8 問いかける瞳

 二人の周囲に、次第に黒い影が追いすがっていた。走る内に一匹、二匹、……数十匹とその気配は増えていった。漆黒の影。ひた走る足音。そして流線の残像を残す、不吉に光る赤い瞳。黒狼の群れだ。


 ハインツは素早く左右に視線を走らせた。ハインツとジェラルドに併走しつつも、彼らは距離を取ってすぐに襲いかかろうとはしていない。時折、赤い瞳がジェラルドではなくハインツ自身に向けられる。言葉ではなく、眼で訴えかけられる。


 ――何をしている。白き狼が、なにゆえ人と共にあるのか。


 ハインツはその黒狼の問いにも、ジェラルドにも、無言でただ走り続けた。

 訝しげな赤い視線に、内心では言いつくろう自分が居る。

――しょうがないだろ、ユッテ様がいなくなったんだ。探さないといけないんだ。ジェラルド様は、勝手についてきただけだ。

 しかし発さない声は、黒狼たちには無視された。


 遠吠えの声が聞こえた。遠くから重なり合って押し寄せる。その声一つごとに周囲の影の数が増えていく。どこまで増えるのか見当もつかぬ。ひときわ高い遠吠えを合図に、ついに黒狼たちの赤い目は二人の前方へも回り込みはじめた。


 ジェラルドの手綱捌きを無視して、馬の方がその恐怖に足を止めかける。その尻を蹴り上げながらジェラルドは腰から長剣を抜き放ち、脅しの意味を込めて黒狼たちに向け大きくなぎ払った。


 ジェラルドの気迫に狼たちは一瞬たじろぐ。だが先頭の数頭が口元の牙から涎を垂らしながらうなり声を上げ、一気にジェラルドに飛びかかった。


 ジェラルドの剣の平が、一匹の横っ面、そして二匹目の胴体を真横に投げ飛ばした。大柄な黒狼は群れの中に叩き込まれ、その衝撃で数匹を巻き込んで傍らの大木の幹に衝突した。返す剣で背後から飛びかかった一匹を真っ直ぐ地面に叩きつけると、キャイン、と声を上げてその一匹は動かなくなった。


 そう対峙しつつも、ジェラルドの馬の脚は先へ先へと伸びる。

 次々と飛びかかる黒狼たちを躱しつつ、なぎ払いながらも、数の上で不利なことは分かっていた。牽制しつつ逃げるしかない。ハインツもまた、止まることも離れることもできずに、同じ方向へ走り続けた。


 倒れた狼にハインツは一度だけ視線をやった。うずくまり動かなくなった一匹の後ろで、赤い瞳がハインツを睨みつけている。その牙が――今にも自分に向けられそうだ。


 ――僕は。

 走りながら、ハインツは奥歯を噛んだ。思わず顔を伏せて、脚の速度がやや落ちる。

 ――僕は、白き王。黒き彼らを、導き守る者……。


 頭に浮かんだその言葉を、しかし、鋭い言葉が遮った。

「ハインツ!」

 ジェラルドが、馬上から自分を睨みつけて怒鳴った。

 ハインツという、人としての名を。


 その瞬間、狼の一匹がジェラルドの馬の尻に体当たりした。ヒヒーンと悲痛な声を上げて馬は前脚を上げて立ち止まる。ジェラルドの姿勢が崩れ、背後から落馬しかける。その無防備な背に黒狼の牙が飛びかかる。

 その光景をハインツはじっと見つめていた。赤い血しぶきが飛び、ジェラルドの片腕をもぎ取る――そんな数秒先の幻想が、ハインツの脳裏で白く光った。


 気付いた時、ハインツは跳躍していた。


 ジェラルドの馬の尻に足をかけてさらに飛び上がると、ジェラルドの右肩に食らいつこうとしていた黒狼の鼻先を短剣で薙いだ。

 血しぶきが飛び、そのままハインツの足に蹴られて黒狼は地面に落ちる。なんとか馬ごと体勢を戻したジェラルドが再び前方に駈け出す。


 横目でハインツを見やりながら、ジェラルドはもう一度怒鳴った。

「ハインツ、森を出ろ! こんな場所ではどうにもできん」

 何を当たり前のように僕に命じているのだろう――思いつつ、ハインツは再び走り始め、己自身も当たり前のように、静かな声で答えた。

「このすぐ先が、少し開けてます」

 息を切らす様子もなく馬の脚についていく裸足のハインツは、左に、と一言だけジェラルドを誘った。


 ハインツは身体を傾け、ジェラルドも左手で手綱を引く。二人は前方を走りながら僅かに左に進路を変え、やがて木々の向こうに夜の空が広がった――瞬間、ハインツは前方に高く飛んだ。それを見たジェラルドも反射的に馬の上体を上げさせる。飛び出た先はジェラルドの背丈の二倍ほどもある急な下り斜面だった。


 降りるとそこは、半分は枯れ草、もう半分は炭化し朽ちた木々の幹や枝が広がる平野だった。古い山火事の跡地だろう。ハインツは軽々と着地したが、ジェラルドは内心肝を冷やしつつも馬の身体を平行に保ち、ようようその蹄を着地させる。ジェラルドが卓越した騎乗技術を持っていなければ、馬をそのまま骨折させていたかもしれぬ。

「――先に言え!」

 青ざめたジェラルドの叱責に、ハインツは「何をです?」と真顔でとぼけた。


 だが言い争いをする暇は無かった。彼らが飛び出た森の木々の合間から、次々と黒狼が飛び降りてくる。だが多少開けた場所に出られたことで、木々の障害がなくなり馬の脚をさらに早められた。追いすがる黒狼の姿もはっきりと視認できる。


 ガルル……。黒狼たちのうなりがやや低音に変調した。走りつつ横と後方に視線をやる。黒い影の赤い瞳がよりいっそう妖しげな光を増しているかのようだ。それはいつしかジェラルドに、というより、ハインツに対しても憎悪の棘を放っているかのように見えた。


 その瞬間、黒い影となった一匹が躍り出た。その爪と牙はジェラルドではなく、まっすぐハインツの背を狙っている。

「ハインツ!」

 ジェラルドの叫びと同時に、ハインツは前方に身体を伏せて一回転する。その一瞬後、下げた頭があった位置に、ジェラルドの剣が軌跡を描いて飛びかかった黒狼を弾き飛ばした。キュン、と小さな声を上げて黒狼の身体が後方に飛んでいく。再び地面を蹴ってハインツは立ち上がり、走り続けながらもその視線を黒狼たちに向けた。


 ハインツの瞳がギラリと光る。その気迫に、何頭かの黒狼が身構えた。目に見えぬ圧力の応酬が互いの間に繰り広げられ、しばしの沈黙を経て、やがて堰をきったように黒狼は群れごと二人に襲いかかった。


 ハインツは立ち止まろうとした。顔を紅潮させ、巨大な黒い城壁が彼らの上に崩落して襲いかかろうとするのを、真正面から受け止めようとする。その腕を掴んだのはジェラルドだ。

「何をしている、走れ!」

 そのままハインツの身体を持ち上げ乱暴に前方に投げ飛ばす。


 その瞬間、ハインツは目が覚めたかのように瞬きをし、着地と同時に地面を蹴って走り出した。


 ジェラルドはさらに馬の尻を蹴り、平地とは言え岩や倒木で荒れた地面によく馬を御しつつさらに速度を上げた。その脚に、よくハインツもついてくる。黒狼たちは何度か二人に追いつきその背後に飛びついたが、ジェラルドの剣に幾度となく撃退され、ハインツの指示の元、森と岩山を上りまた下る二人のもとからやがて一匹、二匹と姿を消していく。追いすがる気配は徐々に後方に退き、やがて二人の傍らから潮が引くように、全ての狼たちが姿を消していった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る