3 父と母

 間一髪、ジェラルドは脇の地面に転がりながら身を立て直した。顔を上げると、全てが瓦礫と化した、かつて小屋であった残骸の山の上に、巨大な白狼が立ちジェラルドを見下ろしている。


「……ハインツ、か?」

 聞きつつ、ジェラルドはいつでも駆け出せるよう膝を立て、剣を握り直す。白狼は牙をむき出しにし、低いうなり声を上げてジェラルドを見据えている。その赤みがかった琥珀色の目には憤怒が光っている。

「……グリータに手をかけたな……!」

 狼の口から発せられる人の言葉。人間とは異なる喉のつくりのせいか、地を這うような重低音の響きである。白い前脚が、空を蹴った。


 飛びかかる白狼をジェラルドは剣の鞘で再度なぎ払う。ジェラルドの剣捌きに白狼の身体は真横に飛んだが、空中で体勢を立て直し、着地と同時に再びジェラルドの喉をめがけ飛びかかった。

 血しぶきが僅かに散った。が、引き裂かれたのはジェラルドの左腕の、それも袖の布地とその下の僅かな皮膚だけだ。すんでで躱したジェラルドは白狼の背後に回ると、すれ違い様にその後頭部に剣の柄を振り下ろした。


 ガッ……! と骨の鈍い音が響き、白狼はそのまま地面に叩きつけられた。

 体勢をくずし転倒したジェラルドが立ち上がる。気づくと、横たわっているのは白金色の狼ではなく一人の人間の少年だった。

 先ほどは狼の姿であったはずなのに。この瞬間に、人の姿にまた変化したのか。


 全裸のハインツの肌には先ほどの崩落に巻き込まれた際だろう、無数の擦り傷が血が滲ませていた。迷いつつも、ジェラルドは倒れたまま動かないハインツに、ゆっくりと歩み寄った。






 斜面から転がり落ちたカミルをようよう捕まえた後、気づけばハインツの姿はもうどこにもなかった。

 だがアマリエにそんなことを気にする余裕はない。腕の中に抱き留めたカミルはみすぼらしい外套を羽織り、全身が泥と雨に汚れていたが、「かあさま」と見上げる顔はあどけなく、きゃっきゃと腕や足を動かしてはしゃいでいる。衰弱していたり、怪我の一つもないことにアマリエは心底安堵した。


 だが、ふと我に返ったようにカミルは周囲を見渡し、アマリエの足にすがりつつも、しきりに右を、左を見やっている。そしてふいに顔を歪めた。

「ユッテは? ハインツは、どこぉ?」

 もう一人の愛児の名を聞いて、もう一度アマリエはカミルを抱き上げる。

「そう、ユッテは? ユッテはどこ? 一緒だった?」

「……ユッテ、いなくなったのお」

 声を絞り出すように、カミルは泣き出した。

「ユッテも、ハインツも、ぼくを置いて、……どっか行っちゃった……」


 泣き続けるカミルを抱き上げたまま、アマリエはユッテと二人で昼寝をしていたという茂みに向かった。

 カミルが転がり落ちた斜面はとても登れなかったが、少し周囲を探る内に、上りの細い山道を見つけたのだ。ようよう馬で上ることの出来た細いその獣道を抜けると開けた窪地に出た。


 カミルの言う茂みは、幾つかの草木をかき分けたところで、茂みの端に水や食料の入った革袋が幾つか取り残されている。中に入ると、カミルは「ここ」と言ってしゃがみこみ地面を叩いた。

「ここで、ユッテとねてたの。でも起きたらだれもいなくて……」

「そう。それは怖かったわね。大丈夫よ、母さまはいるから」

 思い出したようにまた泣き始めるカミルを、アマリエはもう一度しっかりと抱きしめた。

「みんなどこ行ったの? ぼくがねてたから? なんでおいて行っちゃうの……いっしょに行くのにぃ」

 カミルの慟哭は止まらない。あふれた涙は顔を押しつけているアマリエの胸元を濡らした。その背をずっとさすっていたアマリエは、小さな声でカミルに尋ねた。

「……ハインツとも、一緒に行きたかったの?」

 だがそう問われた意味も解さず、カミルは声を荒げた。

「行くのぉ。ぼくも行くの! なんでユッテとだけ行っちゃうの……⁉」

「……どこに、行こうとしてたの?」

「ハ、ハ」

 泣きすぎた興奮で息を荒げながら、カミルは泣きはらした顔で答えた。

「ハインツの、お、おかあさんのとこ」


 ハインツのお母さん――。それは、やはり魔女グリータのことだろうか。

 涙が止まらなくなったカミルの背を撫でながら、アマリエは考える。


 ハインツと対峙したあの時。ハインツは一人だった。周囲にユッテの姿は無かったが、見えぬだけで近くにはいたのだろうか。姿を消したハインツは自分に見つかったことでカミルはあきらめ、ユッテ一人を連れていったのか。

 思い出せ、と自分に命じる。斜面を下っていたハインツを見つけた時、ハインツは何かを叫んでいた。……ハインツは「ユッテ様」と叫んでいた。

 アマリエは気づかなかったが、ハインツのその視線の先にユッテの姿があったのだろう。そして自分が斜面の上のカミルに気を取られた隙に、ユッテを連れてさらに逃げた――。


 アマリエは悔しさに奥歯を噛んだ。もう少しだけ手を伸ばせば掴めたかもしれない娘を逃した悔恨が押し寄せる。だが、今更悔やんでも仕方がない。

 泣きじゃくるカミルをそっと胸から離して、涙で濡れたカミルの大きな緑の瞳を、精一杯の微笑みでアマリエは覗き込んだ。


「じゃあ、母さまといっしょにユッテたちを追いかけましょうか。大丈夫よ、すぐに追いつくわ」

「……ほんと⁉」

「本当よ。……実はね、ハインツのお母さんのおうちも知ってるの。馬で行けばすぐよ」

「そうなの? やった! いく、いく! 母さまといく!」

 頬を濡らしたまま、一転破顔したカミルに、アマリエは手布を出してその頬を拭ってやった。


 だが森はそろそろ日暮れを迎えようとしていた。アマリエとカミルは互いに異なる種類ながら気持ちを先へ先へと逸らせていたが、日没後のさらなる険しい山道にカミルを連れて踏み込むことには、さすがにアマリエは迷った。


 ひとまず、茂みの中の柔らかい腐葉土と枯れ葉の上にカミルを座らせ、泥に汚れ雨に濡れた衣服を替えさせる。小さな足からもサンダルを脱がせた。足首から指先まで巻かれていた布地は青緑に染まっていて、カミルに聞けば無数に出来た擦り傷や切り傷の治療のために薬草を中に当てているのだという。

 確認をしたくて、アマリエはその布も丁寧に剥いでいった。布は泥に汚れていたが何重にも巻かれていたせいか中は清潔なままで、全てを取り去りむき出しにした足首から下の肌は、一晩裸足で歩き回ったというわりには傷跡は薄く、化膿の気配もない。

 貼ってあった薬草のお陰だ。その薬草の汁は傷の消毒などに有用なことをアマリエも知っていた。

「ハインツがね、塗ってくれたのよ」

 カミルは薬草の汁のせいで青緑にそまった足を持ち上げて、顔に近づけくんくんと嗅ぐ。「くさぁあい」と青臭さに顔をしかめたが、そう言いつつも匂いは気に入っているようで何度も何度も足を顔につけ鼻を鳴らしている。


 無言になったアマリエには気づかず、カミルはふああと大きな口を開けて欠伸をひとつした。

 喉が渇いたと、カミルは茂みの端に置いておいたハインツの残した革の水袋を当たり前のように手に取る。アマリエが慌てて自分の水筒と交換させ取り上げたが、カミルは不思議そうに眼を丸くした。

「飲んじゃだめ?」

「……だめじゃないけど、母さまの水筒の方を飲みなさい」

 首を傾げつつもアマリエの水筒に口をつけるカミルを横目に、アマリエは革袋の中を上から覗き込んだ。なんの変哲もない、革の匂いが移っているが、それ以外は普通に綺麗な水だ。アマリエはさらに近くに放置してあった幾つかの革袋も手に取り、中を確かめる。木の実、干し肉、干果。それから腹下しや熱冷ましに効く薬草類。


 アマリエはひとまず自分の荷の中から、固く焼き上げた日持ちのするパンを取り出し、水に浸して柔らかくしてからカミルに与えた。カミルは無心でそれを頬張っている。だが聞いてみると、それほど空腹でもなかったらしい。

「ごはんはね、おかゆとか、お肉やいたの食べた」

「……ハインツが、用意してくれたの?」

「うん、三人でいっしょに食べたの」


 濡れた外套と服を脱がされ、清潔な布地で全身を拭かれ、アマリエが城砦から持ってきていたカミル自身の衣服に着替えさせられると、久しぶりの母の体温と手のひらの感触に気持ちが甘えだしたのだろう。カミルは横に座るアマリエにすがりついて、その目は眠そうに半分ほど瞼が落ちている。

 アマリエはそんなカミルの頭を膝に乗せると、手のひらで顔を撫で、目元を塞いでやった。

「少し眠りなさい。目が覚めたら一緒に、ユッテ……たちを探しに行きましょう」

 返答する間もないまま、カミルはそのまま母に包まれるようにしてすうと眠りの世界に入ってしまった。


 そんなカミルの頭をゆっくりと手で撫でながら、もう暮れつつある岩山、そして広がる森の風景を、アマリエは焦燥感とともに黙って見やっていた。

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