2    御先伯爵家の当主筋


 夜。

 神田にある御先みさき一族総本家――通称ゆきの屋敷の奥に建てられた離れから、ぼんやりと光が零れる。



 この離れは、歴代の当主と嫡男しか立ち入りも接近も許されていない、特別な場所だ。中には貴重な資料や過去の当主達が残した記録などが残されており、前当主は現当主へ、現当主は次期当主へ、総本家を継ぐ者としての教えを説く。


 時に怒号が飛ぶ程の厳しさに、家人や使用人は身を竦ませる事もあった。

 けれど、それだけ本気で己の全てを伝えようとしているのだ。次代を想って心を鬼にしているのだ。そう分かっているからこそ、彼らは何も言わず、離れへ籠る三人に人知れず敬意を払った。



 離れの中は、八畳程の畳間となっている。

 壁際は棚や金庫、書物、よく分からぬカラクリやガラクタで埋め尽くされ、真ん中にはちゃぶ台が置かれている。その三方に、幸人ゆきひとと、父の正幸まさゆき、祖父の幸路ゆきじが座れば、空いている部分はささやかにしか残らない。



「――というわけで、どうやら私は不審者と思われているようです」



 ちゃぶ台の上へ乗せられたランプが、幸人の整った涼しげな顔と、凛々しい着物姿を浮かび上がらせる。


 向かいに座る父は、端正な顔を動かさない。冷たささえ覚える切れ長の目を、細めるだけ。


「成程。幸家の呪いは、本日もすこぶる調子が良いようだな」

「まさか、父上も」

「あぁ。食事をしようと、警視庁の食堂へ足を踏み入れた途端、中の会話がぴたりと止まった」


 それは、何とも辛い。

 幸人は同情の眼差しを父へ送る。それから、上座へ座る祖父を振り返った。


 祖父は、貫禄のある男らしい顔で、重々しく口を開く。



「儂は、近くにいた外務省の職員へ声を掛けたら、その場で引っ繰り返られたわ」



 表情は特に変わっていないよう思えるが、よく見ればほんの微かに眉が下がっている。

 だが、本当に微か過ぎて、同じ境遇の幸人や父以外にはまず伝わらない。



「たかが茶を頼んだ位で、何故気絶されなくてはならん。儂の顔はそんなに怖いのか」

「怖かったんじゃありませんか? なんせお爺様、外では無駄に恰好を付けていらっしゃいますし」

「無駄とはなんだ。お前こそ寡黙を気取って、外では思っている事の半分も喋らない癖に」

「寡黙を気取っているわけではありません。私はただ、下手に口を開くとすぐさま呪いが降り注ぐので、用心して口数を減らしているだけです。ほら、口は災いの元と言うじゃありませんか。ねぇ、父上?」

「幸人の言う通りです。あの時あんな事を言わなければ、と今まで何度思った事か」

「正幸の場合は話が違うだろう。お前は口数を減らしているのではなく、単に緊張して話せなくなるだけではないか。そうやって黙っていたせいで事態が妙な方向へ向かう、なんて事、一度や二度の話ではなかったと思うが?」

「ぐ、そ、それは、そうですが、しかし、そのような時でも、私は幸家の当主に代々伝わる教えを守り、事態を終息してきました。結果を見ても、良い方向へ転がっています。特に問題はないかと」


 父は、端正な顔を祖父へ向けた。表情だけ見れば、至極冷静に語り掛けているように見える。

 だが切れ長の目を妙に瞬かせている辺り、相当動揺しているのだろう。



(でも、父上が言っている事も、分からなくはないんだよなぁ)



 幸人は、御先総本家当主に代々伝わる教えを、心の中で呟く。




一 人生諦めが肝心

二 流れに身を任せるが吉

三 武術は真面目にやらないと死ぬ




(初めて聞いた時は、何だそれ、って思ったけれど、今はその意味を身を持って体験している。諦めた方が精神的に楽な事も、流れに身を任せるのが一番怪我が少ない事も、武術を覚えていたが故に助かった事も、数多くあった)



 幸人は、人知れず溜め息を吐く。



(それもこれも、呪いのせいだ)



 但し、本当に呪われているというわけではない。


 なので、呪いと銘打っているだけである。



 この特殊な体質は、最早異常としか思えなかった。

 なんせ、御先総本家の嫡男は必ず発症するのだ。どう考えてもあり得ない。それこそ、呪いとでも言わなければ説明が付かない程に。


 しかもこの呪い、必ずしも不幸だけを呼び寄せるわけではない。

 時には幸運や吉兆も、幸人達へ降り注ぐのだ。


 そうと分かっているからこそ、後々訪れるかもしれない吉報の為に、幸家の先祖は不幸をやり過ごす術を残した。

 それが、幸家当主に代々伝わる教えだ。



(まぁようは、開き直って受け流せ、という事だ。どうあがいても私達の苦悩は絶えないのだから、いっそ呪いだから仕方ない位に考えておけ。でなければ身が持たないぞ、とご先祖様はおっしゃりたかったのだろう)



 しかし、そうと分かってはいても、割り切る事は中々難しいものだ。



 祖父と父を見ていると、殊更強くそう思った。



「別にな、緊張して口数が減るのが悪いとは言わん。だがお前が黙れば黙る程、面倒な事態になるのだ。お前が、ではない。周りが面倒を被るのだ。先日も、儂の元へ警視総監から連絡があったぞ。お前を昇進させたいが、色良い返事を貰えないと」

「なっ。何故警視総監が、父上にそのような話を」

「なぁに、あいつは学習院時代の後輩でな。それはそれは参っておったから、一つ助言をしてやったのだ。『正幸を頷かせたくば、先に椿つばきを動かせ』、とな」

「あ、あれは父上の仕業だったのですかっ」

「良かったな正幸。愛する妻に昇進を祝って貰って。これでもう後戻りは出来んぞ。お前も儂と同じ苦しみを味わいがいい」


 祖父は、口角をほんの少しだけ持ち上げ、不敵に喉を鳴らした。

 父は僅かに眉を寄せ、拳を握り締める。


「なにが同じ苦しみですっ。父上の場合は自業自得ではありませんかっ」

「自業自得なわけがあるかっ。漸く陸軍大将を退役出来たと喜んでいたら、知らぬ間に外務省の官僚に推薦されていたのだぞっ? しかも担当が外交とはどういう了見だっ。儂は英語など話せぬというのに、有無を言わさず鹿鳴ろくめいかんへ放り込まれ……っ。わけの分からぬ言葉が飛び交う中、儂がどれ程心細かった事かっ」

「しかしっ、外交官になると決められたのは父上自身でしょうっ。本当に嫌だったのなら、外務省から拝命に関する書類が送られてきた時、判を押さなければ良かったのですっ。なのに母上の前だからと無駄に恰好を付けるからっ」

「仕方ないだろうっ。『諸外国との架け橋になるだなんて、流石ですわ』と千代ちよが喜んでいるのだぞっ? 妻にそう言われて引き下がれる夫がいるものかっ」


 祖父と父は、互いの端正な顔を静かに見合わせている――ように見えるのは、一般の人間のみ。幸人からすれば、どちらも怒り狂った形相で睨み付けている、言ってしまえば、下らない親子喧嘩をしているようにしか思えなかった。


(はいはい。お二人共、ご自分の妻が大好きなんですねー。仲がよろしいようで、私はとっても嬉しいですよー、はいはい)


 二人から度々惚気話を聞かされている幸人は、うんざりとした溜め息を、さり気なく吐き出した。



 と、不意に、ガタリ、と物音が鳴った。



 瞬間。三人は、離れの出入口を振り返る。


 誰も近付いてはならない筈の離れの戸が、少しずつ開いていく。



 そこから現れたのは。




「きゃんっ」




 真っ白い毛の犬だった。舌を出し、尻尾をこれでもかと振っている。


 御先総本家で飼われている犬、十七代目さくらだ。


 さくらは口角を持ち上げ、飼い主三人を見上げている。長い毛は、使用人が毎日手入れをしているお陰で、一切の汚れもない。僅かな光も反射する程の白さを誇っている。



「さくら」


 幸人は、誰も気付かない程度に頬を緩め、両手を広げる。



 すると、向かいに座る父も、全く同じ動きをした。



 二人の視線が一瞬交わる。

 火花のようなものを散らせると、すぐさまさくらへ戻した。



「さくら。さくら、おいで」

「さくら、こっちだ。ほら」


 手を叩き、呼び掛け、どうにか気を引こうとする。整った顔も、一見変わらぬように思えるが、当人達は全力で笑っていた。



 さくらは、しばしはっはと息を吐き出すと、一鳴きした。軽やかに座敷へ上がるや、幸人の方へ歩いていく。


 よし、と内心拳を握り、幸人はどことなく勝ち誇った雰囲気を醸し出す。悔しげな父を尻目に、やってきたさくらを抱き上げようと、腕を伸ばした。



 しかし、さくらは幸人の腕をかい潜り、通り過ぎていく。



「……え?」


 幸人は、若干目を丸くした。そのままさくらの尻尾を、目で追い掛ける。



 さくらが飛び込んだ先は、祖父の膝の上。円らな瞳を輝かせ、祖父の顔をペロリと舐める。



「おぉ、さくら。よくきたな。よしよし。お前は本当に儂が好きだなぁ」


 祖父は、男らしい顔を薄っすらと緩め――幸人達から見れば、盛大ににやけ下がった顔で、さくらを撫でた。



 さくらは嬉しそうな声を上げ、白い尻尾を一層振り乱した。




 祖父の手に握られた、せんべいを見つめながら。




「お爺様、それは卑怯ですよ」

「そうです父上。飼い犬を食べ物でつるなど、男のする事ではありません」

「黙れ貴様ら。卑怯だろうと何だろうと、さくらは儂を選んだのだ。戦いに敗れた者は、指でも咥えて大人しく待っていろ。よーしよしよし。ほれ、お手」

「大人しくなどしていられるわけがありません。これは無効試合です。再戦を要望します」

「断る。一度勝敗の決まったものを、何故やり直さなければならぬのだ。いくら孫の頼みだろうと譲るわけにはいかん。ほれ、さくら、おかわりだ。よーしよーし」

「父上は、こんな勝ち方をして嬉しいのですか? 陸軍大将をも勤め上げた方がこのような真似をして。嘆かわしい。せめて正々堂々と勝負をしましょう」

「正幸。警察官のお前なら分かるだろう。世の中には正々堂々と戦う者ばかりではない。綺麗事に拘っていては、いざという時に足元を掬われるぞ。ほれ、さくら食え。美味いか? そうかそうか」


 目尻を紙一枚分垂らし、せんべいを小さく割ってはさくらへと差し出した。



 祖父の猫撫で声と蕩けた表情に、幸人は涼しげな顔を、当人としては盛大に歪めた。同じ表情をしている父へ目配せし、頷き合う。



 そして、さくらを抱え込む祖父の腕を掴み、引き剥がしに掛かった。



「むっ、こら、止めろ幸人。さくらを持っていこうとするでない」

「持っていかれたくなかったら、全員同じ条件で勝負し直しましょうね」

「無駄な抵抗は止めて、大人しくさくらを離して下さい」

「き、貴様らっ。二人掛かりは卑怯だぞっ」

「先に卑怯な真似をしたのは、一体どこのどなただと思っているのですか」

「はいはい。潔く諦めましょうね」


 三人共ほぼ表情を変えないが、動きだけ見れば凄まじい攻防を展開している。青筋を立て、唸り声を上げ、飼い犬の取り合いという下らない戦いを繰り広げた。



「っ、いい加減にせんかぁぁぁぁぁーっ!」



 祖父は勢い良く立ち上がり、ちゃぶ台をひっくり返す。


「黙って聞いていれば好き勝手言いおってっ! 血を分けた実の父であり祖父である儂に、なんという口の利き方だっ! 恥を知れっ!」

「好き勝手言っていたのは父上の方でしょうっ! だから実の息子である私が、正してやっているのではありませんかっ!」

「大体恥を知るのはお爺様ですっ! そんな姑息な手を使わなければ、飼い犬の愛情も勝ち取れないんですかっ! あぁ恥ずかしいっ! 流石は父上の親だっ!」

「おい待て幸人っ! お前今、密かに私を貶しただろうっ! 誰が父上に似ているというんだっ! 私はこんな器の小さい男ではないっ!」

「貴っ様ぁっ! 意気地なしの分際で偉そうにっ! 人を貶す暇があるなら、自分の息子の教育位しっかりしろっ! だから幸人は不審者と間違われるような男に育ったのだっ!」

「私が不審者と間違われたのは呪いのせいですっ! 性根が腐っているお爺様とはわけが違うんですよっ!」

「黙れこのひよっこがぁぁぁぁぁーっ!」

「黙るかこのくそ爺ぃぃぃぃぃーっ!」


「ほーらさくら、ここは危ないからなー。私と一緒に向こうへ行こうなー」


「逃がすか馬鹿息子ぉぉぉぉぉーっ!」

「逃がすか馬鹿親父ぃぃぃぃぃーっ!」



 幸人と祖父は拳を振り上げ、離れを出ようとする父へ飛び掛かった。



 狭い部屋の中で、三人の男が取っ組み合う。

 なまじ武術の心得があるものだから、仕掛け仕掛けられ、やり返し投げ飛ばされ、時には壁際に積まれたカラクリやガラクタを駆使しながら、激しい攻防を繰り返す。



 そんな中、さくらは祖父が持っていたせんべいを咥え、さっさと出入口を潜った。

 白い毛をご機嫌に揺らし、住処である桜の木のうろへと向かう。



 そして、己を巡る喧嘩なぞ知らぬとばかりに、尻尾を振ってせんべいを齧り始めた。



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