4 承継
その遠吠えに応じたのか、岩棚のはるか下方で、赤い瞳に光が宿る。
岩山の麓、森の闇の中に、赤き瞳が一つ、二つ、三つ、四つ、……十、二十、五十……と次々と瞬き、その不吉な赤い光が白き王を睨み上げる。
黒狼の大群は岩山を取り囲み、前脚に力を溜めて今まさに白金色の大狼のもとへ駈け上がらんとしていた。王に拝謁を願う従順な態度とはとても言えぬ、敵意と殺意がその瞳とうなり声には籠もっていた。
大狼は気づいていた。奴らの狙いは、魔女のユッテであることを。
岩棚の中の空気が白く輝く。白き王は立ち上がり、その身体を震わせた。そしてもう一度、今度は森の全ての木々を震わすような大きな遠吠えを響かせる。岩山の下の黒狼が、そろってたじろぎ数歩引き下がるほどの威厳に満ちた遠吠えであった。
岩棚の中央に前脚を踏みしめ、白金色の大狼は地上の黒狼を見下ろした。
天上と地上と、赤い瞳の光が交差する。
黒狼の押し殺したうめきは一匹、二匹と重なりはじめ、唸り声の共鳴はやがて彼ら自身を駆り立て、黒狼たちは岩壁に駈け上がりはじめる。
大狼は押し寄せるその黒い潮流に向かい、咆哮した。空気がびりと震えるほどの大喝であった。先頭の黒狼が数匹、その迫力に押されて壁面から滑り落ちてゆく。だが後から後から続く黒狼たちは、落ちゆく同胞をむしろ足がかりにして駆け上る。
一匹が、白金色の毛皮にまとわりついた。また一匹、二匹と大狼の胴に、脚に、牙を、爪を立てる。
ぶん、と大狼は大きく身を捩った。衝撃で空に弾き飛ばされるもの数匹、岩壁に叩きつけられキャンと短い悲鳴とともに動かなくなるもの数匹。さらに大狼は狭い岩棚で身を捩らせた。視界の端で、奥の岩壁に近づく一匹の黒狼を捕らえたからだ。
巨大な尾が岩壁を削り取る勢いで鋭く回転すると、間一髪ユッテのいる穴に近づこうとした黒狼をしたたかに打ち付けた。
ユッテは大狼の言いつけを実直に守り、空洞の中で大人しくしている。だが倒木で塞がれた向こうで響く大きな衝撃音や黒狼たちのうめき声は聞こえるらしく、弱々しい声で尋ねてきた。
「おおかみさぁん、すごい音してる。なにしてるの? ……こわい? こわいことしてる?」
「なんの、怖がることはない。風がうるさいだけよ」
黒狼たちとの過激な攻防を微塵も感じさせぬ、のどかな大狼の声。
「そのまま、しばらくじっとしておれよ。すぐに静かになるからの」
「うん……」
言いつつ、大狼は前脚で岩壁を攫い、えぐった砂利ごと、今まさに岩棚に前脚をかけた黒狼の一団を地上へとたたき落とした。ドンと地上から鈍い音が響いてくる。
黒狼たちの咆哮が響く。白金色の大狼は再び距離を置いてにらみ合う。
先ほどまで死の世界へ前脚をかけていたとは思えぬ大狼の姿であったが、その呼吸は次第に荒く、苦しげなものになっていく。赤い瞳は血走り、踏みしめた前脚はわずかに震えていた。反対に黒狼はどこから沸いて出ているのか、暗い森の奥から次々に現れ、岩壁のふもとを黒く埋め尽くしていく。無数の――数百にもなる赤い瞳の光が天に輝く月よりも不気味に光る。
一つの遠吠えを契機に、再び黒狼たちの猛攻が始まった。
漆黒の波濤が岩壁を飲み込んでいく。たどり着いた一匹、二匹、三匹……数匹が一斉に大狼に飛びつき、大狼は何度も前脚で、尾で、牙を剥いてその全てを跳ね飛ばす。背後の岩壁に近づきそうな数匹を見つけ、体当たりで地面に落とした。
攻防は続く、息を切らし、ふらつく前脚を叱咤しながらも、大狼は戦い続ける。だが、その白金に輝く毛に、次第に赤い染みが広がり出していた。
岩棚から下を見下ろし、大狼は吠えた。
「魔女には、触れさせぬ」
人語であったが、黒狼はその気迫に、物理的な圧力すら感じてじりっと一歩後退した。
「汝らの白き王は、魔女をそなたらに渡しはせぬ。もはや白き王も魔女も、黒狼のために生きるにあらず。孤独に縛られ互いを枷にするのはわれらで終わり。それが魔女グリータの願いであった。――森の奥に去ね! 黒狼たちよ!」
叫びは波打ち、空気を震わせた。
だが、その時。大狼の前脚が、ついに崩れた。
自らの体躯を支える力を失い、ぐらりと大狼の身体が横倒しになった。ズシン、と岩山自体が揺れ動く。物理的に突き上げる衝撃に身体が浮き、ユッテは穴の中で、蓋となる倒木に内側からすがりついた。
「おおかみ……さん? おおかみさん?」
倒れても尚、大狼はユッテを隠した穴をその身でふさいで隠そうとする。そして脚を上げ、体勢を立て直そうとした。
しかしそこに黒狼たちが襲いかかった。白金色の身体に爪を、牙を立てていく。振り払う力もない大狼の身体は黒狼たちに蹂躙され、身体の各所に血しぶきが上がる。
それでもなお、大狼はユッテが潜む穴を隠し続けようとした。黒狼たちに気づかれぬよう、この凄惨な攻防の結末を、その幼い目に見せぬよう――。
やがて小さく痙攣して、大狼はぐたりと脚を投げ出した。首をうなだれ、その赤い瞳が焦点をうしなう。口元から、だらりと大きな舌が垂れ下がった。
ユッテは穴の中で、倒木を押し戻そうと手を付き全身を突っ張らせた。何度も何度も「おおかみさん」と大狼を呼び続ける。しかし応えはない。それが何を意味するのか、幼いユッテには察することが出来なかった。
しだいに無数の軽い足音が不気味に聞こえてきた。湿り気のある息づかい、唸り声。ずずっと、大きな何かが引きずられる音。時折甲高い鳴き声がそれに混ざる。
どれだけ押してもびくとも動かない倒木が、やがて岩壁に擦りつけられるように揺れた。思わず身を引いたユッテはそのまま背後に尻餅をつく。小さな穴の内部にそれ以上後退できる奥行きはない。
最奥の岩壁に背中を擦り付ける。
倒木が左右に揺れ、時折隙間が空く。そこから小さな赤い光が覗いては消えるのを、ユッテは言葉もなく見つめていた。
風はより一層激しさを増し、漆黒の森の上空で渦巻いていた。風音が激しく岩棚に反響した。
渓流を遥かに見下ろす崖の縁を走りながら、ハインツの息は次第にあがっていった。
――苦しい。
そんな思いをハインツは生まれてこのかた味わったことがなかった。
脚は交互に前に進む。背後からのジェラルドの馬の蹄の音からして距離が詰まっていることもない。走る速度は落ちてはいないが、ハインツは息苦しさに口を開けて舌をだし、風景が霞む気がして目を細めた。
喉の奥が徐々に締まっていく。身体が重く、手足がじんと痺れていた。どくどくと鼓動が不規則に跳ね、胃の腑の中で形なきものが蠢いている、そんな不快感が蔓延していく。
ハインツは腹を押さえるように、走りながら身体を前に傾けた。さすがにジェラルドが怪訝な目でその姿を見やる。
「どうした」
ハインツは答えなかった。答えられなかった。口を開けば嘔吐してしまいそうだ。息を止めて、後ろを振り向かずに首だけを横に短く振った。
どくん、どくんと、胸の奥が膨張し弾けそうな恐怖に襲われる。
――来る。
何が、とは、考える余裕も無くなっていた。無理に言葉にせずとも、それが何かハインツは知っていた。
――白き王、の……。
視界が、世界が、白と黒に染まりつつある。
その時、ジェラルドが背後から緊迫した声で叫んだ。
「なんだあれは!」
俯いていた顔をかろうじて上げたハインツの目に、ずっと目標にしていた岩山は思いのほか近くにそびえ、岩壁のいびつな隆起がはっきりと見分けられるようになっていた。そのおうとつは月の光を乱反射させていたが、時折それを黒い影が掠めていく。黒い影は無数の赤い光を宿していた。
黒く赤い光は数百にも見えた。一斉に岩壁を駈け上がり、半数ほどは勢い足りず途中で地面に落下していくが、駈け上がる様を目で追うと、岩壁中央のやや広めな岩棚に吸い込まれていく。天の月が岩壁に正対し、強く光り輝かせた。岩棚の中に、白金色の光が見えた。しかし輝きは鈍く、僅かな月の角度の変化で再び暗き岩棚の中に消えていく。
どくん、と、ひときわ大きくハインツの胸が鳴った。
全身に雷が落ちたかのように激しくハインツは痙攣した。ジェラルドが背後で何かを叫んだがもはやハインツの耳には届かない。苦しさに、ハインツは前方によろけた。駆ける脚の勢いを殺すことが出来ず、両手を地面に着く。
――来る……、来た……!
そのまま前方に転がる最中、腹の臓物に灼熱感が走り抜けた。
――白き王の、全ての力……!
視界が一回転した。前転して着地した瞬間、ハインツは前脚で地面を搔き、後ろ脚で蹴り上げた。白金色の毛皮は破けた衣服を風に散らせた。
一瞬のうちに狼姿へと変化したハインツは、人であったときとは比較にならぬ速度で、突風のように、光そのもののように岩山に向けて駆けていった。
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