第2章 買い物へ行っただけなのに

3    伯爵家の朝


 御先みさき総本家には使用人が数多くいる。

 明治の日本では珍しく、全員がお仕着せの洋服を着用していた。

 決して安くはない服を纏う事で緊張感が生まれ、年若い者は「この服に見合う人間になりたい」、長年仕えている者は「この服に見合う人間でいなければ」と身を引き締める。



 そんな御先総本家の使用人も、やはり朝は忙しい。

 優雅さを念頭に置きつつも、次々に振り分けられる作業をこなしていく内に、慌ただしくなってしまいやすかった。特に年若い使用人は、余裕のない顔で廊下を突き進む事も多々ある。



 だが、廊下の奥から聞こえる悠然とした足音に気付いた途端、すぐさま我に返った。

 身嗜みを素早く整え、廊下の端に待機する。




 数拍すると、帝国大学の学生服に身を包んだ幸人ゆきひとが現れた。背後には、幸人の鞄と学帽を抱えた侍従長を連れている。




 その整った顔と涼しげな面持ち。

 美しい所作。立ち姿。

 そして、まだ学生ながら、人を従えるにふさわしい貫禄を持つ、御先総本家の次期当主。



 毎朝見ているにも関わらず、使用人達の口からは感嘆の息が零れそうになる。



「おはようございます、若。いってらっしゃいませ」


 背筋を伸ばし、忘れていた優雅さを意識しながら頭を垂れる。

 教育の行き届いた一礼に、幸人は涼しげな顔で頷いてみせた。


「あぁ、いってくる」


 颯爽と通り過ぎていく幸人。足取りは揺るぎなく、使用人一人一人をきちんと見ては、必ず挨拶を返した。

 無視しても許される立場にも関わらず、決して蔑ろにしない。後光さえ覚える姿に、使用人一同、何度となく誇らしい気持ちを覚えた。


 この方が我らの主なのだ。


 尊敬と親愛を込めて、幸人が立ち去るまで、彼らは静かに頭を下げ続けた。




(うぅ……)




 そんな使用人達の想いを余所に、幸人は本日も胃の痛む思いで玄関へと向かっていた。




「……爺」

「はい、何でしょうか、若」


 背後に付き従う侍従長が、好々爺と言わんばかりの笑みで答える。


「何度も言っているが、私にいちいち挨拶をする必要はない。それぞれ仕事があるのだから、私の事は放っておいて構わないと使用人達に伝えてくれ。お前も、毎朝玄関まで見送りにこなくていい。時間の無駄だ」

「ご心配ありがとうございます、若。ですが、ゆきの使用人に、主人への挨拶如きで後れを取るような者はおりません。どうかご安心下さい。また、若のお見送りは爺の楽しみの一つでございます。時間の無駄では決してございません」


 笑顔で言い放たれた言葉に、幸人の頬が、一瞬不自然に揺れた。


「……そうか。では、もう一つ。これももう何度も言っているが、いい加減使用人達に、私の事をと呼ばせるのは止めてくれ」

「ですが、若は御先総本家のご嫡男であらせられますので」

「だからと言って、今時若呼びはないだろう。江戸時代ではないんだぞ」

「申し訳ございません、若。なにぶん爺は江戸生まれでございますので。上に立つ者がそうであると、下の者も自ずと従わざるを得ません。どうかご容赦の程を」


 幸人の頬が、また一瞬だけ反応する。ゆっくりと、侍従長を振り返った。



 侍従長は、一切笑みを崩さない。



 しばし見つめ合い、やがて幸人から小さな溜め息が落とされた。



「……そうか」

「えぇ。大変申し訳ございません」


 頭を下げつつも、侍従長は特に悪びれない。変わらず好々爺然と笑っている。



 幸人は涼しげな顔のまま、頬をもう一度不自然に揺らした。



(あーぁ、今日も説得失敗か。爺の奴、ああ言えばこう言うんだから。挨拶位止めたっていいじゃないか。呼び方だって、変えた所で何の問題もないだろう。

 別に、家の中では若でもいいさ。でも外で呼ばれると、途轍もなく恥ずかしいんだよ。周りから『え、若? 今時?』とばかりの目を向けられ、その後ひそひそ話をされたりするんだぞ。ただでさえ不審者扱いされているのに、これ以上注目を集めてどうするんだ。もっと普通に呼んでくれよ。本当頼むから)



 しかし、そんな本音など一切表に出る事もなく、幸人は淡々と歩を進めていく。



「あっ。若、おはようございますっ」



 玄関へ到着すると、使用人見習いの少年少女が五人、待ち構えていた。子供らしいあどけない笑顔と元気な挨拶に、幸人の心は少しだけ軽くなる。


 おはよう、と返し、既に用意されていた革靴へ足を入れた。靴べらを侍従長から受け取りつつ、汚れ一つなく磨かれた己の靴を眺める。



 と、玄関の端で、見習いの少年が一人、そわそわと身じろぎ始めた。

 頻りに幸人と革靴を見比べ、唇を噛んだり、掌を開閉したりする。



(成程。今日は功大こうだいの当番か)


 幸人は内心微笑み、徐に口を開いた。



「今日も綺麗に磨かれているな」



 つま先を持ち上げ、満足げに頷いてみせる。


 途端、見習いの少年――功大の顔が華やいだ。

 他の使用人見習い達が、よかったな、とばかりに功大を小突き、笑い掛ける。侍従長も、幸人の心遣いに自ずと笑みを深めた。



 幸人は、侍従長から学帽を受け取る。頭へ被り、続けて鞄も手に取った。


「では、いってくる」

「いってらっしゃいませ、若」


 侍従長の号令に合わせ、見習い達は一斉に復唱し、頭を垂れる。



(……うん。気持ちは、嬉しいんだ。見習い達の礼も、少しずつ上手くなっていて、喜ばしく思う。思うけど、でも……毎日やるのは、やはりどう考えても大げさだよなぁ……)



 けれど、表情には一切現れていない。帽子の鍔をそっと下ろし、足早に玄関を出ていく。



 凛々しい後ろ姿とはためく学生服の裾に、誰とも分からぬ溜め息が落とされた。


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