アーモンドチョコレートみたいに

ウミガメ

本文

 カリカリと音を立てて、口の中でアーモンドが砕けていく。

 アーモンドにくっついたチョコレートは甘く蕩けて、飲み込むと、少しだけ喉に膜を張ったようにつかえた。


 ―――恋を、していた。


 目の前にある黒い制服を纏った背中は自分のものよりずっと大きくて。一体、今まで何時間、その背中を見つめていたのだろうか。綺麗に刈り揃えられた整った頭の形は嫌でも、いつも視界に入ってくる。


 窓際に座る俺の机には、日の光が眩しいくらいに当たっている。

 分厚いレンズの向こう側。光に照らされた一直線上にだけ、教室に漂う塵がキラキラと輝くのが見えて何だか綺麗だ、と思う。

 ああ、でもチョコレートが溶けてしまったら嫌だな。

 そう思って教科書の隙間に隠していたお菓子を机の右奥にこっそりと仕舞った。机の左側半分には、今日の残りの授業で使う教科書だけがきれいに一式揃えられている。


「じゃ4問目、増田、前に書いてみろ」


 俺は一瞬、先生の声にドキリとして肩を上げてしまう。


 呼ばれたのは俺の2つ前に座る増田くんだ。

 別に、俺が授業中にお菓子を食べていたことを怒られたわけじゃないのに。英語の佐田先生は怒ると怖いんだ。

 それでも、俺は今日もこっそりとお菓子を持ってきては、誰にもバレないように口に放り込む。


 ―――授業中にお菓子を食べるなんて、そんな事、悪い奴のやることだと思っていた。


 *


 その日は、4時間目が数学の授業中だった。

 少しずつ温かくなってきた気温の中、お昼ご飯が待ち遠しくて、教室中のみんながソワソワとする時間。

 数学の谷川先生はもうすぐ定年を迎える少し腰の曲がったおじいちゃん先生で、一生懸命黒板と対峙しながら、とても合同とは言えない不格好な三角形を描いていく。


「……はやくとれよ」

「……え」

 

 突然、前から小さな声が聞こえた。

 前の席に座る山村くんが、後ろを振り返って、俺の顔を見ている。

 先生に見えない角度で後ろに下ろしたその手には、小さいグミの袋が握られている。


 ―――授業中にお菓子を食べるなんて、問題児すぎる行為だ。


「怖いのか?」


 山村くんはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。それを見た瞬間、心臓がドキリと波打つ。急激に鼓動が早くなって、しっかりと座っているはずの椅子から、転げ落ちそうになる。

 騒がしい教室の中では、誰も注目していない。谷川先生はそんな皆を注意をしようともしないまま、相変わらず黒板の前でブツブツと呟いている。

 

 ―――今なら誰にも見られずに、取ることができる。


 自分の中の誰かがそう呟くのが聞こえた気がした。俺はさっと右手を伸ばすと、袋に手を入れる。一刻も早くその状況を抜け出したくて、色とりどりのグミを選ぶこともせず、手前にあった1つを勢いよく取り出した。その表面はざらざらとしている。

 俺は辺りを見回すと、先生がまだ前を向いていることを確認して勢いよくそのグミを放り込んだ。

 

 ―――口いっぱいに、レモンの酸味が感じられて、鼻からは爽やかな香りが抜けていく。


「それで、みんな理解したかい?」


 谷川先生が皆の方向に向き直り、こちらを一瞥した。

 その瞬間、今までの行為が全て見られていたように感じて、まだ口の中に残っているグミの表面の粉が喉に当たり、思わず咳き込みそうになった。それを、なんとか必死に息を止めて堪える。

 谷川先生は満足したのか、していないのか、よくわからない表情のまま、また黒板に向き直った。

 それを見届けると、今度は山村くんが後ろを振り返った。


「セーフ……だな」


 山村くんは小声で呟くと俺に向かって、へへっと笑う。そして首を少し傾けてウィンクした。

 バカなんじゃないかって思うだろ。

 でも俺は今までの行為がバレなかった安堵と、山村くんの笑った横顔がなんだか格好良く見えて、なぜだか急に恥ずかしい気持ちになった。

 俺が特に何の反応もしないので、少し不満そうな顔をして山村くんはすぐに前に向き直っていく。

 足元に置かれた野球部のスポーツバッグを見つめて、山村くんが別の世界の人間なんだと思い知る。

 

(……でも)

 

 ―――今この瞬間だけは、"共犯者" だった。

 

 そんなキーワードが突然頭の中で響いて、再び心臓の鼓動がドクドクと早くなるのを感じていた。

 

 *

 

 教室にチャイムが鳴り響く。


「……今日は、ここまでだな」 


 先生が次回の授業の始まりのページを説明している。

 今日も渡せなかった、そんなことは初めから分かっていた。

 後ろの席から山村くんに渡すタイミングなんてないのに、俺はお菓子を持ってきては、こっそりと食べている。


 ただ誰にもバレずにお菓子を食べるスリルを味わいたいのか、あの日の気持ちを味わいたいのか、その行為は自分でもよくわからなかった。

 ただ学校に向かう途中のコンビニに、本当は用事もないのに、あの日から通うようになっていた。

 ガラガラと先生が引き戸を開けて、出て行くと、教室はまた一段と騒がしくなる。


「甘い匂いがしてんぞ」


 気付けば、山村くんが腕を組んで、仁王立ちしていた。

 山村くんに話しかけられるのはいつ振りだろうか。

 久しぶりに自分に向けられたその声に、どう反応していいかわからず、慌ててしまう。


「……食べる?」

「食べる」

 

 俺は自分でそう聞いたにも関わらず、どこにチョコレートを仕舞ったのか一瞬思い出せなくなる。

 慌てて思い出してから、机の右奥に仕舞ったアーモンドチョコレートを取り出して山村くんに差し出す。山村くんは一気に二粒をつまむと、大きく口を開けてそれを放り込む。

 キラリとコーティングされた茶色がその口に吸い込まれていく。


「お前も悪い奴になったよなぁ」


 山村くんは口をモグモグさせながら、再び自分の席に後ろ向きに座ると、俺の机に肘を付く。


「……誰かさんのせいで、な」


 俺がそう言い返すと、山村くんはニヤリと不敵な笑みを浮かべる。その笑顔が、あの日のようで、ドキリと心臓が脈打つ。


「そういえばさ。……正直、お前があの日、俺のグミ受け取ると思わなかった。あんまり真面目な顔で、戸惑ってるから、さ。なんか面白くて」


 そう言って、山村くんがケラケラと笑い声を上げる。俺はその声の大きさに少しだけビクっとする。

 でも教室の喧騒の中では、その声を気も留める人はいない。


「ひどいなぁ……」

 

 すると山村くんは笑うのを止めて、右手で目尻を擦る。笑い過ぎて涙が少し出たのかもしれない。


「いや、ごめんごめん」


「というか、最初にグミを渡してきたの、随分昔なのに。覚えてたんだ」


「まあな。だって、俺も話したかったから、祐樹と」


 ―――祐樹。


 そう声に出されたのは初めてだった。その響きにまた心臓がドクンとする。

 どうしてこんなに心臓がすぐに脈を打って、顔が熱くなるんだろう。

 

 でもその答えは、もうわかっているんだ。

 わかってしまっているんだ。


「隙あり!」 


 ボーっとする俺の脇から、山村くんは再びアーモンドチョコレートを奪い去る。チョコレートは何の抵抗もなく、また一粒、その口に吸い込まれていく。


「……あ」


 カリカリ、と山村くんの口から音がする。


「いいよ、好きに食べて。……というか、俺 "も" ってなんだよ。それじゃ俺が山村くんと話したかったみたいじゃないか」


 それじゃまるで。

 

「あれ、違った? じゃ、俺 "は" 話したかった」


 そんな風に素直に言われたら。


「亮二でいいよ」




 ―――恋を、している。



 

 そんなことも、わかっていたんだ。

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