9 裏切り

 それからしばらく走り続け、さらに木々が茂る深い森の一角に逃げ込んだ時、さすがにジェラルドの馬が疲労で悲鳴を上げた。

 二人はどちらからともなく足を止め、ジェラルドは鞍を降りて徒歩で手綱を引きはじめた。ハインツが清水が湧く泉を近くに見つけると、生い茂る草木をかき分けて馬に水を飲ませ、馬の汗も丹念に拭いてやった。


 ハインツも馬と同様、泉の縁に四つん這いになり、顔を直接つけて水を飲んだ。人型に変化しているとは言えこの程度の全力疾走で疲れる白狼ではないが、ハインツの喉はひどく乾ききっていた。十分に飲み干すと、しばし水面を見つめたあとに、頭を首元までざぶんと泉の中に突っ込み、数秒後に勢いよく跳ね上げる。激しくブルブルと頭を振って白金色の髪から雫を飛ばすと、馬が迷惑そうに二、三歩横に退いた。

 ハインツはその場に仰向けにひっくりかえり、しばらくうつろな目で夜空を仰いだ。呼吸が落ち着くまでの間、ジェラルドは隣でそんなハインツをじっと眺めていた。


 聞こえてくる遠吠えは遠く、それも次第に小さくなっていった。


 だが、ジェラルドには分かっていた。自分たちが黒狼を撒いたのではなく、彼らが自主的に二人から身を引いていったことを。それまでの自分向けられた好戦的な殺意と比べ、やけにあっさりと下がっていった答えは、目の前のハインツが握っているのだろうことも。


 ジェラルドは馬をそのまま休ませると、倒れているハインツに歩み寄った。踏み分けた草花がぎゅっぎゅっと瑞々しく足音を装飾する。ハインツの頭の傍らに立ち真っ直ぐに見下ろすが、ハインツの視線は夜空の満天の星から動かなかった。


「顔が青いな」

「……こんなに走ったのは久しぶりで」

「嘘をつけ」

 棒読みの台詞をそう切り捨てると、ジェラルドは腰に巻いた小さな荷袋から手布を取り出し、ハインツの顔の上に放った。


 手布はふわりとハインツの顔を覆う。動かないハインツの顔と髪から、じわりと水分を吸って重くなり始める。湿った手布の下でハインツは顔を歪めていた。布の皺が寄る僅かな様子にそれを悟り、ジェラルドは静かに言葉の鉈を振り下ろした。


「あの狼どもは、お前にも襲いかかろうとしたぞ」

「ですね」

「仲間ではなかったのか」

「……同族です」

 ふん、とジェラルドは頷く。

「人と同じか。人間同士も、同族でありながら相争う時はある」


 ハインツが起きあがる様子がないので、ジェラルドもその場で一休みすることにした。泉の水で喉を潤し、水筒に補充する。汗ばんだ肌着を着替え、干し肉を取り出してかじりだした。食うか、とハインツに聞いても無言のままだった。


「おい、ところで今もユッテは無事なんだろうな。お前には分かるんだろう?」

 だがその名を出せば、ハインツは僅かに身じろいだ。手布で顔を隠したまま答える。

「……ええ。お静かにしてますけど、ずっと同じ場所にいますよ。ユッテ様にしては珍しくじっとしてる……眠ってるのかな?」

「大丈夫か? 怪我をして無いか。腹は減らしておらんか」

「さすがにそこまでは。でも、不思議な場所にいるな。どうやってあんな所までたどり着いたんだろう」

「どこだ」

 ハインツは手探りで空中を指し示す。その指先は北東に向けられた。夜の闇の中でも切り立った岩肌が月光に照らし出される、岩山の一帯だ。ジェラルドはその位置を目に焼き付け、胸元から地図も取り出し場所を見比べた。距離を測り、そこまでの地形を確かめる。それが済むと、荷を身につけ馬の手綱を手に取った。そしてハインツを振り返った。

「もう行くぞ、起きろ」

 横たわるハインツの腰をかるくつま先で小突き、当たり前のようにハインツを連れて行こうとするジェラルドに、ハインツは気だるげに身を起こしながらも無言でいると、ジェラルドはさりげなく言った。


「お前、ユッテを見つけたら一緒に城砦に来い」

「……はい?」


 真意を測りかねて、思わずハインツはジェラルドを睨みつけた。だがその程度の眼光でひるむ騎士団長ではなかった。

「お前を使わした魔女はもう死んだ。今更森に帰る理由もなかろう。白狼のお前が森の外に出たなら、魔女となったユッテとカミルが森に連れて行かれる理由もなくなる。こんな事態は俺としてももうこりごりなんでな。あの子らの安全のためなら、お前一人の居場所くらい作ってやる」

「今まで通りに、僕に城砦で暮らせと?」

 頷くジェラルドに、ハインツは眼を白黒させた。


「僕は狼ですよ? そりゃ今はこんな姿をしてるけど」

「ずっとその姿でいればいいだろう」

「無茶をおっしゃる」

「できんのか?」

「……できるもできないも、自分ではどうにもならないんで」

 ほう、とジェラルドは興味深げにハインツの全身を眺めた。

「まあ狼になったらなったで、別にかまわん。今更隠すこともない。俺も知ってる、アマリエも知ってる、ユッテとカミルはむしろ面白がりそうだし、あとはローザか。まああれも聡い子だ。言い聞かせれば理解するだろう」


 その他、ハインツを知る城砦の住人――じいやのホルガーや使用人達、騎士団の主立った名前を挙げながらぶつぶつと呟いていたジェラルドは、やがて問題が解決したというすっきりとした顔でもう一度ハインツに向き直った。思わず、ハインツは肩から力を落とした。

「旦那様は、昔からそうですね。どこか単純なところがおありだ。だからグリータにあんなにあっさり騙されるんですよ」

「アマリエにもそうなじられたな」

「ほら。――そう、そもそも無理ですよ。今回のこと、アマリエ様が僕をお許しになるはずはない」

 子を奪われた母の怒りを、ハインツは真正面から投げつけられた。その痛みはまだハインツの胸を切り裂いたままだ。しかしジェラルドは首を横に振る。

「アマリエは何よりユッテとカミルの安全を考えるだろう。お前を森に追い返しても、いつその不思議な繋がりとやらで二人を森に連れて行かれるかと怯えて暮らすよりも、お前を手元に置いて監視する方がいいとそう判断するだろうよ。それにあれも五年間、お前のことは可愛がっていた。情というものはそう簡単には消えん。そもそも、ことの発端は俺だ。俺が騙された結果だ。俺が責任を取ろう」


 わざとらしく、ジェラルドは大声で笑った。低音の、しかし暖かみのある声にハインツの胸の奥がざわつく。表情が暗くしぼんでいくのを自覚していると、笑いを収めたジェラルドが静かな声で尋ねた。


「それともお前は、あの黒狼のなかに、戻りたいか。――戻れるのか?」


 赤い目の憎悪を、ハインツは思い出す。人間に味方したと、裏切り者と言うかのように襲いかかってきた黒狼たち。問われて、迷う。そもそもが、黒狼の中にも居場所のない、白狼である。


 黙ったままのハインツに、ジェラルドはそれ以上の返答は急がせなかった。鞍に跨がり、馬首を北東方面へ向ける。立ち尽くすハインツを振り返り、顎で先を軽く示した。

「行くぞ。まあ、全てはユッテを見つけ出してからだ」

「……はい」

 そして二人は夜の森を再び走り出す。その行く先は雲の切れ目から差し込む月の光に、淡く照らし出されていた。




第四章に続く

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