7 魔女と大狼
グリータの洞穴で目覚めた時には、すでに夜が明けていた。
まるまる一晩、ハインツは双子達の温もりに囲まれて眠っていたのだ。それに気づいて身を起こしたときは、けだるさと、妙な気恥ずかしさと表現しがたい安堵感を自覚して、しばらくハインツはぼんやりと双子達の寝顔を眺めていた。
が、ユッテもカミルも、静かなのは寝ているときだけだ。やがて自然にその瞼を開けると、のどがかわいた、おなかがすいた、おしっこと、両側から一度に要求を投げてくる。それらにハインツは順に、時にはいっぺんに対応しながら、目覚め時に感じた物思いに心の奥で蓋をした。
昨日編んだサンダルは双子の足にちょうどよく入った。その前に裸足だったため無数の傷を負った足の裏とつま先に、洞穴の中にあったグリータの薬草を当ててやる。しみるだの臭いだの双子達には不評だったが、無視して薬草の上から布で巻くと、大人しく双子達は従った。
外は、昨日までの晴天はどこへやら。暗く厚い灰色の雲に覆われていた。北から吹き付ける風が急に冷気を伴っている。
「雨か」
そうハインツが呟けば、雨? 雨? と天気一つでまたユッテもカミルも騒ぎ出す。洞穴の入り口の木戸を開け、薄暗く、湿り気を帯びた風が草木をざわめかす様子を二人に見せている間、ハインツは洞穴の木箱の中からグリータ用の黒ずんだ外套を二つ取りだした。
「これを着てください」
幼児の彼らに、腰の曲がったグリータの外套は裾の長さもぴったりだ。厚く織った羊毛の外套は重く、匂いも足の裏に塗った薬草のそれとは比較にならぬほどすえた酷いものだったが、着て外に出ればたいして気にならないようだった。昨日までと打って変わった肌寒さから身を守る方が二人の中でも優先されたらしい。ぎゅっと襟元をしめたり、フードを被ったり外したりしながらきゃっきゃと飛び跳ねている。
なんで子どもというものはあんなに跳ねたがるのだろうと思いながらも、ハインツは自分用にも、と、小屋の中にあった一番大判の布を広げた。中央に穴を開けそこに首を通し、残りの布地を身体に巻き付け腰をベルトで巻くだけだ。裾はなんとか膝下まで足りた。布は薄く、所々ほつれて穴も開いていたが、腰巻きだけよりは寒さをしのげるだろう。
他にも貯蔵してあった木の実、干し肉、干果などの食料と煎じてある薬草を持ち出し、革袋に飲み水を満たしてから洞穴の戸を外から閉めた。おろしたてのサンダルを履いたユッテ達の手を取り、「行きますよ」と告げた。
道すがら、ハインツはゆっくりと双子達に事の次第を説明する。
「――あなたたちはね、『贄』なんです。お父様との取引で、お二人を頂いたんですよ」
「ねえ! この枝かっこいい! とうさまの剣みたい! 持っていっていい?」
「あの虫おっきいねえ! ハインツ、とって! とって!」
「……二人とも聞いてますか? 虫? ああ、あれは駄目です。お尻の所に針があって、刺されると痛いですから」
「えー、痛いのはいやぁ」
「ね、もっと長い枝ない? とうさまはやりも持ってるの!」
「カミル様、危ないです。その棒、振り回すのならとりあげますよ」
「やだー! ぼくの剣!」
相変わらず、興味の対象がすぐに足下の枝や飛んできた虫、ときおり木々の間から顔を覗かせる鮮やかな花に気を取られるユッテ達だ。しかし白金色の大狼と森の魔女の話のさわりをハインツが口にしたとき、二人とも大きな目を見開いた。
「まじょの話、知ってる!」
「ねえさまがいつも話してるの!」
二人の姉であるローザが、寝物語に子ども部屋で二人に聞かせている姿を、ハインツも見たことがあった。
「こわい話だ」
カミルはそう言い、「みんな死んじゃうの……」と呟いて、結末を思い出したのかひいんとべそをかきだした。ユッテはそんなカミルの頭を、無言でぐりぐりとなで回した。なぐさめる、というには少々力が入りすぎている。
「そう、乙女の家族は炎に焼かれて、みんな死んでしまうんですよ」
ローザはこの部分にいつも憤慨していたな、とふとハインツは懐かしく思い出す。恐慌状態に陥った村人の暴虐を、まるで今まさに目にしているかのように頬を膨らませて鼻息を荒くするのだ。
興奮したローザの姿に恐れをなしてしまうのか、寝物語で聞くときの双子達はここで毛布を頭まで被って眠ろうとしていた。それゆえ、ハインツがその続きを語り出したとき、初めての話を聞くときのようにユッテもカミルも食いついてきた。
「おおかみさんが助けにきて、おわりじゃなかったの?」
「ねえさまが言わないから、ユッテがいつも『めでたしめでたし』って言ってたのよ」
そこで終わってはまったく目出度くないじゃないか、とハインツは心のうちで吹き出す。ふっふ、と息を整えてから、二人に向かって話を続けた。
「狼は……そのまま乙女を森の奥に連れて行きました。大やけどを負っていた乙女の傷が癒えるまで、二人で静かに、森の深くで暮らしたのです」
「やっぱり、めでたし、めでたしぃだ」
ユッテの生真面目な合いの手に、笑いつつもハインツは首を横に振った。
「話は、これからです」
曇り空の下、昼中というのに薄暗い獣道を三人並んで歩きながら、ハインツはとつとつと語りはじめた。
その後、白金色の大狼は乙女を片時も離そうとはしなかった。
乙女もまた、火傷に傷ついた身体を狼の毛皮の中に埋め、永い永い時を二人は寄り添って過ごすことになった。
乙女は動けるまでに回復しても、もう人里に帰ることはなかった。狼が獲る獣の毛皮を纏い、その肉を焼き、種を拾って木の実や果実、穀物を育ててそれを食べた。折れた木の枝を組み合わせ、または水の湧く洞穴を見つけ、狼と共に暮らすねぐらを整えた。白金色の大狼は、そんな乙女の姿をじっと見守り、常にそばに控えていた。眠るときはその毛皮で彼女の身体を包みこみ、朝日が昇るとその頬を舐めて、くすぐって目覚めさせたりもした。
白金色の大狼は、常に一頭だった。不思議に思い、乙女は尋ねたことがある。同族はいないのか、そなたの群れの仲間はいないのか、と。
大狼は一声鳴くと、周囲の森から幾多の気配が集まってきた。夜であったが、乙女は周囲の木々の間に、無数の赤い目が光るのに気づいた。数十、数百の狼の群れ。全ての狼は闇夜の帳を溶かしたかのような漆黒の毛並みをしていた。その中に白金色の大狼が混ざる様は、夜空に浮かぶ満月のようでもあった。
「われの群れだ。われはこの群れを統べ、守るために生まれた」
大狼は喉の奥から人の声で、そう語った。
その言葉通り、大狼が一声鳴くと、黒狼たちは次々にその声を追って鳴き始めた。夜の森が、狼たちの遠吠えで、さざめき波打つ。どこまでもどこまでも広がる生命の波動。野生の潮流。押しつぶされそうな予感に、乙女はふいに目を閉じた。魂が、そのまま地の果てまでも流されてしまいそうな低い共鳴の遠吠えだ。
だが、もう一度目を開けたとき。
黒狼たちの姿は消えていた。数百の群れは、白金色の大狼と乙女を残して夜の闇に吸い込まれたように、消えていた。たった一頭残された大狼は、優しく、乙女の頬を舐めた。黒狼たちの白き王は、静かな表情を浮かべながら、一頭、夜の中に取り残されていた。
「……ひとり、なのね。そなたも」
白金色の大狼の超常の力は、群れを統べ守るために宿される。
だが、その力故、大狼は孤独に落とされるのだ。
黒狼の誰もが、白狼には近寄れぬ。闇夜が月を忌み嫌うように。故に、白狼は孤独であった。黒狼の中から突然生まれ、誰が母かも分からぬまま、孤独に育つ。どの雌も、彼の種を宿すことはない。一頭で生き、一頭のままで死んでいく。それが白金色の大狼の宿命であった。
乙女は、そっと手を伸ばして大狼の首を抱いた。月の光のように輝く毛の中に指を埋める。その奥に、確かな温もりが存在した。
「わたしも、ひとり」
「われも、ひとりだ」
そして、二人は――狼と乙女は、ひとつになることを誓い合った。
互いの孤独を、互いで埋めよう。命続く限り、つねに共にあることを。
白金色の大狼の力が、その夜、二人の定めを固く結び合わせた。
「……おともだちになったの?」
「なったの?」
獣道に覆い茂る草木を片手で払いのけながら、双子達の問いにハインツは頷いた。
北から吹き下ろされる風はやや収まったが、代わりに冷たい湿気が周囲の気温を下げている。さきほどから小さな雨粒が額や手の甲にひやりとした感触を植え付けはじめていた。そろそろ雨やどりの準備をしなければならない。
ハインツは周囲を見渡し、雨風を避けるにあう場所を探しながら、話を続けた。
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