこむ。やっぱり誰もいない。あんなに騒がしいことが嫌いだったのに、妹やおふくろがいない時間が楽しみだったのに。もう聞こえない。教室での言葉から察するに、影山の野郎は何らかの方法で二人を消滅させたんだ。
許せない。俺の頭の中はその一言で埋め尽くされていた。
まだ外は暗くなっていないけど、俺はカーテンを閉めたままにしていた。食欲もないし眠くもない。ただただ、殺意だけが胸の奥で喚いている。俺はどうすればいいんだ?
「……う!」
急にものすごい吐き気に襲われて、トイレに駆け込んだ俺は勢いよく吐いた。これはストレスのせいなのか、苛立ちがピークを超えたせいなのかは解らない。息を切らしながら洗面台の鏡を見つめる。
「……俺のせいだ」
不意に一言だけ呟く。ターゲットイベントなんてものを臨時開催しやがった運営も、二人を殺した影山も許すことなんてできない。だけど、あのイベントを開催する引き金になったのは俺のチャットだった。そう、今目の前に映っている男が発端だったんだ。
「ちくしょう……」
ドアの鍵が開く音がした。よく知っている足音だが、二人のものじゃなくて、俺と一緒に途方に暮れている親父だった。目前に写っている男が憎かった。自分自身でさえ俺は許せない。
「ちくしょう……ちくしょおお!」
影山を殴った右拳が何の加減もなくガラスを打ち付け、カン高い音と小さな血飛沫が舞った。痛みすら鈍くなっている。構わずになんども殴りつける俺を、また誰かが羽交い締めにした。
「圭太! やめろ! やめろ!」
親父が必死で俺を止めようとしている。混乱し続ける頭はきっと臨界点を超えて、空気を殴り続ける俺は発狂した。親父に引きずられて洗面台から離れた俺は、ただ呆然と立ち尽くす。親父は二日も徹夜しているような顔で、俺の血だらけの拳を応急処置してくれた。
土曜日はまるで廃人みたいにベッドに潜り込んでいた。俺は現実から逃げたくて堪らなくて、何もしたいという気持ちになれなかったんだ。もうすぐ午後になるんだろうか。時間すらも気にならない。
法律では影山を裁けそうにない。じゃあアーチャーになって殺そうと考えても、用意周到なアイツのことだ。何か手を打っているはずだ。クラスやCursed Skill、使っている武器だって解らない。何より俺は、この後に及んでも人殺しになることに躊躇している。自分が可愛いのかよ。
それと万が一、影山を殺すことに成功したところで、おふくろと妹は帰ってはこないじゃないか。迷路で何度も同じ地点に戻ってきちまうみたいに俺の脳内は堂々巡りを続けていた。
どうすればいいんだよ、俺。
不意に脳裏に浮かんだのは、おふくろや妹が俺に笑いかけてくる姿だった。誰もいない部屋の中で俺は静かに泣いた。もうずっと飯を食ってない。吐いちまうから食えなかったんだ。
虚無感みたいなもんに耐えられなくて、無音の世界に耐えられなくて、今すぐ何処かに逃げ出したかった。全てを忘れられたらどんなにいいだろうとか考えていると、スマホが一瞬だけ振動する。
ずっと鎌田からのチャットには返信してなかったが、どうやら違う奴らしい。
『ねえ、今日暇?』
ルカからだった。いつも変わらずチャットをしてくるコイツは何なのか。もう誰も相手にしたくなかったのに、俺はつい返信した。寂しかったからだろうか。
『暇だ。なんか用かよ』
返信は二分もしないうちに返ってきた。
『今日会えないかな? あたしも暇なんだよね。友達が用事できちゃってさ』
コイツにもちゃんと友達がいるんだな。
『いい。俺は誰とも会いたくない』
『マスター心配してたよ。金曜バイト休んだでしょ? めいぷるちゃんも、多分ランスロットだって、アンタのことが気がかりだと思う』
マスターには悪いことをしちまった。めいぷるさんが心配しているのは本当だろう。ランスロットはどうか知らないが。
『もうCursed modeに参加してとは言わないから。最後に一回だけ会ってほしいの。お願い』
いつになく真剣だったルカからのチャットを見て、俺は返信を躊躇った。どうしてこんなに誘ってくるのか解らないけど、このまま家にいてもしんどいだけかもしれない。気怠い体を何とか起こして、俺は家からノソノソと出て行った。
あの女はどんなワガママなことを言い出すんだろうと、溜息混じりにマスターの喫茶店で待っていると、時間より少し遅れてルカはやって来た。よく見たら時計はまだ11時じゃねえか。
「遅くなっちゃったわ! 待った? ねえ待った?」
「別に待ってねえ」
窓際で外の景色を見つめたまま、俺は向かいに座っている奴に挨拶を返す。ルカは本当にいつもどおりだな。
「ふーん、そうなんだ。ねえ圭太! 見て見て、新しいぬいぐるみ買ったの。これすっごく可愛くない」
「ああ、そうだな。可愛いな」
まるでぬいぐるみを見ていない俺に苛立つそぶりも見せない。マスターが俺とルカに紅茶を持って来る。
「あ、すんませんマスター」
「いいんだよ圭太君〜。ゆっくりしていってね」
音もなく去っていくマスターの後ろ姿は、いつだってダンディそのものだ。俺は紅茶を飲みながら、やっとルカと向き合うことにした。真っ直ぐに見つめる瞳と目が合う。
「で、何の用だ?」
「ん。ちょっとアンタにこれから付き合ってもらいたい所があるのよ。勿論chは関係ないわ。ただの私用よ」
「付き合ってもらいたい所って何処だよ」
「内緒よ。行ってからのお楽しみ」
「怠いからパス」
そう言うと一瞬でルカはワープしたかのように俺の目前まで顔を寄せて、
「ダメよ! お願い聞いてくれるって言ったでしょ。契約違反だわ」
「お前と契約なんかしてない」
「じゃあ取引違反よ」
「お前と取引なんてするわけない」
「じゃあ詐欺罪よ! アンタ詐欺師っぽい顔してるし」
「詐欺師っぽい顔ってどんな、っておい!」
喋っている最中に突然腕を引っ張られて、ずんずん進みルカは会計もせずに店を飛び出した。
「ちょっと待て! お前マスターにお金を、」
「大丈夫よー! ツケよツケ」
マスターはドア前で優しい微笑みを浮かべて手を振っている。なんて奴だ本当に。でもそれよりも、ルカが行きたい場所って何処なんだ。引っ張られ続けた俺は快速電車に乗って、めいぷるさんのお父さんが入院している総合病院よりもずっと遠くの山奥まで来ちまった。片道一時間半、もう都内じゃないようだ。
「やっぱり景色が素晴らしいのよねー。もう一回ここに来ようと思ってたの」
「一体何処だよここ? 何もないじゃねえか」
山奥のこじんまりした駅に降り立った俺達は、小さな改札を抜けて山ばかり見える住宅街を歩き出した。マジで何がしたいのか解らない女だと思う。田舎道をしばらく歩き続けるうちに、都会じゃあ絶対に見ることのないロープウェイが視界に映った。
「さあ、あれで山の頂上まで行くわよ」
「何で?」
「いちいち理由を聞かない! この世界にはね、人間には理解できないことが星よりも溢れているのよ! 大事なのは理由じゃないの」
「お前の思考回路は宇宙一の謎だろうな。誰も解明できねえ」
「どういう意味よそれ! ほら、早く行くわよ」
ふくよかなお腹をした叔父さんに運賃を払った俺達は、何だかガタガタ揺れるちょっとおっかないロープウェイに乗り込んで山に登って行く。晴れ渡った空から見える山々や川は綺麗で、俺はここに来たのも悪くないかもしれないと思い始めた。隣にいる女と一緒じゃなければもっと良かったけど。
「見て! あっちがあたし達がやって来た方向よ。ミジンコみたいでしょ」
「ミジンコには流石に見えねえよ。もっとデカイだろ」
「ねえ圭太。LvはMAXまで上げたの? アビリティ解放した?」
いきなりゲームの話に戻しやがった。今は忘れていたいのに。
「まだやってねえよ。ていうか、多分もうアンインストールする」
「……ふーん。そうなんだ」
ロープウェイから見える景色を眺めながら、俺はもう何もかも辞めてしまおうと考えていた。やっとの事でロープウェイは最終地点に到着したらしい。この辺りじゃあ一番高い山のてっぺんに降りた俺たちは、デッカい広場みたいな所へ向かった。
「あったあった! この望遠鏡が見たかったのよねー」
「何だよ。目的ってそれかよ」
「そうよ。アンタと二人でここに来たかっただけ」
何だよそれ。全然意味が解らん。ずっと望遠鏡を覗いて楽しそうにしているルカをよそに、スマホと景色を交互に眺めることを繰り返すしかなくて、退屈でしょうがないなって思っていたら奴は俺が座っているベンチの隣に腰掛けて来た。
「ねね! そろそろお腹空いてきたんじゃないの?」
「ああ、全然食ってないからな」
「ここで食べようよ。はいこれっ」
「え? 何だよこれ……俺に!?」
ルカがこの快晴に負けないくらいの笑顔でバッグから取り出したのは、銀色の小さな弁当箱。箸と一緒に俺の目前に差し出してくる。
「そうよ。このあたしが手作りで持って来てあげたのよ。地球が崩壊するくらい感謝しなさいよね!」
「そこまでの感謝はできねえよ。でも悪いけどいいよ。……最近食ったもん戻しちまうんだ」
「え? アンタが食べているものに猛毒でも入ってんじゃないの!? あたしのは大丈夫よ。だってこの弁当は光属性よ」
「弁当に属性なんかあるかっ!」
「あるわよ。あたしくらいのソードナイトになれば、触れるもの全てが輝くわ! ちょっとだけ食べてみてよ」
「触れるもん全部光ったら不便だろ。ま、まあ……ちょっとくらいなら食ってみるか」
弁当箱を開けると、中にはタコウインナーとか豚肉とかサラダとか、まあ大体定番の奴が所狭しと入っていた。一口食べてみると……本当に申し訳ないんだが、おふくろが作ってくれた奴より美味かった。マジかよ。
「どう? 美味しい?」
「う……うん。まあ」
「何よその歯切れの悪いコメントは! こういう時は感涙で咽び泣いてから、お嬢さん……これ少ないけど。と言って札束を渡すのよ」
「お前弁当一つでどれだけ見返り求めてんだよ!」
意外に家庭的だったりするのかな。その後もルカと二人で山道とか田舎町をぶらぶら歩きまわった後、夕方頃に都会に戻ることになった。電車から見える風景が徐々に知っている高層ビルに変わっていく。
「……んー……さっさと全員……スルメに変身させなさいよ。圭太……」
俺の肩に寄りかかりながら寝ているルカがなんか言ってやがる。一体どんな夢を見てるんだよ。やっとのことで自宅の最寄駅に辿り着いたので、
「ルカ! ちょっと離れろ。降りるんだよ俺」
「……ふぁ? あ、ああ。そうなの。じゃあまたね」
「ああ、またな」
「あたしが生きていたら、また会いましょ」
「何言ってんだよ」
「いつ死ぬか分かんないじゃん」
「縁起悪いこと言うんじゃねえ。じゃあな」
俺は電車を降りて、またうんざりする人混みの中へ紛れ込んで行く。自宅に戻った俺は、親父がずっとプロ野球を観戦している姿が妙に寂しげに見えた気がして少し憂鬱になった。
でもルカと会って一緒にいるうちに、少しではあるが張り詰めた気持ちが緩んでいた気がする。ほんの少しだけ余裕が出てきたかもしれない俺は、ずっと返信してなかった謝罪と、心配してくれた感謝を込めたチャットを鎌田に送信した。
もしかしたらルカは、俺を元気づけようとしたんだろうか。いや、それは考え過ぎかもしれないと思う。
そんな時に、今度はランスロットからチャットが来た。
『圭太君。こんな時に連絡してすまないね。君に一言だけ伝えたいことがあったんだ』
『何だよ。もう俺はchと関係ねえぞ』
返信は一分もかからずに来る。
『やっと返信してくれたか。実はね、僕からの最後のお願いだ。USBの中にメモがあっただろう。それだけは見てくれないかな?』
『ああ、あれね。暇があったら見るわ。じゃあな』
訳の分からねえお願いだったけど、どっちみち俺は暇なんだ。そう思って自室のデスクトップPCを起動させて、USBに入っていたメモ帳を開く。
「怠いなこれ。なんかのデータか……ん?」
初めは何とも思ってなかった俺が、いつの間にか催眠術をかけられたみたいにPC画面に釘付けになってしまう。あいつ、何処でこんなものを見つけたんだ?
そんな時またもスマホがバイブレーションする。液晶にはこんな通知が届いていた。
『一周年記念スペシャルイベントが開幕しました!』
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