3 託す者、託される者

 ――グリータ。


 ユッテは夢の中でそう呼ばれた。初めて聞くその声に呼ばれた瞬間、僅かに背筋がぞくっとした。低く、やや重苦しいその声は、耳から聞こえているわけではなかった。ユッテの頭の中に直接響いていた。


 見渡すとそこは木々に囲まれた小さな窪地だった。

 視界の端に、不揃いな木の板をただ重ねて立てただけの粗末な小屋がある。

 ユッテは匂いのきつい外套を羽織って、小屋の横で火を焚き、薪をくべていた。炎の上に吊した変形した鍋には、どろりとした茶色とも緑ともつかぬ液体が煮え立っていた。


 呼ばれたユッテ――いや、グリータは立ち上がり、目に見えぬ気配に耳をすませた。声はその主を見せぬまま、グリータの頭上から響いてくる。


「なんじゃ」


 答えたグリータの声は気だるげだ。よっこいしょと座っていた丸石から腰を上げて、小屋の扉をふと振り返ると、そこに小さな白い仔狼が転がされていた。

 産まれたばかりなのか、まだ毛もろくに生えそろわない、赤みの帯びた肌を晒しているのが痛々しい。目も開いておらず、ただの突起にも見える小さな四本の脚では立ち上がることも叶わないのだろう。地面に身体を擦りつけるようにして、きゅう、きゅうとか細く鳴いていた。


 グリータはしばらく黙ってその仔狼を見つめていたが、やがて大きな溜息をつきつつ、その首をひょいと摘まんで持ち上げた。周囲を見渡して手頃な入れ物がないとみるや、自分の毛皮の外套のゆるめた胸元に放り込んだ。丁寧さの欠片もない所作であったが、仔狼はそれでも必死に爪を立ててグリータの衣にしがみつき、また小さく、きゅうと鳴いた。


 声は、相変わらず空のどこからか響いてくる。グリータの視線が、ちらりと茂る木々の中に注がれた。よく見やれば、暗く影になった枝葉の向こうから、幾つもの赤い瞳が妖しい光をたたえてグリータを見つめていた。


 ――今朝方、産まれた。白の王の、後継。

 声がまた頭の中に響いた。


 仔狼の小さな身体が、グリータの胸元でもぞもぞと動いた。

 少しでも柔らかく、暖かい場所を求めているのだろう。手を貸してやるでもなくその姿を見つめていたグリータは、やがて「くすぐったいわ」と素っ気なく呟き再度つまみ上げる。そのまま投げ捨てそうな乱暴さだったが、片手で帯を締め直すと、今度は締まった襟元に仔狼をそっと置いた。

 安定した居場所を得た仔狼は、そのままグリータに頬を擦り付け、またしても、きゅう、と鳴いた。

「耳障りな声よ」

 言いながらも、ぽんぽんと服越しに軽く叩くその手は、仔狼の身体を優しく包んでいた。


 茂みの奥から、赤い瞳がぎらりと光った。

 ――魔女に、託す。


 グリータは、その言葉にはしばらく答えなかった。それ以外ないと自分で承知しながらも、なかなか頷く気にならぬ。


「いやじゃと言うたら?」


 茂みの奥から、困惑した気配が伝わってきた。頭に響く声とは別に、ウゥウ……とうなり声が響きはじめる。グリータは心底うんざりしたかのように顔をしかめた。


 声が、重々しく重ねられた。

 ――それが、魔女の務め。


 茂みの奥の気配は、そう言いのこしてふいに消えていった。ざざっと風もないのに木々が一度ざわめいて、静まる。残された魔女と仔狼は、しばし立ったままその風に吹かれていた。


 風の向こうに、空が広がっている。天は高く、どこまでも、遠い。


「名がないと不便じゃの……」

 いかにも面倒くさげにグリータは呟く。胸元で、グリータの温もりに包まれたせいか眠りに落ちかけている仔狼をじっと見やる。

「ま、なんでもよかろ。そうさな……こう呼ぶか」

 体毛はまだ薄くまだらではあったが、仔狼は白狼の後継にふさわしい、白金色の光を纏っていた。




「――しろ、ちび……」

 夢の中のグリータの姿から抜け出て、ユッテは自分が発したその名の響きで目を覚ました。


 なんどかの瞬きの後に、自分がまだ白金色の大狼の首元に包まっていたことに気づく。暖かな天然の毛布の気持ちよさに、もう一度身体全体を絡ませたころには、夢の内容などすっかりと忘却の彼方であった。


 大狼の鼓動は、先ほどより弱く、小さくなっていた。だがその意味はユッテには分からない。空腹を覚えたが、この岩棚には食べられるものはそういえばなかった。しかし水が湧いていたはずだと、湧き水の流れる岩壁へ向かおうとする。

 白金色の毛皮から上半身をもぞもぞと動かして這い出、大狼の毛を掴みながらその背によじのぼりはじめた――その時。ぐらりと身体がひっくり返った。寝ていたと思った大狼がユッテの動きに起きあがったのだ。


 小さな悲鳴は、しかしふわりと身体ごと毛皮の上に落ちた。ユッテを半ば投げ飛ばし、それを自ら身体で受け止めた大狼は、ユッテの襟首を咥えて自分の口元へそっと降ろした。

 瞼が半分ほど開いた赤い目としばし無言で見つめあって、ユッテは小さな手でその鼻先をさすった。


「びっくりした。やっとおっきしたの?」

 むくれ顔を見せたが、ユッテはすぐに笑い出した。大狼の巨大な顔にひしとしがみつき、頬を擦り付ける。大狼の昏睡による静寂は、やはり寂しさと心細さを覚えずにはいられなかったのだ。大狼は低く掠れた声で囁いた。

「……そなたの寝言で目が覚めた」

「ねごと? ユッテ、何か言った?」

「懐かしき呼び名をな……」

 大狼の瞼が、なんどかゆっくりと瞬く。柔らかな視線は微笑んでいるかのようだ。


 その時、突然の強風が岩棚を駆け抜けた。

 大狼が寝床にしていた枯れ草が舞い、ばらばらと飛ばされ岩壁の下の地面に落ちていく。反射的にユッテは大狼の毛をむんずと掴み首の間に身を隠した。ユッテが吹き飛ばされる恐怖に身をすくめるほどの突風だった。


「すごい風ぇ」

 その風が嚆矢となったのか、ヒュウオゥ……ヒュウオゥ……と北から風の勢いが強くなる。空気の流れは大狼の毛並みを揺らし、ユッテの髪をかき乱した。

 風は岩壁の下へと吹き、また上がる。空気と空気のぶつかり合いは形容しがたい低音の響きを呼んだ。岩壁を削り取るような激しい風音は岩棚の狭い空間でさらに反響し、ユッテは思わず両手で耳を塞いだ。


 びくり、と白金色の毛並みが逆立った。

 舞い上がる風の勢いがいや増す中、大狼は立ち上がる。一歩だけ前に進み、鋭い視線を眼下にさまよわせる。


「なあに?」

 聞いてはみたものの、高さへの恐怖にユッテは同じように下を覗き込むことは出来なかった。


 風がうなる。耳をつんざく風の音が轟音となって岩棚を打ち付ける。


 大狼はくるりと向きを変え、ユッテの襟首を咥えた。なに? と目を丸くしたユッテをそのまま奥の岩壁まで押しやり、枯れ草の吹きだまりの上に落とした。

 するとユッテ自身の重みでその吹きだまりは陥没し、枯れ草で隠れていた斜め下方に広がる小さな空洞にユッテの小さな身体は転がり落ちた。


 落ちた、と言ってもせいぜい転がった距離はユッテの身長くらいだ。さらに積もっていた枯れ葉が衝撃を和らげ、ユッテは驚き以外の痛みは何も感じなかった。その小さな空洞は立てるほどの高さはなかったので座り込んだまま上を見上げる。落ちてきた陥没孔より、白金色の毛並みが見えた。が、すぐに朽ちた倒木がその穴を塞ぐ。大狼が尻尾を回して穴に蓋をしたのだった。


 ユッテが騒ぎ出すより前に、大狼の低い声が穴に響いた。

「そこにおれ。しばし、騒がしくなる」

「なんで?」

「――風がうるさいであろうから、耳をふさいでいるがいい。われが呼ぶまで、出てきてはならんぞ。よいな」


 しばしの沈黙の後に、ユッテは素直に「うん」と呟いた。その声に低く笑って答えると、大狼は夜空に向かって一声、獣とも思えぬ澄みきった声で鳴いた。

 そかしその声量と鋭さは、夜空を引き裂くような遠吠えであった。

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