第8話 めいぷるさんと沙羅子
五月十七日金曜日、あれからモンスターの出現を知らせるおっかない通知は来ていない。
まあ、もう通知が来ても向かうつもりはないんだけどな。放置しているわけにもいかないが、警察に行くのも難しいしどうしようかと無駄に悩んでいた。Cursed modeのことは一旦保留にしよう。今は他にするべきことがあるんだ。
学校が終わった俺は、忘れちまったバイト先のエプロンを取りに家に帰った。お袋が煎餅をバリバリ食べながらソファに横になってテレビドラマを鑑賞している。
「あら、おかえり圭太。今日は早かったのね」
「いや、これからバイトだよ。それ何のドラマ?」
「アンタ観たことなかったっけ? 何度も再放送してるじゃない。一時期は社会現象になっちゃったドラマよ。あたしがまだ花も恥じらう高校生の頃だったけどね〜」
滅茶苦茶大昔の話だな。観たことがあっても覚えてねえよこんなの。
ドラマの内容はこんな感じだ。高校生カップルが公園のベンチで肩を寄せ合って会話をしていると、女の子が突然立ち上がって一言。
「実はね。私、私……できちゃったみたい!」
うわ、できちゃったって……子供のことだよな。
「で、できちゃった?」
「……うん」
彼氏は次第に真っ青な顔になり、適当な理由をつけてその場を去ろうとしたところで女の子の友人が登場。強烈なビンタを喰らわして説教をした途端に彼氏は心変わりをし、若い二人は幸せな家庭を築こうと決意するのであった……そしてスタッフロールと古臭い歌が流れる。
ビンタと説教くらいでコロッと変わるわけないだろ。アホか。
おふくろは感動のあまり涙を浮かべているが、俺には全く面白さは伝わってこなかった。ただ単に若い男女のドロドロした部分を観せてるだけって感じがするんだよな。ああヤダヤダ。そんなやり取りは一生経験したくないね。
普段から時間って奴は雲みたいにノロノロしてやがるが、特にこの一週間は長く感じたね。やっとのことでめいぷるさんと会える日がきた。俺はエプロンを鞄に乱暴に詰めると、早足で家を出て駅前に向かう。
待ち合わせの場所は南口駅の改札前で、丁度この前ルカに指定された場所と同じだったが、あの時とは全く気分が違った。俺としては想定外の展開だったけど、ネットで知り合った女の子と実際に会うっていう行為に正直に言うとワクワクしていた。
バイトの開始時刻まではまだまだ余裕がある。でも、話が弾んでしまって長居することになったらどうしようといらない心配をしていた。
「めいぷるさんって呼んでいいのかな? でもいきなり本名を聞いたら警戒されそうだし……」
などとつい独り言を言っている俺は、スマホのミラーアプリを起動させて髪型とか服装とかをしきりにチェックする。別にデートなどしようというわけではない。断じて違う。今回の目的は他でもない、ただ死ぬかもしれない危険なゲームに向かおうとしている女の子を止める……それだけだ。
でも無茶苦茶タイプだったらどうしよう。
真面目な心と浮ついた心が、まるでメトロノームみたいに揺れていると駅の改札から誰かがやって来た。こっちを見て真っ直ぐに近づいてくるぞ……まさか。吸血鬼に襲われた時とは全く違う胸の鼓動がする。
「あ、あの……。ケータさん……ですか?」
「ふぁ……は、はい! ケータです。めいぷるさんですか?」
「はい。すみません、強引にお誘いしてしまって」と言って頭を下げるめいぷるさん。
「いえいえ、全然構いませんよ。俺いつも暇ですから! ははは」
ぺこりと下げていた頭を上げためいぷるさんは、綺麗なボブをなびかせて微笑んだ。大きな目とほんのり赤くなっている白い頬から、自然と温厚そうなオーラが出ている。
彼女が着ている青いブレザーは、一体何処の制服だろう。めいぷるさんが着ると清楚さが際立ってとても魅力的に感じる。きっとSNSに写メを投稿したらいいねが嵐のように増えるに違いない。
俺の想像していためいぷるさんより本人のほうがかなり美人だった。予想の斜め上どころじゃない、ほぼ垂直に近いくらい上だったから、もう俺も舞い上がる舞い上がる。
「まあ、こんなところで立ち話もなんですから……どっかで軽くジュースでも飲みながらにしませんか?」
「あ……はい。でも私、この辺りのお店に明るくなくて」
「大丈夫ですよ。俺が知ってますから。任せて下さいよ!」
さっきまで俺の脳内メトロノームは均等に揺れていたが、今は完全に浮ついたほうへ振り切ってしまい、全く動かなくなってしまった。我ながら情けなくなってくる。
とにかく俺はめいぷるさんを駅前のカフェに連れて行った。以前ルカと行ったお店だ。はっきり言って、この辺で高校生が行けるお洒落な店などここくらいしかない。ないのだが……。
結論から言うと入れなかった。今日に限ってなぜかカフェのテーブルは満席となっていて、並んでいる人も沢山いたので俺たちはカフェから出ることにした。
「とっても人気のあるお店なんですね。まだ夕方なのに入れないなんて」
「そ、そっすねー。普段はこんなことないんだけどな〜。弱ったな〜」
一緒に街中を当てもなく歩き回ることになってしまった。ついてないなと思いつつ必死で代わりのお店を探している俺に、隣を歩くめいぷるさんは静かに微笑んだ。
「何処でも構いませんよ。私はケータさんのお話が聞ければそれでいいんです。あの、良かったらそこの公園に行きませんか?」
「え? ああ……すいません。じゃあそこで」
めいぷるさんに言われるまま、川辺近くにある公園を歩いている。ほとんどビルとマンションだらけの街で、唯一自然と触れ合える貴重な場所だったから、カップルや親子連れが沢山いて賑わっていた。
めいぷるさんは一緒に歩くことに緊張しているのか、ちょっと手や肩が触れるとビクリと引っ込み、また近づいてを繰り返している。頬は桜みたいに染まっていて、俺はつい見とれてしまいそうになり慌てて目を逸らす。
川沿いを歩いていると何かに気がついたように彼女が、
「あ、あのう……あそこのベンチでお休みしませんか?」
「……いいですね、そうしましょう! でも惜しいな。もうちょっと前だったら、この辺りは桜が満開になっているんですよ。せっかくだからめいぷるさんに見せてあげたかった」
「わああ……。ソメイヨシノですか? 私お花見するの好きなんです」
うーん、ソメイヨシノかな? 全然桜の名前なんて知らん俺は適当に頷いた。ベンチはあまり幅がないので、密着とまではいかないが腕が触れるギリギリのラインで座っている。
ちなみに俺は今猛烈に緊張している。何をしにここに来たんだっけ? 当初の目的すらも忘れかけて川面を見つめていた時、めいぷるさんが小鳥のさえずりを思わせる声量で話だした。
「いきなりゲームの話に戻してしまって悪いのですけど、ケータさんは、Cursed Herosのクラスは何ですか? 私はサイトに書いていたとおり、プリーストをしています」
「ああ、俺は……アーチャーですよ。プリーストって重要な役割ですよね。難易度が上がるにつれて回復役がいないととてもクリアできない感じになりますし」
「いえいえ。私結局一人じゃなんにもできないんです。強い人と一緒に組んでいかないと。アーチャーこそ凄いと思いますよ。誰よりも遠くから攻撃できるって、凄く利便性が高いですし」
めいぷるさんはこう言ってくれるものの、俺なんてまだまだLvも低いし武器も弱いしで、誰もフレンドになってくれないからな。何しろ今のフレンド数は、ルカとめいぷるさんを抜いたら0だし。
「そんなことないですよ。俺だって守ってもらわなきゃ戦えません。最近フレンドになってくれた奴が本当に頼りになる奴で、そいつに助けてもらってイベントをクリアしたり。まだまだですね」
「頼りになる方がいるって心強いですね。その人はランスナイトとか?」
さっきまでは新しい学校にやってきた転校生みたいに緊張していた面持ちのめいぷるさんが、徐々にリラックスした喋り方に変わっている。同じ趣味の話は異性と打ち解けるのに有効だということを、俺は初めて実感した。
「ランスナイトじゃないですよ。ソードナイトです。しかもそいつ、ネット上では結構有名だったんですよ。ルカって言うんですけど」
「……え!?」
めいぷるさんの顔色が変わった。まるで買った宝くじの結果をネット上で確認したら、番号が全部同じだった時のような興奮に満ちた顔に。余計な一言だった、マジで。
「ケータさんは、あのルカさんとフレンドなんですか? じゃあ……Cursed modeでも一緒に戦っているの?」
「やりたくはなかったんですけどね。強引に巻き込まれるような形で、一回だけ。最悪でしたよ。もう二度と俺は、」
「ケータさん!」
「は、はい!?」
めいぷるさんが上半身を乗り出し、食い入るように俺を見上げている。瞳には決意という文字が書いてあるかのようだった。
「私も是非参加させて下さい! ケータさんやルカさんと一緒に」
「え? い、いやあ……それは」
「私どうしてもCursed modeに出て、ランキングに入りたいんです。でもプリーストじゃ一人で戦っても上手くいかないと思うし……お願いできませんか」
そこまで言ってから、めいぷるさんは自分が思い切り俺に接近していることに気づいて、慌てて引っ込み元の背筋を伸ばした姿勢に戻る。
この人は俺達と組めば安全にポイントとやらをGETできると考えているんだろう。でも現実はそうはいかないと思うぜ。ここは説得しなければいけないと思った俺は、一度川面を見て深呼吸をした後、静かにめいぷるさんのほうへ顔を向けた。
「めいぷるさん、Cursed modeがどんなに怖いものか知ってます?」
「……え? そ、それは……」
「俺がこの前経験したのは、信じ難い体験でした。ルカと二人で、もう使われていない夜の廃工場に足を踏み入れたんですよ。で、アプリのレーダーを頼りに真っ暗な工場の中を歩いていると、そこには……」
「そ……そこには?」
めいぷるさんは体を強張らせつつ俺の話を聞いている。予想していたとおり、この人はけっこうな怖がりさんのようだ。
「青白い顔をした吸血鬼の男がいたんですよ。まるで洋物のホラー映画の世界に入ったような気分でした。そいつは俺を見るとパッと姿を消したんです。懐中電灯の光で必死に探しても見つからなくて、気がついたら奴は……俺の背後に」
「ひぃっ!」
俺は制服のボタンを外し、彼女に首筋を見せる。めいぷるさんの白い肌はどんどん青くなっている気がした。もう一息だな。
「まだ治りきってないんですが、これは奴に噛みつかれたものなんです。汚くて臭い口が首元でチューチュー音を立てて吸いついてきて、あと少しで出血多量で死ぬところでした。ギリギリのところで倒したものの、青白い顔と真っ赤な目が……今でも俺の脳裏に焼きついて離れようとしません」
めいぷるさんはガタガタ震え出した。よし、ここまで言えばCursed modeに参加しようなんて気持ちは、もう一欠片も残っちゃいないだろう。この人が化け物に殺されるなんて嫌だからな。
そう思って安堵していた俺だったが、めいぷるさんは震えながらも、未だ闘志を燃やしているかのような瞳でこっちを見上げる。え……まだ諦めてないの?
「怖いです。私昔から幽霊とか、怪談とか本当にダメで。ましてやドラキュラなんて……。で、でも。でも……私どうしても参加しなくてはいけないんです」
「どうしてそこまでCursed modeにこだわるんですか? 理由を教えてくれませんか」
「それは……今は言えません。でも……もしランキングに入って報酬がもらえるなら、危ないことだってするつもりです」
分からない。この人には危険を冒してまで手に入れた報酬があるっていうのか。でも、結局ゲーム内のアイテムなんて、大した物じゃないだろうよ。ここは心を鬼にしてでも止めよう。
俺は決意の固い瞳を真っ直ぐに見つめ返す。戸惑いがちに顔を背けためいぷるさんの横顔は、小動物を思わせるような愛らしさがあった。
「本当に死ぬってことは分かっていますか? 誰もいざって時には助けちゃくれないんですよ。ゾンビに噛まれそうになったり、ドラキュラに襲われたり。これからはもっと恐ろしいことが待ってる気がします。地球外生命体とか、フランケンシュタインが作った怪物とか、学校のトイレから這い出るお化けとか! みんなめいぷるさんを襲いますよ、想像してみてください。逃げても逃げても追いかけて捕まり、酷い目に遭う姿を」
「きゃあ! こ、怖い……」
ちょっと脅かしすぎたかもしれない。めいぷるさんの瞳から、キラキラと宝石のような涙が溢れ始める。顔を覆って俯いていた彼女はしばらく黙っていたが、何を思ったか突然立ち上がって体ごと俺に向けた。
「ケータさん。怖くてたまりません。でも私は……インストールできるみたいなんです。運営からメールが届きましたから。挑戦するチャンスがあると思うんですっ」
インストールって奴は、ゲームを続けていれば誰でもできるもんじゃないのか。よく知らないが、俺は説得を続けるべきだと思った。
「めいぷるさん、危険なんです。あなたには向いてない、こんな馬鹿げたことは」
「でも、私……私……できちゃったみたい! だから、諦めたくないの」
めいぷるさんが不意に上げた大声が公園に響き渡り、カップル達や親子ずれの人達がみんなこっちを見た。恥ずかしくなってきた俺は、とにかくハッキリ言って話を終わらせようと、
「諦めて下さいよ。俺だってあなたの気持ちを優先したい。でもね、無理はものは無理です!」
「どうしてですか? どうしてそう決めつけるんです!? できちゃったのにどうして」
「あなたの力じゃきっと無理だ。いや、俺だって無理なんですよ。だってただの高校一年生ですから。まだ社会に出てもないし、何の力もないんだ。あなたを助けていくなんて、とてもとても」
めいぷるさんのすがるような眼差しに罪悪感を揺さぶられ、居心地の悪さを感じ始めた俺は席を立った。丁度バイトの時間も近くなってきたから、切り上げる頃合いだろ。それにしても、公園にいる奴らみんな俺達を見ていやがるな。
「何より責任とか持てませんし……じゃあ俺、バイトがありますから。これで」
そう言って俺は彼女に背中を向けて歩き出そうとした瞬間、
「ケータさん嫌! 私を、私を見捨てないで!」
「うわ! ちょ、ちょっと!」
背中に柔らかい何かが触れた。多分だけど、それはめいぷるさんの胸を含めた上半身と両手だったんだろう。必死にしがみつかれてしまっていることに焦る俺。
「か、勘弁して下さい! 本当に俺無理なんで。そんなに決意があるなら一人で何とかして下さいよ。時間ならいくらでもありますし、頑張ってやっていけばいいでしょう育成とか。あなた一人で」
「そ、そんな! 私一人じゃ……ケータさん!」
「めいぷるさん、俺には無理です! だってまだ未成年ですし、正直いうともう関わりたくないんですよ!」
「きゃあっ!?」
少しだけ力を入れて振りほどこうとすると、想像していた以上にあっさりと腕が抜け、体勢を崩しためいぷるさんは前のめりに倒れてしまった。
「うう……ケータさん……」
「す、すみません。大丈夫ですか!? だい……?」
俺は周囲の視線がさらに強くなっていることに気がついて見回した。これはどうもおかしい。めいぷるさんを見る目には哀れみや同情のようなものを感じるが、俺を見ている連中はまるで親の仇を見つけたかのような怒りに満ちている気がする。
なんかよく分かんねえけど、めいぷるさんを起こそうと手を差し伸べようとした時、
「圭太……アンタ最低だよ」
後ろから冷淡な声が背中を突き刺した。振り返った先にいたのは、小学校時代から知っている男女沙羅子の顔だった。ここで会うなんて偶然にも程があるだろ。
「沙羅子……お前、何でここにいんだよ?」
「たまたま通りがかっただけよ。駅前でアンタがその人と一緒にいたから、声をかけるタイミング逃したっていうか。って、そんなことはどうでもいいでしょ! 話は全て聞かせてもらったよ、この外道!」
「げ、外道って何だよ! 俺がいつ道を踏み外すような真似をしたってんだ」
沙羅子は大股で俺の側に歩み寄ってくる。めいぷるさんのシクシク泣く声はまだ聞こえていた。
「できちゃったって言ってたじゃないの! アンタあたし達に隠れてそんなことしてたんだね。信じられない! 男だったら責任取りなさいよ」
「……は? な、はあ!?」
「もう言い逃れなんてできないよ。ちゃんと避妊もしないで責任も取らないなんて。この腐れ外道!」
この言葉、このやり取り……似たようなものを覚えている気がするぞ。……そうだった、オフクロが見てやがったドラマの再放送にかなり似てる。
ってことは、今いるギャラリーの連中は俺とめいぷるさんの会話を、子供ができちゃって揉めている男女と勘違いしていたのか! なんて恥ずかしい状況だよ。めいぷるさんを見ると、まだ地面に這った状態でシクシク泣いていた。
「ちょ、ちょっと待った! 沙羅子、お前は俺と彼女のことを誤解してる。ゲームの話だったんだよ! めいぷるさん、もう起きて! 俺の誤解を解いてください」
沙羅子の奴は二仁王立ちで突っ立ったままだ。ドラマに出てきて平手打ちをかまして説教した女と同じポーズ。勘弁してくれよ。もしかして。
「はぁ? ゲームの話だって? よくもそんな見え見えの嘘をつけるね! この最低男!」
普通はビンタだよな、女の子は。だけど沙羅子は違った。制服のスカートが一瞬めくれることにも躊躇せず、渾身の右ハイキックを俺の側頭部に見舞いやがった。視界を火花が飛び散る。
「のわぁー!」
大の字になって地面に倒れこむ俺。きっと総合格闘技の試合なら寝技に持っていく前にレフェリーが止めてしまうだろう。流石は沙羅子、キック力も男以上だ。
「ううう……はっ!? ケータさん、大丈夫ですか? ケータさん!」
めいぷるさんはぶっ倒れた俺を見て心配そうにすり寄ってきた。どうやら沙羅子の誤解も解いてくれたらしく、意識がはっきりして上半身を起こした時にはもう敵はいなかった。単純にゲームの話題だと説明したらしい。
よくそんな説明で納得したな沙羅子の奴。俺が言うと全然信じないくせに。バツの悪そうな顔をした沙羅子と、またしても泣きそうなめいぷるさんがこっちを覗き込んでいる。
「大丈夫ですか? ケータさん。すみません、何だか私……こちらの方に誤解させてしまったみたいで」
「いいんですよ。沙羅子の暴力はいつもですから」
「ちょ、ちょっと待ってよ! いつも暴力なんて振るってないじゃん。こんな乙女を捕まえてアンタってやつは! 言い掛かりよ」
お前が乙女だって? 冗談言うんじゃねえよ。立ち上がって埃を払った俺は、バイトの時間がもうすぐそこまで迫ってることに気がつく。
「うわ! やっべえ! めいぷるさん。本当に申し訳ないんですけど、急いでバイトに行かないんで、今日はこれで! じゃあな男女!」
「あ、はい。分かりました。また是非お話させてください。私、いつでもケータさんに会えるようにしますから」
「誰が男女よ! バカ圭太!」
お前以外にいねえだろ。俺は全力疾走で電車に駆け込んだけど、結局バイトは三十分くらい遅刻になっちまった。店に入るとやっぱりガラガラだし、マスターも怒ったりしないからいいけど。
「圭太くん、最近生傷が絶えないみたいだけど大丈夫かい? まるで事故にでもあってるみたいだよ」
「あ、大丈夫っすよー。ここ数日よく転んじゃうんですよね。ははは!」
でもバイトが始まれば平和だ。マスターは相変わらず客など全然来ない店内で優雅にコーヒーを飲んでいる。ここ最近は一人も客が来てないらしい。稼げない状況だっていうのに、どうしてこうも平然としてられんのかね。
「あ……そうだ! 君にいい話がある。今夜はね、あの子が来るんだよ」
欠伸の回数が新記録に到達した程暇だったから、店内のテーブルから何から掃除を始めていた時、マスターがいまいちピンと来ないことを言ってきた。
「あの子? 誰ですか。マスターの隠し子とか?」
「ぶほっ! 隠し子なんていないさ。古いドラマじゃないんだから。ほら、君が連れてきてくれたあの娘だよ」
コーヒーを吹き出したマスターの言葉に俺はギョッとした。嘘だろ、アイツ来るのかよ。
「え? ルカが来るんですか! ちょ、ちょっと待ってくださいよ。アイツは不採用にするって話じゃなかったんですか?」
俺は店内の掃除などそっちのけでマスターに詰め寄る。この客入りがほとんどない状況で、ルカなんて雇ったら人件費や諸々のトラブル費用でいよいよ店が潰れるだろう。マスターは優雅に首を横に振った。
想定外の事態に狼狽えてそわそわしていた俺は、勢い良く入口の扉を開けてきた奴と目が合った。
とにかく嫌な予感しかない。ルカと、もう一人知らない奴が店内に入って来た。
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