5 さまよいしユッテ

 不意に伸ばした手が細い枝に触れて、その枝葉が重く滴らせていた水滴がいっせいに水音を立てて地面に落ちた。

 その下にいたユッテは止んだはずの雨がまた急に降り出したのかと、慌ててその場から駆けだす。やがて誤解に気づいて立ち止まり、濡れそぼった外套のフードを、いらだたしげに頭から外した。濡れた前髪がうっとうしくて小さな手のひらでもみくちゃにするが、いっそう気持ち悪さが広がるだけだった。


 ホーホーとどこからかみみずくの鳴き声が聞こえる。ブブブ……と羽虫の集団もいるようだ。風がうごめいて、不規則に針葉樹林の葉をさざめかす。パキッという大きな音にビクリと肩をふるわせたが、それは自分の足が落ちていた細枝を踏み折った音だった。


 日が落ちて雨が止むと、森はとたんに生命を取り戻したかのように活気づいた。雨音だけの静寂の世界から野生の世界へと蘇った森は、夜の闇を内包しつつその奥底へとユッテを引きずり込もうとしているようだ。ユッテはほとんど黒く塗りつぶされた夜の闇の中を、文字通り手探りで奥へ奥へと進んでいた。


 斜面から一人転がり落ち、元のところに戻れると思い進んだ道がまるきり見当外れだったことに気づいた時には、もう元来た道も分からぬほど迷い込んだ後だった。


 なんどか引き返してはまた道を間違え、気づかぬままに先に進んでしまった。時は容赦なく夜の闇を連れてきて、雨は途中ひどく降って足を止めさせ、そしてやんだ今は外套越しにも濡れた身体に冷えた風が容赦なく吹き付けてくる。


 空腹も覚えた。喉も渇いた。途中、茂った大きな葉と葉の重なりにたまっていた水滴を飲んだが、喉をやや濡らすくらいの量しか口に含めなかった。

 小さな果実は幾つか目についたが、最初に摘んだ一つが一口で吐き出してしまうほどひどく酸っぱくて、それからは怖くて手を出すことも出来なくなった。


 ユッテの足取りは、重い。

 疲れて前に進むのもしんどいが、立ち止まってしまうのも怖い。

 先に見えるあの大木の向こうにハインツがいるのではないか、この斜面をよじ上ればカミルの声が聞こえるのではないか、そう思って足と腕を前に前に出していくが、その期待はつねに裏切られていた。


 ハインツの編んだサンダルは付着した泥のせいでひどく重く、雨に濡れた外套の匂いも気分が悪くなるほどだ。ユッテは汚れた手の甲で頬を拭った。父の言いつけをずっと無意識に守りつつづけていたが、そろそろ、限界が訪れていた。


 風が流れ、ふいにさあっと薄い光が夜の森を照らした。何か、と思って俯いていた顔を上げれば、闇がわずかに薄闇に変わっている。雲が切れ、月の光が差し込んだのだ。――が、それは返って、ユッテの背丈よりも茂る草木と、森の木々が永遠にこの先も続いていく様をユッテに見せつけただけであった。


 ユッテは、ついに、ひぃ……、と声を上げた。今まで耐え続けたものが、堰が切れたように喉の奥からせり上がってきた。

 ふえ、ふええ……という声にあわせて、緑の大きな瞳から涙が溢れ出す。立ち止まり、顔を上に上げて、ユッテは大きな声で泣き始めた。


「ハインツ……、カミルぅ、どこ……? ユッテ、今どこにいるのぉ……?」


 どうして、いないの、ハインツ、カミル、みんな、どこ。

 渇いた喉が焼け付くほどに、ユッテは声を絞り出す。しゃっくりが喉に詰まって咳き込む。肩をふるわせ、目尻と頬と唇を真っ赤に腫らせて、ユッテは大声で名を呼びつつける。


 ハインツ、カミル。そして――。


「……かあさまぁ……、ユッテ、帰る、……もう、お、おうちに帰る。……かあさまぁあ」


 だがその応えは、どこからも返ってこない。くぐもった泣き声はそのまま森の闇に吸い込まれ、消えていく。

 ユッテの泣き声は次第に高く、悲痛なものに変わっていった。合間につぐぜえぜえとした呼吸が、この小さな身体に似つかわしくないほどに苦しげだ。


 ユッテはやりきれない感情を制御できずに、手を振り回した。だが疲労した足腰はその振動に耐えきれず、そのままユッテは尻餅をついた。座り込んだまま、手に触れた草を乱暴にむしり投げ捨て、それでもユッテは泣き続けた。

「あああ……! ああ……!」

 ひときわ高い声で叫ぶ。森のざわめきがその声に共鳴し、ザザッと音を立てた。


 その時であった。


 涙に濡れた目では気づかなかったが、ユッテの周囲から月の光が消えた。大きな影が背後からユッテの身体を包み込む。その影の中央で、ふいにユッテは身体がふわりと浮いた感触を覚えた。


 驚いて目を見開くと、風景がぐるんぐるんと揺れている。いや、揺れているのは地面から浮いた自分の身体だ。

 首を掴まれて、つるし上げられている? 思わぬ事に声も出ないユッテはなんとか事態をそう想像したが、やがてぽんっと身体がさらに浮いた。浮遊感と共に、急速に落下をはじめる恐怖。手足をばたつかせるしかできないユッテは、ぼすんとそのまま柔らかな地面に落ちた。


 否。それは雨に濡れた泥だらけの地面ではない。ふさふさな毛並みが柔らかな、毛皮の上だ。手を付いたその下からじわりと温もりを感じる。毛並みは月の光を反射して、白金色に輝いていた。


「……な、に?」

 ユッテは呆然としたまま、周囲を見渡した。自分が座り込んでいる所だけではない。右にも、左にも、前後にもその毛並みが広がっている。とたん、その毛皮がうねるように波打った。とっさにユッテは飛び上がる。だがうねりは止まらず、ユッテの小さな身体は前のめりになり、そのまま前方にころころと転がった。

 三回転ほどした後に再び宙に放り出される。ひ、と小さな悲鳴を上げて目を閉じると、また奇妙な浮遊感を覚えた。地面に落ちる前に一度空中で止まると、そのままゆっくりと下に下ろされた。今度は地面の上だった。


 起こったことが中々理解できず、ユッテは瞑っていた目を再び開けた。すると目の前には、巨大な獣の顔があった。大きな――ユッテの頭くらいあろうかという大きな赤い瞳で、じっとユッテの顔を覗き込んでいる。


「お……」

 知っている限りの知識を総動員して、ユッテはその顔を持つ獣の名を呟いた。

「お、おおかみ?」

「ほう、われが分かるか。ちいさな魔女よ」

「……しゃべった!」


 白金色の大狼は、尖った口元を開けて笑った。そのままユッテを一口で飲み込んでしまいそうな大きな口、そして光る牙に思わずユッテが見とれると、大狼は器用にユッテを外套ごと咥えて、もう一度ほいっとその背に小さな身体を投げ上げたのだった。

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