第三章

1 消えゆくもの

 この枯れ葉を踏みしめる感触には覚えがある。ジェラルドは長靴の踵を踏みしめるように、雨に濡れた枯れ葉の野を真っ直ぐに進んでいた。


 一つ、二つの岩山を越えても尚広がるウルムヴァルドの広大な森林地帯。

 その一角、うっそうと茂る針葉樹林の森の中の窪地である。


 一昼夜疾走させ疲れ切った馬は近くの木に繋いだ。降りしきる霧雨で視界は僅かにぼやけているが、目の前には見覚えのある、木の板を重ね合わせた質素な小屋があった。

 いや、八年前に訪れたときより板塀は一部が崩れ、一部は腐りかけている。雨の音と自分の足音しか聞こえぬ色彩を失った風景のなか、その小屋の内側に命ある者の気配は感じられない。


 ――もう、いないか。


 過去の記憶を頼りに北へ北へと馬を走らせたどり着いた、森の魔女の小屋。拉致された幼い双子の手がかりを求めて真っ直ぐに飛んできたものの、もしや見当違いであったか。そんな焦燥に、いや、とジェラルドはかぶりを振った。


 夜が明ける前に受けた黒狼たちの襲撃。同行していた妻アマリエを逃がし、自身も十数匹を叩きのめしてからきりがないと振り切るようにして駆けた。

 しかしその後も、この魔女の小屋へ馬を走らせる間中、黒狼たちは森の脇道で、岩肌がむき出しになった沢で、細い山道で、執拗にジェラルドを取り囲み、その進路を阻もうとした。


 ということは、少なくともこの小屋に、なにかしらジェラルドを近づけたくない存在があるということだ。

 それがユッテとカミル、そして彼らを己の目の前から連れ去った、魔女の使いというハインツに関するものなのかどうかは、今、自分の目で確かめればいい。


 ジェラルドは手をかけるだけで今にも崩れおちそうな木製の薄い扉を、力任せに押し開けた。

 その衝撃で、扉近くの板壁が酷く揺れて、屋根の一部が崩落する。その残骸が落ちるのを片足を上げて避けたジェラルドは、小屋の奥の灯りもない真っ暗な一角から、僅かな身じろぎの気配を察知した。


「――いるのか」

 返事は、ない。ジェラルドは更に一歩踏み込んだ。

「魔女。いないのか」

 右手は腰の剣の柄にかけ、いつでも抜けるように。


 ジェラルドの足音が、ギシ、と響く。一歩、二歩と、警戒しつつ進む。

 部屋のあちこちに置かれた戸棚や木樽はすでにそれ自体が腐り、中に置かれた植物らしきものは埃とカビに包まれ、動物の骨や剥製はすでに一部が液体と化し原型を留めていない。それら全てがきつい異臭を放っていて、漂う空気そのものが濁っている。

 天井から吊された、破れた布地を慎重に横に払う。するとようやくその奥から、掠れた声が聞こえてきた。


「……ずかずかと、厚かましい。昔は入るのにも躊躇しておったものが」


 低く、喉に痰が絡んだような濁った声だ。だがその声量は外の霧雨の音にもかき消されそうなほど、か細い。

 ジェラルドは無言のまま、声の元に足を向けた。

 小屋の壁際で藁の褥の上に薄い毛皮をかぶって、魔女は横たわっていた。記憶にある八年前の魔女の面影は、もうない。肌は干からび、目鼻も落ちくぼんでいる。魔女は大きく息を吸い、吐いた。そのたびに胸が上下し、ぜえごぜえごと耳障りな音がする。そんな様子を、ジェラルドはしばらく黙ったまま見下ろしていた。


 次に口を開いたのは、魔女の方だった。

「なにか用なら、早く言うがいい。見て分かろう、儂が次の息を吸えるか、わからんぞ」

「病にでもかかったか」

「……寿命は誰しも訪れる。百も生きれば、そりゃあ、身体ももうもたんて」

 小さな瞼を震わせて、魔女は目を開いた。緑の瞳はその色素をほぼ失い、白く濁っていた。その目を、ジェラルドは冷たく一瞥した。

「ユッテとカミルは、どこだ」

 魔女の瞬きは、長かった。そのまま瞼が二度と開かぬか、と思うほどに。

「はぁて……」

「とぼけるな。ハインツに命じて連れ去ったろう」

 その名は知らぬ、と魔女は薄く笑った。

「白チビのことか。知らん、まだ帰らん」

「ここに来るのか」

「来るじゃろ。昔から、言われた事の他をようせん仔じゃった」

 ほほ、と魔女は小さく笑う。ジェラルドはその表情に、隠せぬ苛立ちをぶつけるように睨みつけた。


「……ハインツはユッテたちのことを、魔女の力を継ぐ者、と言った。どういう意味だ」

「そりゃ、それ以上の意味はありはせん。儂の力を、その子に継がせたのよ。はて。……たち、とは?」

「ユッテと、カミル。二人だ。ハインツは二人を連れて行った」

「ほほお」

 興味深げに、魔女は相づちをうつ。ジェラルドはさらに眉をしかめた。

「もしや、双子か。緑の瞳はどちらが持った」

「両方とも、同じ緑眼だ」

「ほほう、ほほう」

 声を出しすぎて、思わず魔女はむせた。しかし咳き込む間も、楽しげに低い声をあげて笑っている。

「そりゃあ、聞かぬ話だ。――何か変わる兆しかも、のう」


 胸の奥から泡立つような湿った咳。それがおさまると、ひい、ひいと苦しげに魔女はうめいた。涎を垂らし、しかしさきほどより大きく目を見開く。薄い唇の端があがり、震えるような呼吸はやがて静かに、細くなっていく。

 ジェラルドはそんな様子を立ち尽くしたままじっと見下ろしていたが、老いさらばえ、すでに命の炎が消えかけた魔女に対し気勢はすでに削がれていた。藁の褥の横に腰を下ろす。


「……なにゆえ、妙な術をかけた」

「なんのこと……」

「アマリエにと求めた薬に、何かのまじないをかけたのだろう」

「まじないとは、失礼な。女房の命を救ってくれというから、そうしてやったまでよ。そもそも、そんな薬など儂は知らん。薬の調合など、簡単な熱冷ましぐらいしかしたことないわ」

 ジェラルドの眉が動いた。

「しかし昔語りでは」

「三百年も前の乙女が、まだ生きておると思うとったか」

「あの乙女とは、そなたのことではないのか?」

 ほほと、吐息に混ざった笑いが魔女の半開きの口から漏れた。

「儂は記憶を継いだだけ。そなたの子らと同じ『贄』よ。親を見失い、腹を空かせて森を彷徨い歩いているところを、先代の魔女に拾われた。この、緑の目を授かった……」

「わからぬ」

 ジェラルドは魔女ににじり寄った。

「何に対する『贄』だ? 記憶を引き継ぐ? 何のために? ――ユッテとカミルに、そなたは何をさせようとしている?」


 しかし、応えはなかった。

 魔女は唇を震わすだけで、ゆっくりとしわがれた瞼を閉じていく。全身が徐々に弛緩していき、もはや魂は半分抜け出ているかのようだ。

「……と、いったかの……」

 顔に顔を近づけねば、もはや声として聞き取ることもできぬ。

「なんだ?」

「……ぬしが、名付けた……白チビの……」

 閉ざされた瞼の裏で、目が、その姿を追うかのように上下に揺れる。ジェラルドはためらいつつ、舌打ちしたい気分を堪えて小さく囁いた。

「ハインツか」

 魔女が、かさついた口内で、舌を動かす。その名を呼ぼうかとするように。

「……まさか名をもらうとは、の。……代わって、礼を言おう」

 細い息がふうと、最後の力と共に魔女の口元から漏れていった。


 ジェラルドはしばしその顔を見つめていた。朽ち果てた暗い小屋の奥に横たわる、もう屍となった魔女の姿に、小さく溜息をついて眉根を寄せるのだった。

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