2 失いしもの
霧雨なのか、それとも湿気を含んだ空気が頬を濡らすのか、ハインツには分からなかった。
木々が生い茂る森林地帯を白金色の光となって真っ直ぐに、ハインツは駆けている。むき出しの岩肌の山道を下り、草木の群生を幾つも抜けて、風景は馴染んだ針葉樹林の森の濃い緑に包まれていた。
この道はよく知っている。まだ己が毛も生えそろわぬ仔狼だった時代、魔女グリータに連れられ植物の採集や狩りに何度も往復したところだ。
どこをどう走ったか記憶にないというのに、気づけば帰るべき場所に足を向けていた。帰巣本能というのが、これなのだろうか。
ハインツは狼の脚で風のごとく駆けた。雨のせいで鼻が効かぬ。あの山道から、見知らぬ茂みに入っていったユッテを追いかけていたはずなのに、姿を見失ったと同時に自らも行くべき場所を見失ってしまったようだ。
草木の群生を突っ切ったのだろう、ユッテの足跡も途中で消えていた。
一人になった心細さに座り込んで泣き出してくれればまだいいものを、生来負けん気の強いユッテはなにごとにおいても一人でこなそうという妙な気概と、逞しさがある。
だが、四歳の子どもが一人で一晩すごせるような甘さは、この森にはない。
カミルは、おそらくあのままアマリエが保護しただろう。緑眼の一人を奪い返されたことはグリータの言いつけには背くだろうが、それで、良かったのだ。
グリータの元には、ユッテを見つけて連れて行こう。
グリータは一人だった。魔女は、一人でいいはずだ。
だがそのユッテの姿が、どこにもない。
――あそこでアマリエ様が現れなければ。
ふとそう思うと、自然と走る脚の速度が弱まった。前脚を蹴る力が失せていき、気持ちは前に逸るが、気づけば立ち止まって濡れた地面に鼻を押しつけている。喉の奥が苦しい、声を出せば、情けない鳴き声をあげてしまいそうだ。
目を閉じる。浮かぶのは、矢尻を自分に向けた、アマリエの姿。ハインツには衝撃だった。
女性ながら乗馬が得意なこと、弓をよくすることは知っていた。城砦の女主人として貴婦人然とした気品と、学者としての理知的さの他に、アマリエは城館の裏庭に造園した薬草園で、使用人たちが止めるのも気にせず子ども達と駆け回るときもあれば、ジェラルドと共に森に出て狩りを楽しむような活発な面もあわせ持っていた。
だが、ハインツに矢を向けたあの時の――鬼気迫る、はっきりとした憤怒。冷たい仮面のような鋭い瞳に睨みつけられ、ハインツは言葉を失った。
当然だ、と思う。自分はあの人の子どもを攫っていったのだ。地の果てまで追いかけ、奪い返す。そのためならハインツの胸を射貫くことにもためらいはない。それが当然の、母親としての姿だろう。
――分かっているが。
ハインツはやるせなさに、何度も固い地面に鼻先を擦りつけた。
城砦で暮らし始めてまだ間もない頃、話し言葉をようよう覚えはじめたハインツに、さらに文字、計算、外国語まで教えてくれたのはアマリエだった。
ハインツが最初に文字を見たのは、アマリエの書斎だ。下働きとして城砦内で立ち回っていたとき、書斎の整理の手伝いに呼ばれ、虫干しのため本棚の本を庭に広げるよう言いつかった。
まだ幼いローザが辺りを走り回り、広げられた本のページを片っ端から読み上げていく。それを聞いてハインツは文字というものが言葉の記号であることを知った。
はじめて見る文字の不思議な形に作業も忘れて食い入るように見入っていたら、アマリエがそんな自分を上から覗き込むように眺めていた。手を止めていたことを怒られる――と思い立ち上がると、アマリエは優しくハインツに問いかけたのだ。
『本に興味があるの?』
戸惑いつつも頷くと、アマリエはその日からローザの勉強机の隣にハインツを座らせ、実子であるローザと分け隔てることなく教育を受けさせてくれたのだった。
……そんな風景を、あの城砦に置いてきた。
ハインツは、ぐうと一声唸って、頭をさらに地面に一度押しつけた。
萎えた脚を奮い立たせ、土で汚れた顔を再び上げる。一、二度首を振り、毛から土をふるい落とすと、再び大地を蹴ってハインツは走り始めた。己の脚力の限界を越えようと、脚を盛んに動かす。息も切れる。だが構わなかった。胸が苦しさに膨張しつつあったが、その辛さに意識がもうろうとしてくるととたんに共鳴のようなものを感じはじめる。
自分を呼ぶ声。昔、グリータの呼びかけをそう感じた。自分は、「魔女」とどこかで繋がっている。この毛並みが示すとおり、ハインツは魔女の対となる「白狼」なのだから。
――グリータ。
息苦しさにあえぎつつも、ハインツは心の内で自分を育てた魔女を呼んだ。
――グリータ、何なんだよ。なんでこんなに……僕を苦しめるの。
思い起こすのは、皺だらけ、染みだらけの老いた顔。年月を重ねる内に裂けてしまったのかと思わせるような、頬に食い込む薄い唇。だがその唇が奏でる小さな歌声を聞きながら、細く薄い手のひらに撫でられ眠った。ハインツはその温もりが、無性に恋しく泣きそうになった。
木々の間をすり抜け、突き出た岩を跳びはね、ハインツは夜のしじまが広がりはじめた森を、北へ、北へと駆けていったのだった。
ガタン、と板塀がさらに崩れる音に、ジェラルドは顔を上げた。
目の前の藁の褥が入り込んできた風に、かさ、と乾いた音を立てる。ガタガタ、と続く乱暴な音に自然な崩落とは違うと感じ、ジェラルドは腐りかけた戸棚の脇に身を潜め、腰の剣の柄に手をやった。
暗がりの向こうから、足音。ヒタ、ヒタ。人の足の裏ではない。小屋に入り込んできたのは、雨雲に覆われた闇夜にも光る、濡れそぼった白金色の毛皮。
見間違いようもない、双子を連れ城砦の城壁を乗り越えていった狼の姿だった。
「……ハインツ!」
「……グリータ!」
人と獣と、発声は同時だった。
跳躍した狼と長剣を鞘ごとなぎ払ったジェラルドの衝突は、周囲に火花が飛んだがごとく、二人をそのまま弾き飛ばす。その衝撃が、さらに小屋の崩落を誘った。ジェラルドは崩れた壁を蹴り壊して外に飛び出たが、狼の姿のハインツは、目に映ったそれに動きと呼吸を止めていた。
乱雑に敷かれた藁の上に横たわる、干からびたような老婆の姿――。
「グリータ!」
狼の喉からくぐもった絶叫が発せられた。その声が引き金となって、小屋の屋根板が上に積もった苔と泥とともに土煙を立て崩れ落ちた。
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