4 走り出す風
パチ……パチと、火がはぜている。僅かに鼻にまとわりつく焦げ臭い匂い。閉じたはずの瞼ごしに陽炎のような揺らめき。肌をひりりとさせる乾燥した熱気を感じて、ハインツは目を覚ました。
目の前で焚かれるたき火の炎の光が強すぎて、より周囲の闇が濃く感じる。
無意識に腕を動かし顔にかかった前髪をかき上げると、白く細い指に白金色の長髪が絡みつくことなくするりとほどけた。指先をぼんやりとした目で見つめて、ああ、また人に戻った、そう思った。
「起きたか」
だが近くからかけられたその低い声で跳ね起きる。反動で、身体の上にかぶせられていた大きな布がバサリと滑り落ちた。ハインツは自分が全裸だったことに気づいたが、後頭部に一瞬の激痛が走ったことのほうがその後の動きを封じた。
頭を押さえ、身もだえするようにその場に座り込むと、しばらくの沈黙の後に、はね除けた布地が背中にかけられた。
「……とりあえず、着ろ」
声と共に、布地の上にさらにばさりと何かを投げつけられた。ようよう顔を上げられたハインツがそれらを手に取ると、ありきたりなシャツとズボンだ。サイズが大きいのはもとの持ち主の体格ゆえだろう。
「旦那様」
ハインツはジェラルドを見上げたが、夜の闇に溶け込むようなジェラルドの表情は窺えなかった。ハインツもまた、以後は無言で服を身につけた。だが着ながら、ふと「……ああ」と言葉を漏らしてしまう。
「なんだ?」
「いえ、……なんで従っちゃったんだろう、そのまま逃げればよかったのに、と思いまして」
ハインツの囁きに、ジェラルドは僅かに鼻を鳴らす。嘲りとも、哀れみともつかぬ声を漏らした。
「確かにな。お前は昔から妙に素直というか、流されやすいところがある。魔女も言っていた。――お前は、言われた事の他をようせん仔だった、と」
魔女の名を出され、ハインツの琥珀色の瞳が一瞬赤く光りジェラルドを睨み上げる。人間の姿をしながらも、その口元に大きな牙があるかのような威嚇の表情を浮かべる。
「――グリータを、よくも……!」
が、ジェラルドは右手の剣でガッと地面を突いた。突いただけのその衝撃にハインツは思わず背を逸らす。
「勘違いするな。俺は魔女に何もしておらん。俺が見ている前で静かに息を引き取った。寿命と、自分で言っていたよ」
ジェラルドは背後を顎で示した。夜陰に紛れたその奥に、瓦礫が小さな小山を作っているのが見えた。雨は上がっていたものの厚い雲はいまだ天を覆い、月の光も星明かりも届かぬ森の中、ハインツは赤く目を光らせて、かつては魔女の小屋であったその瓦礫を食い入るように見つめた。
「グリータ」
ハインツは足を震わせながら、立ち上がる。一歩、二歩と、瓦礫に近づくが、やがてその足をゆっくりと止めた。ジェラルドが怪訝な目をしてその背に問いかけた。
「亡骸を掘り起こすか?」
「……いえ。掘り起こしても、また新たに埋めるだけですし。墓標なんて用意したって鼻で笑われそうです。そういう人でした、グリータは」
声は静かだが、ハインツの視線は瓦礫から離れない。立ち尽くしたまま、その目には在りし日のグリータの姿、その耳にはグリータの声が蘇っているのだろう。
ひゅうと軽い音を立てて、風がハインツとジェラルドの間を吹き抜けていった。
ジェラルドの足音がハインツの背後に近づく。ジェラルドの腕がハインツの襟首を掴んだ。
「では、こちらの話に戻るぞ。ハインツ――お前、ユッテとカミルはどうした。なぜ、今一人でいる」
掴んだ襟首ごと、ジェラルドはハインツを地面に引きずり倒した。ハインツは抵抗しなかった。まだ痛む後頭部を再度固い地面に叩きつけられ、一瞬意識を失いかけたのだ。
反射的に閉じた瞳をゆっくりと開けて、ぼやける視界にジェラルドを見上げた。ジェラルドの表情は静かで、だがそれ故に底知れぬ憤怒を内側に秘めている。
ジェラルドの細い目がさらに細められ、淡褐色の瞳の奥に炎が上がる。
「答えろ、ハインツ」
無言のハインツに、表情は変えぬものの業を煮やしたのか、ジェラルドは剣を今度は鞘から抜きハインツの頭の横に突き立てた。たき火の炎に照り返され、その刀身が鈍い光を一瞬放つ。ハインツは抑揚のない声で囁いた。
「そうだ……。行かないと」
「なんだと?」
「ユッテ様を……探しに」
ジェラルドの表情が僅かに変わるのと、ハインツがその隙を見て跳ね起きるのと同時だった。後方に一回転し、ジェラルドがとっさに剣を一薙ぎするのをすんでのところでかわすと、ハインツはたき火を飛び越えジェラルドに対峙した。
「途中、一人でどこかに行ってしまったんですよ。道でない道に勇んで飛び込んでね」
「貴様!」
「目を離した僕も悪かったですが、ユッテ様はなんでああ向こう見ずなところがあるのかな。……ああ、ちなみにカミル様はご無事です。きっと今はアマリエ様と一緒にいらっしゃいますよ。取り戻されちゃったんです」
妻の名が出たことに、ジェラルドの表情がまた変わる。
「だから、ちょっと失礼します」
ハインツはそのままやや天を見上げ、行くべき方向を探すかのように首を左右に傾げた。耳をそばだて風の音を聞き、目を閉じてその流れを読むかのように。が、しばしそうして沈黙した後に、その口からは落胆の溜息が漏れる。
「やっぱり、まだ駄目か。グリータ亡き今あの子たちが『魔女』のはずだけど。……まだ僕が『白狼』じゃないってことなんだろうな」
ハインツの独り言めいた言葉に、ジェラルドは苛立ったように口の端を歪めた。たき火の炎を挟んで、二人の視線が交錯する。それを先に逸らしたのはハインツの方だった。
「見失った地点に戻ります。そこから追いかけるしかないかと」
途中、アマリエに再度遭遇するかもしれない。今度こそ、胸を射貫かれるかもしれないが――。アマリエの激しい憎悪の表情を思い出してハインツは背筋に寒いものを感じたが、それは黙っていた。
じゃあ、と説明も無しに駈け出そうとするハインツを、ジェラルドは止めた。
「待て」
「なんです。さすがに急がないと、どんどん森の奥に入り込んでしまったら……」
「俺も行く。案内しろ」
言いつつ、ジェラルドは足で土を蹴りかけてたき火を消し、すでに荷も背負っていた。すぐそばの木に繋いでいた馬の手綱も手早く外していく。鞍に跨がったジェラルドをハインツは見上げた。
「いいですけど、ちゃんとした道があるところか分かりませんよ。ついてこられます?」
「お前こそ、まさかそのまま走る気か? 狼にはならんのか」
「あれは……自分でどうこうできるものじゃないんです」
ハインツはすでに足を踏み出していた。裸足にもかかわらず、人とも思えぬ脚力で地面を蹴ると、その身体はなかば宙を飛ぶようにして駆けていく。慌ててジェラルドが愛馬の尻を蹴り走り出すが、その脚でもハインツの走力に追いつくのがやっとだ。
走るハインツと、それを馬で追うジェラルドは、一路今度は森を南に向けて駆けていった。その二人の影を追いかけていくわけでもあるまいが、風が空たかくで流れていく。厚い雲を押し流し、やがて雲の切れ目から幕がかかったような薄い月明かりが差し込みはじめていた。
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