8 月下
森の中を、ユッテを背負いハインツは走った。
木々の枝葉を潜り抜け、草花を踏み荒らし、倒木や傾斜を飛び越えて、森の暗闇の中を走り抜ける。右側頭部の流血は止まらず、右の視界は赤黒い緞帳で覆われたように隠されたままだ。だがもとより月の光の届かぬ漆黒の闇の中で、視力はそれほど重要でもなかった。
ハインツには目指す先、アマリエが待つというその方向は分かっている。白狼と魔女を繋ぐ目に見えぬ一本の糸は背中のユッテと、もう一人の魔女カミルに繋がっているのだ。
ザザッ……という音が背後から追ってくる。
遠くに引き離したと思っていた狼の咆哮が、細い声ながらも重なり合い、次第に距離を詰めてきた。
数は少ない。
ジェラルドの剣をすり抜けた十数匹がハインツの後を追ってくる。
ハインツの後ろ足は黒狼の牙でしたたかにえぐられていて、走る速度は徐々に落ちていた。じき追いつかれる、そんな焦燥にかられた時、目の前の森がさっと開け、月の光に照らされた峡谷の崖にようやくたどり着いた。
森を出るやハインツは急角度に方向を変え、崖に沿って渓谷を下流に向けて地面を蹴った。突如現れた渓谷に黒狼の数匹は脚を止めることが出来ず、そのまま谷底に落ちていく。だが機敏な数匹は落ちるぎりぎりの縁で踏みとどまり、より猛々しい鳴き声を上げてハインツの後ろに食らいついてきた。
息を切らしながら、しつこい黒狼の追撃にハインツはいっそ不気味さも感じていた。
黒狼たちの執念深さ。今更魔女を奪い森の奥へ連れ去っても、もはや白狼は黒狼の「王」とはなりえない。もとより、白狼の「力」など黒狼たちにとって不可欠なものであるとも思えなかった。黒狼はただ、白狼の離反に純粋な憎悪を募らせているだけだ。
――もう諦めてよ。
半ば懇願するようにハインツは前へ前へと走る。だが頭はふらつき、後ろ脚も思うように動かぬようになってきた。速度が落ちる。黒狼との距離は縮まっていく。息が切れ、苦しさにハインツは喘いだ。背後から一匹の黒狼が飛びかかったことにも気づかない。
が。
ギャイィイン!
黒狼の悲鳴で、ハインツは背後に何が起きたかを悟った。一瞬前に、頭上で細い風が唸りを上げたのだ。ハインツは振り返るかわりに前方を見据えた。谷の対岸の先に、矢をつがえ弓を手にした女性が凛々しく立ちはだかっていた。
「ユッテ!」
アマリエの叫びが耳に届く。反応して背のユッテが僅かに顔を上げた。その場で勢いよく起きあがらなかったのはジェラルドの言いつけのお陰だろう。
「ユッテ様、お母様です」
「かあさま、かあさま……!」
小さく、涙声で囁くユッテの声が、ふらつくハインツの頭に優しく響いた。
アマリエは馬を下り、矢をつがえてハインツの後に続く黒狼に狙いを定めている。カミルは近くの木陰に身を潜めていたが、ハインツと背のユッテを見取ったのだろう、草木の中で嬉しげにぴょんぴょんと跳ねていた。
弓の弦がビンと響く。黒狼が悲痛な鳴き声を上げ、そのまま地面に倒れていく。一匹、二匹、弦の音が響くたび背後の黒狼の数が減っていった。
だが、ハインツに追いすがる黒狼の数は、アマリエの手持ちの矢の数を上回った。肉薄する黒狼全てに矢を使い切ってしまったアマリエは、声を張り上げた。
「ハインツ!」
自分の名を呼ばれたことに、ハインツは身を震わせた。
「ハインツ、こちらに飛びなさい! 狼はここまでは来られないわ!」
峡谷の谷は吸い込まれそうな闇をその奥に抱いている。アマリエの言葉通り、先ほどからアマリエに狙いをつけて飛びかかろうとした狼たちもいたが、その全てはこの谷を飛び越えられず途中で底の急流に落ち、流されていっている。
ハインツの巨体、その太い脚での跳躍なら確かに届くだろう。だがハインツは走りつつも後ろ脚の傷を考えた。この脚で、はたして――。
その時、背のユッテがハインツの毛を握る手に力を込めた。瞬間、ハインツの表情が変わる。対岸で「飛べ!」と手振りしているアマリエを見つめ返した瞳の奥に、火が宿った。
一度、谷の縁とは反対側に大きく迂回して、ハインツは駈け出した。
後ろ足の傷を考える余裕はない。飛べ、飛ぶんだ! 己を鼓舞して、ハインツは谷の縁を四本の脚で力任せに蹴りつけた。
白金色の光が、峡谷の上に弧を描いた。美しい弧の終点は、確かにアマリエ側の対岸にたどり着くかと思われた。
が、黒狼たちも目を血ばしらせて、そのハインツに食らいついた。飛びこえられるはずもない谷に飛び出し、己もろともハインツを谷底の急流に引きずり込もうとする――その執念はどこから来るのだろう。
空中で、ハインツの尾に、脚に、胴体に、黒狼の爪が、牙が食らいつく。ハインツは激痛に身を捩らせた。身体を振って黒狼たちを弾き飛ばすも、勢いを殺された巨体は角度を変えて落下をはじめる。
「ハインツ!」
アマリエの絶叫が耳を打つ。アマリエの目の前で、ハインツの前脚は谷の縁を掴み損ねた。ユッテを乗せた白金色の大狼はそのまま谷底に吸い込まれる。アマリエは膝をつき、半身を乗り出した。
だが――。
ハインツは、峡谷の谷の石壁の半ばに、前脚だけでしがみついていた。頭部から流れる血が、垂直になった胴と尻尾も赤く濡らしていく。
それでもハインツは爪を立てた前脚を、前に伸ばす。怪我をしていない方の後ろ脚で岩壁を蹴り、そのたびに脆く石片が剥がれ落ちる岩壁を、わずかに跳ねるようにしてよじ上る。
そしてその前脚の先が、崖の上まであともう一歩這い上がれば――というところで、がらりと左の前脚を乗せていた岩の突起が砕けた。
右の前脚だけでぶら下がる格好となったハインツは、自分を上から覗き込んでいるアマリエに弱々しく囁いた。
「ユッテ様を……、先に」
ユッテはそんな体勢でも必死にハインツの首にしがみついている。もはやぶら下がっているといっても良い。
アマリエは頷くと、崖の縁に這いつくばり、腰から上を全て投げ出してハインツの背中に手を伸ばした。その腰には長い帯が締められ、帯の端は背後の森の太い一本の木の幹に縛りつけていた。ハインツが崖をよじ登っている間に命綱として用意しておいたのだ。
アマリエは肩や肘の関節が外れそうな勢いで手を伸ばし、ハインツの首に巻き付くユッテの両腕を両手で掴んだ。腰と太股に悲鳴を上げさせながら無理な体勢から己の上半身を引き上げる。
「ユッテ、動かないでね……。そう偉いわ、大人しくしてくれて、ありがとう」
脚だけを使って後方に這いずる形で身体を引き上げながら、身動き一つせずいてくれいる娘に、母親は囁き続けた。ユッテの腕がハインツの首から離れていく。
軽くなったはずなのに、ハインツはその瞬間あまりにも自分の身体を重く感じた。
アマリエは身体を地面に擦りつけるようにして角度を変えながら、自分とユッテを崖の上に引き上げた。はあ、と思わずアマリエの吐息が大きな声を伴って漏れる。崖の上に乗り上げさせた娘の身体を、すぐに押すようにして谷の縁から遠ざけた。
「ご無事、ですか」
ハインツは視界から消えた二人の姿に安堵の声を漏らす。左の前脚は他に掴まる突起を見つけられず、右の前脚ももう痺れて力が入らない。後脚は宙ぶらりんに浮いたままだった。ハインツの意識が遠のきかける。
だが、流血で半分赤く染まった視界に、再びアマリエが谷の縁から顔を出した。手を伸ばしてくる。
今度はハインツの前脚を掴んで、引き上げようとしているのだ。
無理だ。ハインツの口元が僅かにそう動いた。幼いユッテならともかく、この狼の巨体を引きずり上げるなどジェラルドでも不可能に違いない。
掠れる声でハインツはアマリエを制止しようとした。
「やめてください。アマリエ様が、あぶない」
しかしアマリエはハインツの言葉など耳に入らぬというように、真剣な顔つきでハインツの前脚に手を伸ばす。それは先ほど、実の娘のユッテに手を伸ばした時と同じ表情だった。
からん、と小さな小石がハインツの顔に落ちてきた。右の前脚で掴んでいた小さな突起がハインツの重みについに崩れた。
アマリエが掴みかけた右の前脚は、掴むその寸前に岩壁を滑り落ちていく。
「ハインツ!」
崖の上から吊された格好のまま、アマリエが叫ぶ。
「――ハインツ!」
はるか遠くから、よく通る低いジェラルドの声も聞こえた気がした。
「ハインツ? ハインツ!」
幼い双子の声が重なって聞こえる。
崖の底に吸い込まれながら、ハインツは天を見上げていた。雨雲はとうにかき消え、夜空には満天の星が広がっている。
その中央に光る月は白く、星々とは比較にならぬくらい巨大な輝きを持ち、――そして寂しげに見えた。
ザン、と高く上がった水しぶきと大きな水音が、谷の壁に響き渡った。
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