6 選んだ行く道

 言った直後に、ユッテは首を傾げた。


「ハインツ? あれ、おおかみさん……じゃないね? え、でもハインツだ。なんで、ハインツ、おおかみなの? ……ハインツだよねえ?」


 きょとんとした顔で目をくるくるさせるユッテを見て、ハインツは喉を鳴らして笑い声を立てた。胸の奥からこみ上げるものが、うっかり嗚咽となって混ざりそうになるのを、ようよう堪えつつ。


「……探したんですよ」

 思わずさらに声が低くなる。

「なんで勝手に一人で行っちゃうんですか。いつも後先考えず、思いつきで行動するから、迷子になったりするんです」

 説教口調に、ユッテが不服げに唇を曲げた。


「だって、みんなのとこに、すぐもどれると思ったの!」

「結果としてもっとこんな奥深くまで迷い込んでるじゃないですか。そういう時はじっとして、大声で助けを呼ぶんですよ。あの場で泣きわめいてくれたらすぐに見つけられたのに」

「やだ。ユッテ、赤ちゃんじゃないもん」

「赤ちゃんです。自分ではどう思ってるのか知りませんが、誰から見たって、ユッテ様とカミル様はまだまだ『赤ちゃん』です!」

 べろり、とハインツの大きな舌が、泥と雨と、涙の跡に汚れたユッテの頬を舐め上げた。

「ほら、隠したってわんわん泣いた跡が残ってる」

「ちがうよぉ! やめて、気持ちわるいー」

 両手を振り回していやいやするユッテに一つ溜息をついて、ハインツはその襟元を咥えて穴から引きずり出した。


 岩棚に黒狼の姿はなかったが、岩壁の下方からグル……という呻きがひたひたと上がってきていた。そっと下を伺えば数百の赤い瞳が暗い森の中から鋭い眼光を放っている。四方を包囲された状況に、ハインツはユッテに近寄るように促した。


 だが、そのユッテは岩棚の一角に横たわるもう一頭の白狼――ユッテの「おおかみさん」――に視線を奪われていた。

 月の光に輝いていた白金色の毛並みは血と泥にその輝きを失い、四肢と巨大な尾は投げ出されている。胴体に埋もれて顔は見えなかったが、ぴくりとももう動かぬその巨大な身体を見つめながら、ユッテは呟く。

「……ねんね、してるの?」

 言いつつも、それがただ眠っているだけとは、ユッテには思えなかった。だが「死」というものを直接的に理解できる年齢では、まだなかった。


 ハインツはそっとユッテの側に寄った。

「……ユッテ様、行きますよ。お父様とお母様が、近くまで来ています」

「とうさまと、かあさま?」

「ええ、カミル様ももうそちらにいらっしゃいますよ」

「カミル!」

 とたん、ユッテの口から甲高い声が響いた。


 背中に乗れ、という風に身振りで促され、ハインツの毛を一度むんずと掴んだユッテは、しかし手を離して上りかけた足を降ろす。

「おおかみさんに、さよなら、する」

 ユッテは小さな足で大狼の元へ走り寄った。先ほどまで自分が埋もれていた暖かな首元を探したが、丸くなって横たわる大狼からそこを見つけ出すことは出来なかった。触れられる箇所の毛皮に、両手を広げてひしとしがみつく。そこから首だけ振り返ってハインツに尋ねた。


「もう、ずっと、さよなら?」

 ハインツの声は小さく、低かった。

「そうですね……。もう会えないと思います。いっぱい、さよならしてください」

「うん」

 言って、ユッテはもう一度毛皮に顔を埋め、何度も頬ずりするように首をさかんに振り続けた。


 ――先代の白狼。

 その亡骸を見やるハインツの視線はやや陰りを帯びていた。


 長く魔女グリータと共にあったこの白狼は、ハインツの父というわけではもちろんない。

 黒狼の群れの中で、後継の証したる白金色の毛を持ってハインツが生まれてからは、もはや寿命はとうにないと自ら決め、グリータの前から姿を隠すようになったと聞いた。グリータ自身は時折会いに行っていたようだが。


 この白狼と魔女グリータが、共に互いのみを拠り所にした長い年月。何を思い生きてきて、そして死を迎える際に何を願ったのか。ハインツはもう知る術がない。

 次代の白狼たる自分と、次代の魔女たるユッテとカミルにその力と宿命は受け継がれた。――いや、受け継がれたのか? 何のための力で、何が宿命だというのか。ハインツは今も見いだせないでいる。


 黒狼の唸りは、相変わらず岩壁をひたひたと不気味に這い上がってくる。

 彼らは魔女であるユッテを狙っている。それはなぜか。魔女に繋がる白狼を、森の奥に留めたいからだ。そのための「贄」として。


 白狼は薬であり毒である。唾液をはじめとする体液、毛や皮膚は、状態によっては万病の治療薬でもあり、どのような動植物でも生命の泉を枯らせる猛毒にもなった。また黒狼の雌の腹より生まれながら、他の黒狼と比べこの巨大な体躯と怪力、脚力は、それだけで群れの力の象徴ともなり得る。

 また反対に、その力故、黒狼たちと真の共存はできない。同族でありながら持って生まれた力が違いすぎる。白狼の種が黒狼の雌を孕ますことができないのも、その一つだろう。


 求められつつも、受け入れられない。白狼はそんな孤独に耐えかね、ある日人里を追われた乙女を森の中へ連れてきた。乙女と共にあるため、白狼は己の力さえねじ曲げた。


 ああ、とハインツは今理解した。不思議に思っていた、人への変化の力は、この時の白狼が自らの願いとともに作り出したものなのだろう。

 狼の姿を捨て、乙女と共にありたいという願いが、白狼に人としての姿を取らせたのだ。それほどまでに白狼は人恋しく、反対に、黒狼たちとの離別を望んでいたのだ。


 やがて、ユッテが白金色の毛から頭を上げて、ハインツのもとに戻ってきた。もういいのかと聞けば、素直に頷く。先に言われたとおりハインツの毛を掴みよじ上るように背中に跨がる。

「……首の所に、しっかり掴まっててください」

「こう?」

 両手を広げて、ユッテはハインツの首にしがみついた。全身をその背に伏せると白金色の毛にユッテの身体は半ばが埋もれてしまった。

「苦しくないですか」

「ないよぉ」

 くぐもった声で、ユッテは答える。そしてその声のまま、ハインツに問うた。

「もう、おうちに帰る?」

「帰りたいですか?」

「……うん、帰る」


 初めての城砦の外に、子どもらしくはしゃいでいたユッテとカミル。父母を恋しがる気配も見せず、グリータの家に行くと言えば喜んでついてきていたが、どうやら外に対する好奇心はもうユッテの中で眠りかけているらしい。

 ハインツがやや苦笑を漏らすと、ユッテは重ねて聞いてきた。


「ハインツは? ハインツは、ハインツのおかあさんのおうちに行くの?」

 ハインツの口から笑みが消える。もはや、ハインツのおかあさん――グリータはいない。帰るべき所はとうに失われている。言葉が口から重くこぼれ落ちた。

「……いいえ」

「じゃ、いっしょに帰る? ハインツもいっしょ?」

 ユッテの声に喜色が混ざった気がして、ハインツはおもわずどきりとした。


 ジェラルドの顔が浮かぶ。城砦に戻ってこいと言ってくれた。

 アマリエの顔が浮かぶ。ユッテはどこだと詰め寄る高い声。


 ――許されるのなら。

 無理かも知れぬ。だが。


「はい」

 ハインツの応えは小さかった。だが、はっきりと言い切った。

「帰ります。一緒に」


 言葉と同時にすくっと立ち上がったハインツは、岩棚から地上の黒狼の群れを見下ろした。

 求められつつも、受け入れられない。そのような群れには自ら決別しても良い。ようやくそう思えるようになった。


「ユッテ様、一気に駆け抜けますからしっかり掴まっててくださいね。……こわいことはありませんから、安心して。顔を伏せていてください」


 うん、とユッテの頷きが肌越しに伝わる。その感触を確かめてから、ハインツは脚を蹴って宙に躍り出た。

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