2 隔たれた再会
時間と共に雲は全て流れ去った。月は煌々と夜空を紺色に照らし、あますことなく森の木々にもその光を降り注いだ。湿気を含んだ空気は冴えて冷たく、吸い込む度に身体の内を寒々とさせた。
雨が止み、月明かりに照らされた森は、夜にもかかわらず空気がざわついている。夜行性の獣たちの足音、羽音、いななき。その生命の鼓動を感じさせる雑多な音が、森の奥から静かに、しかし確かな波動を持って響いてくる。
その中を、ハインツとジェラルドは風のように走り続けていた。草むらを蹴散らし、倒木や落石を飛び越え、細い枝葉に顔や身体をしたたかに打たれながらもその速度を緩めることなく、目指すは一路、北東の岩山である。
やがてハインツ達の目前の木々がまばらになっていく。
おっと、という風にハインツは足を止めかけた。それに気づき、ジェラルドもやや慌てぎみに手綱を引く。二人が二、三歩足をもつれさせながら急停止し、最後の茂みを越えた先は、急な切り立った崖になっていた。ジェラルドの馬は驚いて危うく騎手をふり落とすところだったが、ジェラルドはようよう堪えてそのまま馬を宥めさせた。
ハインツがやや息を切らせながら、その崖の下を覗き込む。深い深い底は月の光もろくに届かぬ暗闇になっていたが、足下から響いてきた水音からして渓流となっているようだ。崖の対岸は同様の崖になっていて、その先もこちらと同様、木々に覆われた深い森になっている。対岸までの距離はと二人は目測した。
「馬では飛び越えられんな」
「僕が狼姿に戻っても、無理そうですね」
「あの岩山は、この渓流の上流というところか」
ハインツの後ろから同様に覗き込んでいたジェラルドが、渓流の流れを目で遡り、その先が目指す岩山の麓に繋がっていることを確かめた。
「返って分かりやすい。この渓流沿いに進みましょう」
言うやいなや、切り立った崖の縁に沿ってハインツは跳ねるように走り出した。
ジェラルドも手綱で向きを変え、その後を追う。闇の深淵を覗き込むような崖を右手に、二人は真っ直ぐ前に走る。渓流は水音からしても流れが激しく水深も深く、足を踏み外せば万一にも助かる見込みはなさそうだ。
ふと、二人は同時に空気のざわめきを感じた。森の雑多な音に混ざって、馴染まぬ――しかし自分たち二人にはどこかで覚えのある声が聞こえてきたのだ。それは遠く、しかし徐々に近づいてくる。夜行性の獣や鳥にしてはやけに甲高い声。無意識に、聞こえてきた崖の対岸にハインツとジェラルドは意識をやった。
「――あっち、あっちだよ!」
そして対岸の木々の合間から飛び出てきた、一頭の馬とそれに乗騎した二人の姿。
「アマリエ! カミルか!」
ジェラルドが声をあげた。
「ジェラルド……」
「ハインツ、いたー! あっ、あっ、とうさま、だ!」
声を発したと同時に、アマリエは急な崖の存在にさっと顔色を変えて馬の脚を止める。だが鞍の前部に座らせているカミルは、ハインツと父の姿を見つけ飛び跳ねんばかりだ。アマリエは大人しい愛馬よりもカミルの制御に気を取られた。
何度か足踏みさせようやく馬もカミルも落ち着かせると、アマリエは対岸に目をやった。ハインツもジェラルドも立ち止まってこちらを見つめている。
「無事だったか!」
ジェラルドの低い声が響く。距離もあり、月明かりではその表情までは窺えなかったが、珍しく夫の声には内なる喜びがあふれているようにアマリエには聞こえた。
「とうさま!」
「おお、カミル。元気そうで何よりだ!」
両手を振り回し対岸の父に向けてカミルは叫ぶ。アマリエはその小さな身体が落馬しないように後ろから支えていた。しかし視線は、腕の中の息子でもなく、対岸の夫でもなく、その後ろに、やや身を隠すように立ってこちらを見ているハインツの姿に注がれていた。そのハインツの周囲も気ぜわしく探る。
ジェラルドが渓流の上流、岩山の方向を指し示した。
「合流するぞ。あちらへ向かえ。上流ならば幅も狭まり、対岸に渡れるところがどこかに……」
だがその言葉を遮るように、アマリエは叫んだ。
「……ユッテは!」
ジェラルドではなく、ハインツに向けた叫びだった。
「ユッテはどこ⁉ ハインツ、あなたユッテをどこにやったの⁉」
ハインツは身を固くして、しかし口を真一文字に結んでアマリエの叫びを受け止めた。妻とハインツを順に見やったジェラルドが、馬を二歩ほど進ませてその間に割って入った。
「今、迎えに行くところだ」
「迎えに⁉ 一人でどこかに置いていると言うの? こんな森の中に! どこよ!」
「アマリエ、落ち着け」
「あなたこそ何を落ち着いているのよ! ユッテはまだ四つの子どもなのよ!」
アマリエの声が高くなるにつれ、ハインツの顔色が暗く青ざめていく。ごくりと息を飲んだかと思うと、ハインツは反射的に岩山の方向へ駈け出そうとした。
「旦那様、僕は先に……」
しかしジェラルドの一喝が響き渡る。
「ハインツ、逃げるな‼」
その言葉が投げ縄のようにハインツの身体を縛りあげ、その脚を止める。アマリエもまた言葉を飲み込んだ。渓谷を挟む緊張感に、カミルが一人、頭上の母と、対岸の父とハインツの姿を何度も見比べている。
その沈黙を破ったのは、やはりジェラルドだった。アマリエに向き直り、先ほどよりはやや柔らかに言葉を発した。
「説明は追々しよう。とにかく、今はユッテだ」
そして岩山を指さす。手短に事態を説明し、上流で合流だともう一度告げると、一人、先に岩山へ馬首を向けた。走り出す際に立ち尽くしたままのハインツの背を軽く手で叩く。「行くぞ」という言葉に、ハインツは黙って従った。走り始めたその顔はまだ青い。
対岸のアマリエもしばらく口の中で言いたいことを咀嚼していたようだが、カミルが父とハインツを追いたいかのように手足をばたつかせるので、黙ったまま自分の馬も岩山へ向けて脚を進めさせた。
トクン、トクンと、ユッテが頬を寄せた毛並みの下で、命の鼓動が脈打っている。
白金色の大狼の首元に埋もれたまま、ユッテはその鼓動をじっと聞いていた。
柔らかな毛皮に、伝わる体温。周囲は風の音だけが響きわたる。
大狼は眠ってしまったのか、それとも――ユッテは分かっていなかったが――もうすぐそこまで来ている命の炎が完全に消えるその時をただ待っているのか、黙ったまま身動き一つしなくなった。それでも肌越しに伝わる、小さくなりつつあるとはいえ確かに律動を刻む鼓動の音だけが、ユッテの孤独から来る緊張と恐怖を和らげていた。
ユッテは時折うとうとと、夢と覚醒の狭間を漂った。
カミルやハインツ、母、父、姉の姿が浮かんでは消えていく。
見ている本人のユッテは気づかなかったが、夢は記憶をどんどんと遡っていった。ハインツに連れられ森に入った、かと思うとカミルと二人で城砦内の薬草園ではしゃいでいたり、姉に文字の書き順を教わったり。
ひとつ瞬きをした次の風景は、目線がひどく低かった。部屋の床を這い回っていたところを上から母に抱き上げられ、戻された先はゆりかごだった。隣には、真上を向いて寝息を立てている今よりさらに幼いカミルの姿があった。
視界はだんだんとぼやけていき、突然頭上が光り輝き、ごふっと何かを吐き出してユッテは泣きだした。
周囲から「産まれたわ」「あらあら元気のいい」「女の子です。姫君ですよ」「……もう一人いるわよ!」そんな声が聞こえる。
……記憶は、そして誕生時よりさらに過去を遡っていく。
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