8 二人の後継者

 ――時はゆっくりと過ぎていった。


 人の営みに例えるなら、産まれた子が育ち成長して伴侶を得、その間に子も産まれ、やがてさらにその子が子を産むほどの年月。

 あらがえぬ事とは言え、大狼も乙女も老いてゆき、やがて寿命を迎えようとしていた。齢を聞けば「そろそろ八十になろうか」と笑って大狼は答え、乙女も水辺を覗き込んで、皺だらけの顔を「婆ぁになったの。もはやこれは、魔女じゃ、魔女」と笑いながら称した。


 先に倒れたのは、大狼の方だった。四本の脚でその巨体を支えられなくなり、ねぐらから出られなくなるとみるみるうちに痩せて、小さくなっていった。毛並みは白金の輝きを失い、落ちくぼんだ赤い目も、その張りのない毛皮の中に埋もれていった。

 狼は、彼が愛した乙女――魔女を、手近に引き寄せた。

 だが、別れを覚悟した魔女は、大狼の袂で眠る一匹の小さな存在に気づいた。


「……われの代わりに、この仔を」


 まだ毛も生えそろわぬ、目も開かぬ仔狼が身体を震わせている。昨晩、群れの雌が産んだ中に、黒狼の仔らに紛れてこの仔は産まれたのだという。大狼と同じ、白金色の毛を身に纏って。


「そなたの種か? なんと。今にも死にそうな顔をして、まだまだ若いではないか」

 老婆の冗談に大狼はくぐもった笑い声をたてて否定した。白金色の大狼が寿命が尽きる頃に、群れの中に突然同じ毛並みを持つ仔が産まれてくるのだ。血のつながりはない。白狼は、けして黒狼との間に種を繋ぐことはできないのだという。


「次の白き王だ。そなたの手で育ててくれ」

「……なんと」

 大狼は口で白い仔狼の首の後ろをつまみ上げ、そのままついと魔女の眼前に差し出してくる。

「わたしも、もうじき死ぬぞ」

「それでもまだしばらく命はあろう。たのむ、ほんの少しの間でいい……」


 その言葉を残して、大狼は目を閉じた。その目はもう開かれることなく、月の光のような白金色の毛皮も、すでにその色を失っていた。


 ――われは生まれ落ちた瞬間から、ひとりであった。

 ――黒狼の乳を飲んだこともなく、寒い夜に身を寄せて温めあうきょうだい達も知らぬままだった。


 生涯を孤独に生きる白金色の狼。次代の狼も、その定めを辿るのか……。


 仔狼を小屋に連れ帰り、山羊の乳を飲ませながら、魔女は先代の大狼の孤独を一筋の涙で哀れんだ。


 やがてさらに時は過ぎる。

 魔女は大狼──成長したかつての仔狼──と共に、一度だけ森を降りた。

 身体の老化は進み、老いさらばえた足腰はすでに立たぬ。食事もろくに喉を通らず、皮と骨ばかりに痩せ細った魔女は、大狼の背に乗って、夜の間は月の光の下を、昼の間は木漏れ日の下を駆けた。


 そして小さな里の、焼け落ちた跡にたどり着いた。山火事が起こったのだろうか、それとも村同士の諍いか盗賊団の襲撃にでも遭ったのか。十数戸ほどの民家は石積みの部分を残して全て燃え尽きており、周囲はいまだ立ちこめる煙で息苦しい。見渡せば、逃げ遅れ炭化した人影がいくつもある。

 魔女はそこで大狼の背から降り、近くの石に腰を下ろした。大狼は焼け跡の匂いを嗅ぎ、前脚で地面を掻いて、しばらく付近をうろつき回ったあとに、一件の半壊した家の前に立ち止まった。小さな声が、老婆の耳にも聞こえた。


 崩れおちてはいるが奇跡的に延焼を免れた瓦礫に大狼は鼻先を突っ込むと、思いもよらぬ怪力で勢いよくはね除けた。何度も何度も右に左に瓦礫を投げ飛ばす。そのたびに、小さな声はだんだんと声量を増してくる。最後の板塀の残骸を大狼がはね除けたとき、声はその下から響き渡った。瓦礫のちょうど隙間に挟まる形で、毛布に包まれた赤子がまだ生きていたのだ。


「おなごか。ちょうどよい」


 大狼が毛布ごと咥えて引きずり出した赤子を抱き上げ、魔女は呟いた。

 付近に生者の気配はなかった。この赤子の親も家族も赤子の生存を知らずに立ち去ってしまったか、その辺りで苦悶の表情を浮かべた焼死体となっているのだろう。


 魔女は、泣く赤子を抱え上げた。赤子は一度だけ大きく、青い目を見開いた。しかしその額に魔女が己の額をつけ、何事か唱える間、恐ろしさのあまりかぎゅっと瞼を瞑る。魔女は声にならぬ、うなりのような発声をしばらく続けていたが、やがてその声が掠れ、途絶えた。力を失ったかのようにその手から赤子を取り落とす。地面に叩きつけられる直前、大狼がその子を咥えて拾い上げた。赤子は再び大きく泣き始めた。大粒の涙が、宝石のような緑の瞳からこぼれ落ちていった。

 魔女は、その顔を見て、かすかに微笑んだ。


 力の伝承を経て、赤子は魔女の知識と記憶を、その緑の瞳と共に受け取ることとなった。

 魔女はその場に崩れおちた。魔女の瞳はすでに色を失い、なにも映すことなく、やがて身体ごと朽ちはてていった。





 ハインツの話を、ユッテもカミルも黙って聞いていた。意味を解しているかは定かではない。ぽかんと口を開けた顔は話に没頭しているようにも、眠くて上の空のようにも見えた。ハインツ自身も、難しく話しすぎたかと内省する。

 とうとう降り始めた霧のような雨が、徐々に風景を灰色に変えていく。濡れた地面は滑りやすくなり、ユッテもカミルも何度も足を取られて尻餅をついた。ようやくハインツが休息に使えそうな茂みを見つけたのは、正午を少し過ぎたあたりだった。


 道なりはしばらく前から、なだらかな丘陵、そして峻峰ランゲに繋がる険しい山道にさしかかっていた。

 ハインツが双子達を休ませたのは起伏に富んだ斜面を上り下りした先の、やや広い窪地の茂みの下で、細く柔らかな枝葉がちょうどよく雨を遮り、腐葉土の上に被さった朽ちかけの葉はふかふかと柔らかだ。天然の寝床に二人はやや興奮しつつ転がり込み、ハインツが水の革袋や干し肉を取り出すと、とたんに両わきから群がってせがみはじめた。しばらくそこで三人は食事を取ることにした。


「眠いですか?」

 満腹になった二人は、そう聞くまでもなく重たげに瞼を半分落とし、ごろりと倒れるように横になっていたが、それでもふるふると首を横に振る。

「眠くない」

「ないよ」

「嘘おっしゃい。ちょうどお昼寝の時間ですから、そのまま寝てていいですよ」

「いやー」

「いや」

 双子達は顔をしかめて抵抗するが、身を起こすようなことはない。防寒のために外套は着せたまま、サンダルも履かせたままにした。ハインツはしばらく二人がせわしなく、しかし気だるげに動いたりだだをこねるのを横で無視していたが、やがて静寂が訪れ、降りしきる雨の音しか聞こえなくなった。


 ようやく寝たか、とハインツがちらりと横を見やると、二人共に寝転がったまま緑の瞳をぱっちりと開いてハインツを見上げていた。


「まだ起きてまし――」

「ねえ」

 遮るユッテの声には、いつもの声とは違う低い重さがあった。

「……なんですか?」


 ややハインツが口ごもったのは、その口調が魔女グリータのものに一瞬聞こえたからだ。気のせいだ、と思いつつ。黙り込んだカミルの静かな視線も、対象を見ているようで見ていない、グリータのうつろなそれによく似ていた、ように思えた。

 ユッテは小さく、しかし鋭い声で聞いた。カミルも、それに続いた。


「ユッテとカミル、『ひとり』になるの?」

「おはなしの、『まじょ』になるんでしょ?」


 聞かれ、何と言うべきか迷いながら、ハインツは二人に寄り添うように横になって向き合った。


「そうです。グリータが、あなたがたのお父様と契約したんですよ」

 ……騙されて。とまでは言わなかったが。


 けいやく? と二人はきょとんとする。


「アマリエ様――お二人のお母様が、昔ご病気で倒れられたのはご存じですか? ……知らない? まあ産まれる前の事ですものね。熱病に冒されたのです。お医者様もなすすべないと匙を投げていたところ、『森の魔女』の話を聞いたジェラルド様が一縷の望みを託してグリータの元を訪れたんです」


 昨夜から何度目の話だろう。語るハインツの方はそろそろ飽きてきていたのだが、ここに来てようやくユッテとカミルの頭の中に、その内容が伝わりはじめたようだ。


「――グリータは、自分の寿命がそろそろ尽きるだろう事を察知していました。実際に何をしたのか、僕は知りません。アマリエ様に飲ませろとジェラルド様に渡した薬に何か細工をしたのかもしれませんし、その場で別の呪術をかけたのかもしれない。ともあれ、アマリエ様の病はグリータの薬で治りました。そのおかげで、お二人は生まれることができたんですよ。そしてその時、『魔女』の力は一時的にアマリエ様に渡り、そしてそのままお二人に受け継がれたのです。その証拠が」

 ハインツは二人の頬に手をやり、同時にぐいっとその手を軽く押した。反動で見開いた大きな目の、おそろいの緑色。

「この瞳です。グリータと、同じ色。……でも」


 ふっと、ハインツは苦笑する。


「まさか、お二人ともに受け継がれるとは思ってなかったんですよ。代々の魔女は一人だけ。それがどうして……」

「どうして?」

「ふたりとも、『まじょ』なの?」

「さあ」

 僕にも分かりません、とハインツは突き放した。


 話は終わった、と、ハインツは茂みを抜け出した。追いかけたそうに手足をばたつかせる双子の頭を軽く押さえ、「寝ててください」と小さく囁く。


「今日のご飯を獲ってきます。ここにいてくださいね」


 二人はしばらく不満げにうなり声を上げていたが、ハインツがそのまま茂みから去り、振り返る様子がないのを見つめて、互いにすり寄るように再び横になった。お互いの寝息を聞き体温を感じながら、夕刻でもないのに霧雨に徐々に色彩を失っていく風景は、この上なく二人を静かにさせていた。

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