7 衝突

 月の光を全身に浴び、白金色の光となってハインツは岩壁を駆け下りた。

 と同時に地上に群れを成していた黒狼が一斉に駆け上ってくる。真っ黒な潮流に流される前に、ハインツは岩壁を蹴って黒狼たちの遥か上空に飛び上がった。


 背にはユッテ。駆け下りる際に前のめりにそのまま落ちそうになったが、足でハインツの背を挟んでそれを堪えてくれた。ユッテのためにも黒狼たちに背は見せられないし、着地の衝撃も最小限に収めなくてはならない。


 ハインツは黒狼のもっとも群れた一角を目指して空中で体勢を変えた。

 容赦なくその真上に着地する際、目敏いものは飛びすさったが、運の悪いのろまな黒狼は哀れにも白狼の下敷きになった。着地と同時にハインツは地面を蹴る。黒狼は反射的に後退し、しかし次の瞬間ハインツに向けて飛びかかった。


 とにかく、ユッテを守らなければならない。黒狼たちの狙いはユッテだ。無防備なユッテの襟首に牙が届きでもしたら、そのまま引っさらわれて森の奥に連れられてしまうだろう。


 ハインツは高く跳ね、群がられる前に黒狼の壁の僅かな隙間を駆け抜け、森の中に飛び込むしかなかった。黒狼に爪や牙を立てられても身を振り回すだけで黒狼たちを弾き飛ばすことが出来るが、同時にユッテの身体も吹き飛ばしてしまう。無理な突破をしようとしていることは承知の上だが、他に方法はない。


 だが、黒狼たちの壁は厚かった。

 彼らははじめ、ハインツの突撃に戸惑っているかに見えた。

 ――白き王が、なにゆえ黒き我らを傷つけるのか。

 そんな躊躇いの中、ハインツが次々に黒狼を蹴り飛ばし、威嚇し、体当たりをくらわすと、彼らの赤い瞳に例えがたい憎悪の炎が燃え上がった。


 ――我らの王が、我らを虐げるか。

 ――我ら同胞を、憎むか。

 ――王が、我らに、……抗うか!


 岩棚の上から、一匹の黒狼が吠える。その声が合図となった。ハインツは黒狼たちをかわしながら、振り返りその一匹を見上げた。赤い目どうしが合った瞬間、黒狼はハインツめがけて飛び上がった。


 気を取られたその瞬間、周囲の黒狼が一斉にハインツに牙を向けた。黒狼たちの勢いづいた跳躍は、ハインツの身体に牙を、爪を深く立てた。

 彼らの生臭い吐息からは、怒りを元にした殺意が感じ取れる。赤い目をさらに爛々と光らせ、今や黒狼たちは白き「王」などというおためごかしを捨て、明らかにハインツを異端の者としてさげすみ、憎しみを露わにしていた。


 かわし損ねた黒狼の牙が、ハインツの後ろ足の付け根に食い込んだ。その痛みに気を取られた隙に、真横から三頭まとめての体当たりが、ハインツの巨体をよろめかせた。ユッテを庇い、倒れるわけにはいかぬとハインツは脚を踏ん張らせたが、その隙を狙って黒狼の爪が頭に振り下ろされる。


 ――ユッテ様!

 その爪がユッテに届かぬよう、ハインツは避けるべきところを反対に頭突きで受けた。ハインツの右の赤い瞳が、爪にえぐられた右側頭部の傷から流れる血で黒く染め上げられる。頭がくらりと回って、眼前の光景は、赤と、黒と、白の三色しか見えなくなった。


 ――駄目か……駄目だったか。

 ハインツは朦朧とした意識の中で、全てを諦めかけた。しかし背のユッテだけでも逃がさなくてはという思いだけに縋り、なんとか脚を踏ん張り、持ちこたえる。

 霞む目で、ハインツは周囲に視線を彷徨わせた。しかし黒狼の壁に突破できそうな亀裂は見つからない。


 その瞬間。

 森の奥から鋭い威嚇の声が響き渡った。と同時に弾き飛ばされたと思われる黒狼たちが数匹、森の向こうから飛んでくる。

 やがて飛び出た騎兵は、そのまま長剣で黒狼たちの壁をなぎ払った。


「ハインツ、ユッテ! まだ無事か!」

 聞き慣れた野太い、これ以上無いほどの頼もしい声。

「とうさま!」

 ユッテが勢い顔を上げた。飛びかかる狼たちをなぎ払いながら、ジェラルドは鋭く叱咤した。

「まだ伏せていろ!」


 しかし、慌ててもう一度ハインツの毛に顔を埋めるユッテを横目で見ながら、ジェラルドはにやりと口の端に笑みを乗せた。敵兵に対峙したときの不敵な笑みにも見えたし、時折家族だけに見せる、慈しみあふれた笑みのようにも見えた。


「ユッテ、よく無事だった! さあ帰るぞ」


 その声に安堵したのは、むしろハインツの方だったろう。ユッテをこのままジェラルドに託せば――もう倒れられる。ふらつく頭でそう考え、血に染まらぬ左の目でジェラルドに訴える。

 だが、言葉にならぬハインツの望みを充分に察知したジェラルドは、甘えるなという風に怒鳴りつけた。


「そのままユッテと行け!」

「……旦那様、僕は、もう」

「泣き言など聞く耳は持たん! この先にアマリエが待っている。しんがりは俺が務める、はやくユッテを連れていけ!」

 言いながら、飛びかかる黒狼を右に左になぎ払い、黒狼たちの憎悪の視線をジェラルドは一身に引きつけている。


 ハインツは苦しげに息を吐き出した。ジェラルドはその流血した頭部を一瞥する。しかし情けを振り切るように表情を引き締めると、冷酷にも聞こえる声で言い放った。


「それとも、城砦に帰らんのか。このまま一人、森の中で朽ち果てるか」


 ハインツの左目に、かすかな戸惑いの光が浮かぶ。怯えにも、拒絶にも見える光。だがハインツが口を開くより先に、背のユッテが高い声を上げた。


「帰るよぉ! ハインツ、言ったもん、いっしょに帰るってぇ!」

 娘の絶叫にジェラルドは目を見開き、ついで大声で笑いはじめた。殺意に満ちた黒狼に囲まれながら、その豪胆振りはさすが一国の騎士団長というところである。

「そうか! ならばとっとと行け‼」


 ジェラルドは剣を横に払った。不運にも顔面を叩かれた黒狼の牙が砕け、飛び散る。あまりの凄惨な光景に、野生の狼たちも一瞬たじろぎ一歩退いた最中――ハインツはユッテを背に乗せたまま、森の奥へ駈け出した。

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