7 贄

 ふいに天を見上げたハインツに、ジェラルドは訝しげに馬上から声をかけた。


「どうした」

「いえ……」


 満天の星空はまばらな薄雲に遮られていた。なかでも厚い雲の中に月は出たり隠れたりとせわしなく森を照らしている。

 何か聞こえたような気がしたのだが。そんなあやふやな感覚と共に、ハインツは先ほどから多少の息苦しさと、動悸を感じていた。

 夏の終わりとはいえ森の夜は冷たい風を北から吹きつけてくる。だが、薄いシャツ一枚しか羽織っていないわりに、まったく寒さというものを感じない。むしろ発熱しているのではないかと思うほどに、肌はじわりと汗ばんでいる。


 ハインツはジェラルドの視線を後頭部に感じつつも、黙って再び目の前の茂みをかき分けた。そのまま無言で腰をかがめ、潜り込む。

 ジェラルドは何度目か分からぬ軽い舌打ちをして、馬の鞍から降り自分の手で同じように茂みをかき分け、その先の地面を確かめて、嫌そうに顔を背ける馬を宥めつつ、手綱を引いてともに茂みに潜り込んだ。抜けると、すでにハインツは前方の木々の間へ駈け出している。ブル、ブルと不本意に顔に掛かった枯れ葉をふるい落としている馬に飛び乗り、どうと脚を前に進めさせた。

 ここでハインツを見失っては、ユッテの手がかりは永遠に得られなくなる。

 ともすれば森の闇の中に消えていきそうなハインツの白金色の頭髪が、時折差し込む月の光に輝く。それだけが、彼らを導く灯火でもあった。


 ハインツはつねにジェラルドに先行したが、時折立ち止まり左右を見渡した。右、左。斜め前方、斜面の上下。ハインツが何を頼りにユッテを追っているのか、ジェラルドには理解できなかった。ハインツがやがて左前方に向きを変えて駈け出すと、たまたまその先が木々がまばらな平地だったこともあり、ジェラルドはハインツの横に馬を並べて問いかけた。


「ユッテの場所を、どうやって探している?」

 ハインツは答えない。だが、無視ではなくどう説明するか考えているふうでもあったので、ジェラルドは待った。少し走った後に止まり、傍らの倒木に飛び乗る。そして再び左右を見渡した。

「どうやって……って、どう言えばいいかな。あの、見えないと思うんですけど、こう、ここから」

 自分の胸の中央を、とんとんとハインツは指で突く。そしてその指を宙に向けて指す。

「すーっと糸のようなものがつながってて。その先に、ユッテ様がいます。途中で二股に分かれて、多分そっちの先にはカミル様がいる。そんな感じです」


 ジェラルドは首を傾げ、眉根をしかめた。

「それも、魔女だの狼だのの、不思議な力なのか」

「そうです。白い大狼と魔女は、繋がるんです」

「それが一番分からんな……」

「お互いに、そう望んだ結果なんです。考えても無駄ですよ。僕自身にだって、どういうことかなんて分からないんですから」

 ただ、薬草園から焼け出された乙女と、それを助けた白狼から始まる、狼と魔女の繋がりなのだ。そうハインツは言い、それ以上の説明の労を惜しんだ。


「それがだんだん、強くなってくる」

 再び走り始めながら、ハインツは呟いた。併走するジェラルドがその横顔を見やる。

「近い、ということか?」

「いや……。そうじゃない。距離はまだありそうです。そうじゃなくて……さっきまで縫い針に通すような細い糸だったのが、どんどん縄みたいに太くなっているというか。それをいうなら、繋がりを感じるようになったのは、ユッテ様を見失ったあの小さな道に戻ってきてからです。それまでは感じることがあっても、手を伸ばすとするっと逃げられるような、そんなもどかしいものだったのに。ユッテ様とカミル様から伸びる糸を、捕まえる僕の力の方が……強くなりつつあるってこと……? いや、そんな……」


「――ハインツ」

 徐々に小さな囁きになりつつあるハインツの独白に、苦いものを噛みつぶしたかのような表情のジェラルドが向き直った

「お前、相手がいるときにそういうあいまいなしゃべり方は止めろ。もっとはきはきと、要点を言え」

「……はい」

 ハインツは反射的に頷いた。思わずジェラルドの顔をじっと見つめてしまう。口を噤んだハインツに、ジェラルドがどうしたと問いかけた。

「昔から、よくそう怒られたなと思って。言葉遣いとか、姿勢とか」

「俺がか? 違うだろう、そういうのはアマリエの方がやかましかっただろうが」

「アマリエ様はもっと優しくおっしゃってくださいます。旦那様は突然後ろから怒鳴られたりするから……」

「なんだ、今更恨み言か」

「……いいえ」

 ハインツはわざとジェラルドから目を逸らした。走りつつ、無意識に俯いたハインツの脳裏に、城砦で暮らした五年間が蘇っていた。

「ちょっと、懐かしく思っただけです」

 もはや、帰ることのないその時を。


 黙ったハインツの傍らで、ジェラルドはしばし無言で馬を走らせていた。薄雲にかくれるおぼろ月が森の木々を冷たく、淡く、紺色に照らし出す。空気は清涼で、時折肌を刺すほどに冷たかった。冴え冴えとした風景は鋭い美しさで心に刺さるが、静寂は耳に痛く、息を吐く度に身体の内側から命の灯火がこぼれ行くような錯覚を覚える。


 ジェラルドは、静かに問うた。

「ユッテを見つけたあと、お前はどうする」

 ハインツの無言の応えは、同じ事を考えていたゆえだろう。ジェラルドは続けた。

「カミルはもう渡さん。ユッテもだ。それとも俺からまた奪い取り、森の奥に連れて行く気か。それを言いつけた魔女はもう死んだぞ」

「……だから、ユッテ様とカミル様が魔女になるんです」


 ジェラルドは苦々しげに首を横に振った。

「なにゆえ、お前らは『魔女』など欲する。あの子らに何の力が受け継がれたというのだ」

「魔女は……白き狼に捧げられる『贄』ですから」

「白き狼とは、おまえのことだな」

 ハインツは、ちいさく頷いた。そう時を経ずして、グリータの力がユッテたちに受け継がれたように、自分も白き大狼の力が宿るだろう。魔女との繋がりを感じる力が、徐々に強まっているのがその証拠だ。

 ジェラルドには理解できぬだろうと、ハインツは黙り込んだ。もう問答は面倒なだけだ。そう思ったが、次の問いが予想外にハインツの興味を引く。


「誰が差し出す、『贄』なのだ?」

「え?」

「魔女を、白狼の為に森に留め置こうとしているのは、誰の思惑だ、と聞いている」


 その静かな問いに、ハインツは押し黙った。思わず思考の闇に引きずり込まれてしまい、目の前に伸びた細枝に気づかず、危うく眼をつくところだった。すんでの所で避け、再び走りつつ考え込んだ。


 ――黒狼の群れで孤高な存在であった白狼と、同じ人間から排斥された乙女が出会い、互いの孤独を癒すために寄り添った。それが白狼と魔女の最初の因縁だ。時を経てその傍らが失われる時が来れば、残る者のために自分の力を代替わりさせ後継を残す。互い互いにそれを繰り返して、数百年間この関係を続けてきた。

 その定めに従って、グリータはいずれ白狼となる自分のために魔女の後継としてユッテとカミルに力を受け継がせた。しかしそのグリータは死んだ。グリータと対になっていた白き大狼もやがて寿命が尽きるであろう事を、今その後継である自分は感じ取っている。


 ……もう、続けなくともいいのではないか?

 ふと、胸の内にそんな疑問が浮かぶ。


 自分が必要としなければ、魔女などいらぬのだ。あの幼い二人を家族から引き離し、自分の元に留め置くことに何の意味があるのだろう。


「……手間もかかる子たちだし」

 漏れ出た言葉にジェラルドが横目で視線を向けた。苦笑を浮かべつつハインツは「なんでもありません」と呟いた。

 腹が減った、眠い、眠たくない、もっと遊びたいとわめきつつ、ハインツの左右にまとわりつくユッテとカミルの姿がありありと浮かぶ。


 まったく、グリータが生きているのならまだしも、考えてみれば、日々の食事も、季節に応じた衣服も、雨風をしのぐ住居も自分で用意できない幼子を連れてきて、結局ハインツが何から何まで面倒を見る羽目になるのではないか。

 気が強くて向こう見ずなユッテに、べそかきで臆病なカミル。わがままも言い放題なそんな双子達の保護者となるのは、冷静に考えて、ハインツに何の得があるというのだろう。


 だが、夜風が鋭い冷気を伴って駆けるハインツの肌を掠めていく度に、昨夜ずっと近くに感じていた二人の体温が、その温もりが心の内に蘇ってくる。

 寝てるときだけは愛らしいが――わざとそう毒づかねば落ち着かぬほどに、目を閉じれば自分を見上げる二人の満面の笑みが見え、耳をすませば「ハインツ、ハインツ」と甘えた風に呼ぶ二人の声が聞こえてくる。


 それらをすべて断ち切って、自分一人森に帰る。そう想像してみるやいなや、ハインツは足先から脳天まで走り抜けたおぞましい感触に、思わず全身を震わせた。

 先だって、アマリエに矢を向けられた瞬間を思い出す。城砦での五年の間、家族同様とはいかぬまでも、それに準ずるほどに慈しんでくれたアマリエ。その矢はハインツの胸を貫かなかったが、向けられた憎悪と殺意は、ハインツに耐えがたいほど恐怖の種を植え付けていた。


 ハインツの脚が、やや速度を落とす。無意識のうちに膝が曲がり、身体ごとうなだれる。ジェラルドが傍らから怪訝な視線をやった、その時、左右の木々の間で、空気が不穏にさざめいた。


「……囲まれたか」

 ジェラルドの独白めいた呟きを、ハインツは無言で聞いていた。

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