10 衝撃

 ──わずかに時はさかのぼる。


 明け方に黒狼の襲撃で目を覚まし、それを振り切る際に夫とはぐれてからひたすら北へと単騎で駆けていた道は、丘陵を駈け上がり、そして岩肌がむき出しになった険しい山道に変容していた。


 アマリエは、しばし馬の脚を止めて胸元から簡易に描いた地図を取り出した。

昼頃から降り始めた霧雨に濡れぬよう、自身の外套の内に囲うようにして地図を広げる。この地図は自分自身で城砦から持ち出したものだが、昨晩ジェラルドに聞かされた「魔女の小屋」の位置も描き写してあった。何度か確かめたが、道も方角もいまのところ間違っていない。魔女の小屋はこの峰を一つ越えた先で、このまま走れば日没までにはたどり着けそうな距離だ。


 アマリエは地図を折りたたんで再び胸元に収めると、軽く馬の尻を蹴りゆっくりと進み始めた。雨のせいで地面の状態は酷く悪い。見たところ、この先の道は細く片側は下り斜面になっていて、脚を取られでもしたらそのまま馬ごと転がり落ちてしまいかねない。それでも気持ちは先へ先へと酷く急いていて、そろそろ食事を取らねばと思いつつ、騎乗したまま干した木の実を噛み砕くことしか出来なかった。


 ――ユッテとカミルは、無事か。

 アマリエの心を占めるのは、まだ幼い二人の愛児の姿。それだけだ。だがその思いがうねる隙間に、ふと背後を振り返りたくなる衝動に駆られる。


 ――ジェラルドは。

 夫は、自分を先に行かせる為に黒狼の群れの中に残った。先に行け、北だ、と、そんな声に押されてアマリエは夫の姿を振り切った。


 ジェラルドの武勇はアマリエもよく知っている。幼い頃から武芸に励み、剣でも槍でも馬術でもその技量は他の騎士の追従を許さず、二十代の若さでこのウルムヴァルド王国騎士団を任されたほどだ。だが、ゆうに百を超える狼の群れにただ一人で立ち向かい、本当に無事でいられるものなのか。


 アマリエのそんな迷いが伝わったのか、馬の脚がいつのまにか止まっていた。それに気づき、アマリエはぶるると首を横に振った。霧雨に濡れそぼった外套のフードから水しぶきが飛んだ。


 再度馬の腹を蹴ると同時に、意識を背後から前方に戻す。今は、幼いユッテとカミルの方だ。ジェラルドは自分でなんとかするだろう。そもそもが、ジェラルドの自分勝手な振る舞いと思い込みが、今日のこの事態を引き起こしたのではないか。


 魔女との取引のせいで子を連れ去られるなど、父親として失格にすぎる。

 ジェラルドは自分の命を代償としていたと言うが、それも言い訳にならぬ。

 魔女の企みを見抜けず、ましてやその使いであるという少年を拾い、今まで近くに置いて自由にさせていた。あまつさえ「ハインツ」という名さえ与えて。――どこまで間抜けなのか! 


 アマリエは苛立ちに口の端をぎりりと噛みつつ、馬の脚をやや速めるよう手綱を制御した。馬は細いぬかるみに怖じ気づいているようだが、あえて無視するように前へ前へと進ませる。


 だがアマリエの中でも、そのハインツの顔を浮かべると、まだ「信じられぬ」という気持ちのほうが勝った。


 ジェラルドが「森で拾った」とハインツを連れ帰ってきたとき、ハインツは言葉もろくにしゃべれぬ、酷く痩せて薄汚れた子どもだった。だが飢えた浮浪児特有の周囲に対する怯えや暴力性はかけらも持たず、綺麗に洗って身なりを整えてやれば、その白金色の輝く頭髪も相まって上流階級の子のような上品さも感じれられた。


 言葉が不自由だったことから当初は知恵の遅れも疑われたが、要するに、人間の言葉を知らなかっただけなのだ。人の言うことを聞いている内にすぐに覚えて発音できるようになり、会話に不自由はなくなった。アマリエが試しに文字を教えると、これもすぐに読み書きができるようになった。むしろ人間の子どもよりも知能は優れていたと言っても良いだろう。


 武芸よりも本に興味を持ったので、アマリエの学術研究を手伝わせてみるとこれまた水を得た魚のようにみるみるうちに吸収していく。教師役を務めるアマリエにとって、ハインツの「できのよさ」は喜びでもあり楽しみでもあった。


 子ども達の世話も、よくしてくれた。最初は双子が産まれたためなかなか構えなくなった長女のローザの遊び相手をしてくれ、双子達が歩けるようになると、互いに別方向へ進む二人を追うのにハインツの手が欠かせなくなった。朝から晩まで二人に引き回され、それまでは素直なよい子だったのがさすがに不平不満、嫌みや愚痴を言い出すようになり、双子の母として悪いとは思いつつも、それもハインツ自身が遠慮なく自分たちに親しんでくれている証拠のような気がして、アマリエには嬉しかった。


 アマリエにとって、ハインツはもう一人の息子のようなものだった。家族の一員だったのだ。それが――裏切られたと思うのは、あまりに自分たちが浅はかすぎたのだろうか。


 だが今でも、あのハインツならば、ユッテとカミルに手ひどい扱いはすまい。アマリエは心の奥底でそんな一縷の望みを繋いでいる。城砦でともに暮らした五年間はけして短い年月ではない。まだどこかで、ハインツ自身の良心を信じたい気持ちにアマリエは縋っていた。だがそれも……自分たちだけの思い込みだとしたら。


 もう一度、アマリエは唇を噛んだ。血が、滲むほどに。


 物思いに耽る内、アマリエを乗せた馬は一つの坂を登り切っていた。降りしきる雨の中、ふとアマリエは音に気づいて左手の斜面を見上げた。


 ざざっと、何か重量あるものが落ちてくるような音。雨のベールが邪魔して視界は良好ではなかったが、目をこらすとそれは人の姿だった。

 斜面の上から、何かを叫びながら人影が滑るように降りてくる。その声にアマリエは震えた。薄暗い中でも見間違えるはずのない――あの、白金の頭髪。


 アマリエは反射的に、弓に矢をつがえていた。

 ヒュン!

 狙い通り、矢は人影の目の前を至近距離で横切った。


 体勢を崩した人影――それはもう見間違えるはずのない、ハインツの姿だった――は上半身から斜面の下に向けて倒れ込む。だが常人ではない脚力で地面を蹴り高く飛び上がると、そのまま空中でくるりと回転し地面に着地する。


 ヒュン、ヒュン!


 その動きを予測したように、アマリエは続けざまに二本の矢を放つ。ハインツの着地点を射てまずは脚を止めようとしたのだ。しかしハインツは反射的にそれも躱した。


 ハインツは、そこでようやく射者がアマリエと気づいたようだ。こちらを見やり、大きく目を見開いている。


「アマリエ様……!」

「動かないでハインツ! 次は胸を狙うわよ」


 アマリエは騎上から再度弓を引き絞り、ハインツに狙いを定めていた。アマリエは低い声で叫んだ。


「ユッテとカミルはどこ⁉」


 まだアマリエは一縷の希望を捨てていなかった。ここでハインツが、従順に双子たちを返してくれたら──。


 だがその瞬間、ハインツの視線が、右手の茂みの向こうに僅かに逸れた。瞬間、アマリエはハインツの逃走を予測したのだろう。──逃げる気か! アマリエの感情が止める間もなく沸騰する。


 ヒュン!


 ハインツの意識がアマリエに再度向いた瞬間、矢は放たれた。ハインツの目に、回転しつつ自分に向かう矢尻の軌跡がはっきりと映った。ハインツの心の臓にめがけ、アマリエは真っ直ぐに矢を放った――。


 衝撃が、ハインツの内側で爆発した。


 飛び上がった。ハインツの意識はそれだけだった。だがいつもより身体は軽く、空気の抵抗、そして重力を感じなかった。身体の節々が繋がり、離れていく感覚。

 ああ、とハインツは思った。

 

 アマリエは目を見張った。人であったハインツの姿は、瞬時の内に一匹の白金色の狼へと変化していた。人にはけしてなしえぬ高い跳躍の末、その体軀は右手側の茂みに着地し、光の残像を残して木々の中へと消えていく。


 再び雨音が、全てを静寂の内に押し込めた。

 ふと、アマリエは何か耳に聞こえた気がして、その気配に意識を揺り起こされた。

 左手の斜面の遥か上から、雨音の合間を縫って泣き声混じりの甲高い声が響く。


「……どこ? ユッテ、ユッテ、……ハインツ、どこぉ……」


 見上げた斜面の縁に、黒い小さな影が揺れるように動いている。母であるアマリエがその声を聞き間違えるはずはない。


「カミル!」


 思わぬ母の声にカミルはびくりと身体を震わせた。とたん、足を滑らせる。あまりにも頼りなく斜面を滑り落ち始めたカミルの小さな姿に、アマリエは悲鳴を上げて弓を投げ捨てた。


 鞍から飛び降り、ころころと転がりながら落ちてくるカミルの真下に走りぬかるんだ斜面に足をかけた。蹴り上げるようにして駆け上がると、アマリエが伸ばした手がカミルの外套の端を掴む。アマリエはそのままカミルの身体を引き寄せ、胸の内に抱き込んだ。二人揃ってそのまま斜面を滑り落ちたが、その下の泥の厚みに救われることとなった。ようやく落下が終わったとき、カミルはアマリエの胸の上で呆然と目を見開いていた。


「……あっ、かあさま」

「カミル……!」


 息を切らせ、泥まみれになった身体で、アマリエは強くカミルの身体を抱きしめた。あまりの腕の強さにカミルは驚いて身を固くしたが、アマリエはしばらく緩めることができないままに、カミル、カミルとその名を呼び続けていた。




第三章に続く

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