9 眠りと、静寂、そして消失

 ……ふと、目を覚ました。


 さあ……と流れるような風の音が霧状の雨を伴って流れている。

 ユッテは手の甲で目を擦る。傍らには生まれる前から聞いていた、カミルの寝息。身動きする度にカサカサと鳴るのは、しとね代わりにしていた枯れ葉が小さく割れる音。薄暗い茂みの中で寝返りをうつと、やけに身体が重いのは着せられたままの古びた外套の重みのせいだ。


 喉の渇きを覚えて、ユッテは起きあがった。ハインツが「置いていきます」と言ってくれた水の革袋を開けて、口元と襟を濡らしながらごくごくと飲み、周囲を探る。ハインツはまだ戻ってきていない。薄暗い茂みの外は、まだ夜のはじめなのか朝になりつつあるのかも判別できなかった。


 ユッテは茂みの隅から顔を出した。周囲は雨の音以外無音だ。この天候のせいで、昨夜は聞こえたように思う獣の声や鳥の羽音も聞こえない。それが急に不安になって、もっと何かが見えないか、聞こえないか、這うようにして一歩一歩、そのまま一人茂みから抜け出た。


 目の前をかき分ける枝葉がなくなり、周囲が開ける。だが、右を見ても、左を見ても、ハインツの姿がない。こわごわ、二、三歩前に進んだり、後ろに戻ったりして探してみるが、どこまで行ったのか、姿ばかりか足音や声も聞こえなかった。


 布のベールのような雨が降り続く。ユッテは身を縮こませて、とりあえず双子の弟の元へ戻ろうとした。いつものようにカミルにひっついて眠っている内に、ハインツも戻ってくるだろう。


 ユッテは再び茂みの中に、這って潜っていった。

 しかしそこが自分が抜け出た茂みと、別の茂みであるとは気づかなかった。


 同じ植物だったのだろう、よく似た枝葉が茂る先は、ゆるやかな下り斜面になっていた。ふいに腕を前に出したとたん急に地面が消え、ユッテはつんのめるようにしてそのまま斜面を転がり落ちた。


 身体が二転、三転。雨に濡れた地面がぬかるんでいたのは天恵だった。ユッテの小さな身体は泥まみれになりながらも柔らかな斜面に転がされて、かなり下った後にようやく枯れ葉の吹きだまりの中で止まった。


 思わぬ事に声も出なかったユッテは、小さく息を何度も吐き、どきどきという心臓の音を聞きながらやがてゆっくりと身を起こした。手足には多少の擦り傷が出来ていたものの、頭に被っていたフードのお陰で顔や頭に怪我は無かった。だが、左右を何度見渡しても、目に映る風景は先ほどの茂みの外とは異なっていた。見たこともない草木の群生、岩影、獣道。


 ユッテは周囲を見上げて立ち尽くした。


 あるいはここで大声を上げ、子どもらしく泣きわめけば、茂みの付近で双子が食べられそうな木の実を探していたハインツに声が届いたかもしれない。だがとっさにユッテが思ったのは、父が、そして自分が、転んで泣くカミルに言った言葉だった。


 ――ころんだくらいで泣いちゃだめ。もう四さいなんだから!


 妙な自尊心がユッテの涙腺を押しとどめた。そう思わせた一つには、ハインツの「ここにいてください」という言いつけを破ってしまった後ろめたさもあったのだろう。


 顔を一度泥だらけの手のひらで擦り、ユッテは口をぎゅっと結んで、転がり落ちた斜面をよじ上ろうとした。が、濡れて泥化した斜面はつかみ所がなく、自分の身長ほどにも進めないまま、何度も何度も滑り落ちる。

 やがて何度目かの挑戦の末に登って戻ることを断念すると、ユッテはしばらくその場に座り込んだ。


 徐々に雨雲の下からでも分かるほどに夜が天を覆いかぶせはじめ、雨も一向に止む気配がない。暗くなりつつある周囲を見て、ユッテは――この道は知ってる、という奇妙な既視感を覚えるようになった。


 ……この道は、茂みで休む前にハインツとカミルと三人で通った道だ。あそこから、こう来て、あっちに行った。そこで坂を上って、茂みの中でお昼寝をした。――そう、だからあっちの道! あっちに行けばカミルの所に戻れる!


 ユッテはそう判断し、飛び上がるようにして立ち上がると「あっち」と決めた獣道に向けて駆けだした。


 ――それが、まったく見当違いな判断だったと気づく間もなく。


 ユッテの姿は薄暗い雨の中、知らぬ道の茂みの中にそのまま消えていったのだった。

 



 さあ……と流れるような風の音の中に、ふとざわっとした気配を覚えてハインツは周囲を見渡した。


 雨の勢いは強くはないが、肌にまとわりつく細かな霧雨と湿気が煩わしい。枝葉を揺すると一斉に水滴が落ちてくるのも面倒だ。ハインツは草木の群生の中で、少々酸っぱさのある青紫色の実のなる木を見つけて、その実が茂る細枝ごとぽきりと折ったところだった。


 何か、聞こえた。雨の中で獣たちの気配がない中、何か大きなものが滑り落ちるような――。その後の静けさにも不自然さを覚えて、ハインツは急ぎ双子達の眠る茂みに足を向けた。


 茂みの前には、ぬかるんだ地面に小さな足跡が残っていた。双子二人分ではない、一人分。茂みの前でウロウロと何歩か行き戻りしつつ、その足跡は別の茂みへと向いていた。嫌な予感に、まずハインツは二人を寝かせた茂みを覗いた。


 ――いない!

 薄暗い茂みの中には、カミル一人の姿しかなかった。ハインツは茂みに突っ込んだ頭を急いで引き抜く。そして周囲を見渡し、声を上げた。


「ユッテ様! ユッテ様⁉」


 その声に、茂みの中でカミルが身じろぎした。だがハインツはそれにも気づかず、足跡が向かった茂みを乱暴にかき分ける。

「……!」

 茂みの先は、すぐに急な下り斜面になっていた。踏み外しかけた足をなんとか踏みとどませる。一瞬彷徨った視線が、遥か斜面の下の、グリータの外套を羽織った小さな姿を見つけていた。


 ――落ちたのか⁉

「ユッ……!」


 声をかけようとしたその瞬間、小さなユッテはすくっと立ち上がった。その勢いの良さに、無事か、とハインツが安堵したのもつかの間。


 ユッテはそのまま真っ直ぐ、全く反対方向の茂みの中に駆けて行ってしまったのだ。


「ユッテ様!」


 ハインツは飛び出し、滑るようにして斜面を下った。器用に途中に生える草木を避けつつ、まだユッテの姿を目で追えるぎりぎりの距離で下っていた――その時。


 ヒュン!

 鋭い閃光がハインツの目の前を至近距離で横切った。


 霧雨の中、色を失った風景の中で、ハインツをめがけて放たれた、それは矢であった。

 思わず体勢を崩したハインツが、上半身から斜面の下に向けて倒れ込む。だが常人ではない脚力で地面を蹴り高く飛び上がると、そのまま空中でくるりと回転し地面に着地する。


 ヒュン、ヒュン!


 その着地点をめがけ、さらに矢が飛んできた。息つく間もなく後ろに飛びすさりようようかわした先で、見上げた一騎の騎影。

 ハインツは、自らに向けて弓をつがえている人物を見て、大きく息を飲んだ。

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