第四章
1 母と子
アマリエの膝の上で、唐突にカミルは目覚めた。まだ宵のうち、雨は止み雲の切れ間からかすかに月の光が注ぎはじめた頃合だった。
静かな寝息を立てていたかと思うとひょいっと起きあがったカミルは、驚くアマリエの存在にも気づかず、しきりに辺りをきょろきょろと見渡した。寝起きとも思えぬほどに緑の眼を大きく見開いて。
「カミル? 起きたの?」
頭の上から呼びかけられ、はじめて母の膝で眠っていたことを思い出したかのようだ。「かあさま?」と確かめるように囁いてから、ぴょんと飛び跳ねるように膝から降りるとそのままいずこかに走り出そうとする。
「ま、待ちなさい、カミル!」
雨宿りにもぐっていた茂みの中から、慌ててアマリエも追って出る。すぐに襟の後ろを掴んでその足を止めたが、抱き上げてもカミルは地面から足が離れたこと気づかないのか、手足をしきりにばたつかせていた。
「もう、どうしたの? 寝ぼけてるの?」
「ユッテ!」
母の問いかけには応じず、カミルは双子の姉の名を大声で呼んだ。アマリエが真顔になる。
「ユッテ! ……じゃない、ハインツ! ハインツ! いた‼」
興奮して、母の胸をばしばしと手のひらで叩く。だがアマリエが痛みに顔をしかめると、はっとなってその手を引っ込めた。母はばつの悪そうな息子の表情を見て、ぽんぽんと背中を軽く叩いた。
「カミル、ユッテとハインツの夢を見たの?」
「ゆめ?」
カミルはやや首を傾げたが、しかしその首を激しく横に振った。
「ちがう、ちがうよ。ハインツ、いるの。あっち! あっち!」
指さす方向に、アマリエはカミルを抱いたままハインツが近くに戻ってきたのかと身構えた。が、眼をこらしても夜の冷えた風が流れ、群生している草木が揺れさざめくのみである。
アマリエが小声で「どこに?」と呟くと、カミルはうんと手を伸ばして北東の方向を指し示した。
「あっちにむかって、ずーっと走ってる」
「近くにいる……わけじゃないのね?」
「? うん。こっから、もっと、もっと先」
アマリエはそれでも不安げに、カミルが指さす方向を確かめようと背の低い木々の合間を抜けた。もとよりこの場所は森の中でも丘陵地帯になっていて、風景が開けるとかなり遠くの景色まで望めた。
あそこ、とカミルが指さしたのは月光に光る岩肌が目につく岩山の一帯だった。ここからさほど距離もないように見える。
「あそこに……」
「うん、あそこに、ユッテがいるの。おむかえに、いってるの」
何気ないカミルの一言にアマリエは慌ててカミルと向き直った。
「ユッテ? ユッテが? カミル、あなたどうして分かるの?」
「わかるよぉ」
母を驚かせた優越感に、カミルは浮かれた声を出した。屈託のない笑みを浮かべて言葉を続ける。
「あのね、さいしょ、のしのし歩いてたの。泣いてるって、迎えに行かなきゃって、あの山から飛びおりたのね。それを、ぼく、ずっと見てたの」
「……?」
「そしたら、ユッテがいたの。ユッテ連れて、あのお山に戻ったのよ。ぴょんぴょーんって。でもしばらくしたら、見えなくなっちゃって。あれ、どこいったのぉってずっと探したら、別の所で、あ、いたと思ったの。でもそれはハインツだったの!」
「ユッテを連れて……、それが見えなくなって? 探したら、ハインツだった?」
「うん、そう! ハインツ、いま走ってる! すごく速いんだよぉ」
紅潮した頬は赤く染まり、カミルの目は爛々と輝いている。
要するに、白狼であるハインツが魔女の力を持つユッテの位置を「糸をたどるように」探り当てているように、魔女のカミルが白狼の位置を察知しているのだが、白狼と魔女の因縁を詳しく知らぬアマリエには、カミルの話は到底理解できなかった。
だが今にも走って行きたそうに興奮し頬を赤く染めるカミルを見やって、アマリエは決心したかのように小さく頷いた。
「行きたい? カミル。ハインツと――ユッテの所に」
「行く! 行くぅ!」
力強い即答であった。
アマリエはそのまま雨宿りした茂みにとって返し、荷物を手早くまとめた。繋いで休ませていた馬の手綱を取り、鞍にまずカミルを乗せ、続いて自分が跨がり、雨にぬかるんだ山道を慎重に進み出す。
夜も更けたこの慣れぬ森をさらに幼子を連れて強行するのは危険かと思ったが、もとより手がかりの少ない捜索だ。さらには魔女だの、狼だのと、アマリエの豊富な知識でも想像できない事象にふりまわされての、この事態である。カミルが――自分の息子が、ユッテの位置を分かっているというのなら、それに信じてみるのもありだと思わされたのだ。
幸運にも一日降り続いた雨は日が暮れると同時に止み、今も薄雲に途切れ途切れに遮られながらも、月の光が森を優しく照らしている。
だが獣道の多くはぬかるんでいて、アマリエは慎重に手綱を捌いて馬の足を進めた。それに神経を集中し自然と無言になると、静けさを嫌がったカミルがしきりと口を動かしている。その多くはとりとめのない、繋がりもない独り言だったが、鞍に揺られながら、ふとカミルはアマリエの顔を見上げた。
「かあさま、ご病気は、なおったの?」
病気? 不思議な問いをされたと、アマリエがカミルの顔を見下ろした。
「ハインツが、かあさま、病気されたって言ってたよ。んとね、ぼくたちがうまれるまえだから、しらないでしょって」
「ああ……」
若い頃に、熱病にかかったことを言っているのか。アマリエはそれを悟ると、後ろから抱きかかえていたカミルの額に優しく手を当て、腰をかがめて唇をつけた。
「大丈夫よ。その時の病気ならもうとっくに治ったわ。あの時、父さまが薬を……」
話しながら、はっとなって言葉を止める。
その薬が今回の事態の全ての元凶だ。ジェラルドが魔女から薬を得る代償として己の命を賭けたつもりが――全て魔女の企みによって覆され、ユッテとカミルが魔女の力など継ぐに至ったのだ。その時の薬になんらかの魔術がかけられていたのだろう。病の治療のために飲んだ際、アマリエの身体にその魔術が宿った。そのため、その後に腹の中でユッテとカミルを育んだ時に、その力が二人に受け継がれたのだ、とアマリエは推測している。
まったく、ジェラルドが短慮にもおとぎ話の魔女など頼らなければ――。思い出した怒りにアマリエは苦い表情を浮かべる。が、ふと下からの視線に気づく。
「よかった!」
「……え?」
「よかった、かあさま、病気なおって、よかった!」
にこにこと微笑み、アマリエを見上げるカミルの声は明るかった。
「かあさま、病気なおらなかったら、ぼくとユッテ、うまれなかったって。よかった、うまれて。ぼくねぇ、うまれたかったの。ユッテも、一緒で、ほんとうに、よかったの」
無邪気な声に、アマリエの胸の奥が優しく、ぎゅっと掴まれる。
そうだ、自分の病が治らず、あの時に命が失われていたら、当然のことながら今の自分はこうして生きながらえていなかった。いや、自分はどうであってもいい。ユッテとカミルがこの世に生を受ける機会が永遠に失われていたということなのだ。生命力にあふれたこの二人の愛し子。その存在が最初から「無」であったかもしれぬなど、アマリエには到底考えられないことである。
医師も匙を投げた自分の熱病。高い熱に全身を焼かれ、意識も途切れがちになり、焼け付いた喉は水で潤す際にも激痛が走った。部屋の向こうから、泣きながら母を呼ぶ長女ローザの幼い声。走り寄って抱きしめてやりたい思いは、動けぬ身体をさらに鞭のように締め付けた。
まったく、ジェラルドが短慮にもおとぎ話の魔女など頼らなければ――この命は、失われていたのだ。自分だけではない、この二人の存在すらも。
いまさらながらはっきりとその事実に思い当たり、そして目を瞬かせるカミルの耳元に、静かに囁く。力の限り、カミルの身体をぎゅうと抱きしめながら。
「そうよ。かあさまの病気は、……とうさまが治してくれたのよ」
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